『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』

来週公開の『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』の予習として『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』を観た。
前作は飛行機の中で観てなかなか面白かったけれど、続編を映画館で見るほどではないかなー、という感想だったのでDVD待ちになってしまった。

雰囲気としては『マイティ・ソー バトルロイヤル』と同じような、コミカルな掛け合いと勢いで推していく感じ(あれよりも下品な台詞が多い)。
こういう映画と、ハードで重いテーマを持った『キャプテン・アメリカ』シリーズが同じ世界観にあるのは、マーベル映画(MCU)の懐の深さなのか、多様性なのか。
『アイアンマン1・2』ぐらいの「シリアスさの中にどこか能天気な明るさがある」というくらいのテンションが一番好きなのだが、「宇宙」を舞台にしている時点で、突き抜けないといけないのかもしれない(「地球」が舞台の『ドクター・ストレンジ』や『スパイダーマン ホームカミング』はわりとバランス取れている気がする)。

80年代のアメリカのエンタメ文化が主人公のバックグラウンドにあるせいか、カート・ラッセルとかシルベスター・スタローンといった、あの時代の人たちがキャスティングされているのは多分、狙っているんだろうな。
あと、デビッド・ハッセルホフ(言わずと知れた『ナイトライダー』の主役)も本人として出てくるんだけど、『テッド』でも『フラッシュ・ゴードン』の話に主人公たちがやたらテンション高くしたり、ゴードン役だったサム・ジョーンズが本人役で出てきたり、最近のアメリカ映画は80年代懐古主義みたいになっているんだろうか。自分はそこにあまり思い入れがないので、いまいち楽しみ方がわからないのだけれど(あ、考えてみたら『テッド』はクマが、こっちの映画はアライグマが、どちらも口汚いセリフを吐くという共通点があった)。

とはいえ、派手なアクションと個性的なキャラクターに、きちんと家族の物語を描いていて、単体のSF映画として面白かった。
「地球」組のヒーローと比べると、なんでもアリの強さなので、どう整合性を取るのかも含めて『アベンジャーズ』は楽しみ。

真実とFAKEの間

佐村河内守の名前を知ったのは、当時、まだ現代のベートーヴェンとして注目を浴び始めたばかりの頃だった。

ちょうどその頃、日本コロムビアの人と仕事をしていて、その人が「いやー、ウチの佐村河内守が話題になってましてね」と得意げに話したことを覚えている。
その時に、コンサートだかCDのチラシをいただいてプロフィールを見たら、耳が聞こえないのにすごい曲をつくる天才作曲家ということが書いてあった。もっとも僕が興味をもったのは「鬼武者」の作曲家だったというところだったけれど(鬼武者、「2」しかやってないけれどね)。
その後、僕は例の「交響曲」を聴くこともなく、その名前も忘れていた頃、佐村河内騒動を文春で読んで、「ああ、あの時の!」と驚いたのを覚えている(名前でわかりますよね)。それから、あの「絶対聞こえてるでしょ」的な会見も見たし、影武者だった新垣氏が面白キャラとして各種バラエティーに出たのもいくつか見た。

“佐村河内守”名義でつくられた曲を全く聴いていない身としては、とくに騙されたとも、卑劣だとも思わなかったが、文春で最初に問題になったのは「義手のヴァイオリニスト少女を金目当てに利用した」というものだったはずで、それが本当ならひどいな、と思っていた。
それからメディアの報道としては、佐村河内氏の耳が聞こえるのか聞こえないのか、という点にシフトしていったので、善人のように扱われた新垣さんだけが得をした感じで自体は収束した感じがしていた。

後に、佐村河内守を撮ったドキュメンタリー映画として『FAKE』が公開された。
僕はどうしてか忘れたが、この作品を興味をもって渋谷に観に行ったのが2年前のこと。

前置きが長くなったが、なぜ今さらこの話を書いたかというと、『FAKE』の監督である森達也氏の著作『ニュースの深き欲望』を読んだからだ。
『FAKE』は初めて観たドキュメンタリー映画だったが、すごく面白かった。熱量の高い映画だった。観客が満員だったので驚いたのもよく覚えている(ドキュメンタリー映画でそんなに人が入るとは思わなかったから)。

ネタバレってあるのかわからないけれど、この映画の中で佐村河内氏は森氏に薦められて自ら作曲を行う。僕はその出来栄えに「自力で結構作れるんじゃん!」という感想をもったが、それすらも「FAKE」である可能性を感じさせる演出もあり、結局、佐村河内守は稀代の悪党なのか、新垣さんばかりが善玉なのか、そのあたりが映画を観たことでより一層曖昧になった。
ただ、この一連の問題について、より考えるようになったのも確かだった。

森監督は『ニュースの深き欲望』の中でこう述べている。

情報にはそもそもフェイクな領域がある。ただしこのフェイクを、単純に「=(イコール)嘘」と訳してほしくない。(中略)
世界はグレイゾーンで成り立っている。1か0かではない。多重的で多面的で多層的だ。どのようで見るかで変わる。絶対的な真実など存在しない。

結局はそれに尽きるのだろう。僕らは情報を善悪で考えたりするけれど、それは見方によってあるいは立場によって変わるのだ。客観性を持とうと思っても最終的には主観になってしまう。ただ、それを意識しているか否かで、世界の見方、もっといえば世界への接し方は大きく変わるのだ。

自分は情報にきちんと向き合う姿勢をもっているだろうか。考える姿勢をもっているだろうかと想像する。

森監督の著作はそういうことを意識させる。今の「情報」を考えるのに良い一冊だった。

『ブラック・パンサー』

アフリカの架空の国で、発展途上国と思われているワカンダが実は超文明を持っている、という設定で、その国王がスーパーヒーローという話だが、前半はそのワカンダが舞台なため、開発されるガジェットや、リニアが走る地下都市といったSF描写が、完全に宇宙規模なことが絵空事のようで、舞台が「地球」であることを忘れたりした。
反面、超文明を持ちながらも、部族の儀式や生身の決闘シーンがあったりして、アフリカに対するイメージってこんなだよなー、というものが描かれているんだけど、実際のアフリカの小国ってこんなんだろうか。観ている分には、新たな世界を見学しているようで楽しかったが、「ハリウッド映画の間違った日本」のようにも思える(実際、自分がアフリカについてほとんど知らないことにも気づいたが)。

で、面白かったか、と言えば、とても面白かった。
前半は韓国まで出張って超技術を使ったスパイアクション的に進み、後半はワカンダを舞台に、ハイテク文明を使った部族間抗争を描いていて、飽きずに楽しめた。

それと特筆すべきは、マーティン・フリーマンの存在。
キャラに恵まれたのかもしれないけれど、出てきた途端に「役者の違い」を感じてワクワクするし、彼が合流してからが俄然面白くなった。「なんかやってくれるんじゃないか」と期待させるし、それに違わぬ活躍をしてくれる(元のコミックだと、彼の演じるエヴェレット・ロスはブラック・パンサーのバディ的役割らしいので納得)。『シビル・ウォー』の時はただの小役人っぽかったのに、そのギャップも良い。
改めて良い役者さんなんだなーと思った。

マーベル映画らしい、社会性を持った娯楽作品となっていて、「富を持つものが施すとはどういうことか、得た力をどう使うのか、世界が変わる中でどう立ち居振る舞うのか」、正解がわからないその課題に、どう向き合うべきかを考えさせられた。ヒーローじゃない僕らも、それを考える意義はあるはずだ。
次回はいよいよ『アベンジャーズ』で、宇宙の脅威と戦う話なので、その脅威を前に地球はどう団結するべきか、というフリにもなっているのだろう。

とはいえ、宇宙からの脅威がなくても世界は団結できると信じたい。
その可能性を感じさせるような作品。

アカデミー賞に思う

今年のアカデミー賞が決まった。

昔は「アカデミー賞3部門受賞!」とか「5部門ノミネート!」などの宣伝文句に反応したけれど、最近はそうでもない(観る映画がエンターテイメント系に傾いているからかもしれない)。

でも、受賞した作品や受賞者はやっぱり気になる。
作品賞の『シェイプ・オブ・ウォーター』は、『パンズ・ラビリンス』がちょっと苦手だった(印象には残ったけど)ので劇場では厳しいかなーとか、ゲイリー・オールドマンが初受賞というのは意外だし、でも実在の人物で取って欲しくなかったなーと思ったりした。
そして今、受賞した各部門の作品を調べたら、どの作品も「絶対に観よう!」というものがなくて、それはそれで自分の感性がなんか大丈夫か不安になってきた。
ちなみに今観たいと思っているのは『ブラックパンサー』と『15時17分、パリ行き』。まあ普通のチョイスだとは思う。あと『グレイテイスト・ショーマン』はもう一回劇場に観たい。

で、今一度、17年と16年の受賞作品観たら、そこでも観たいと思うの(実際観たのも含めて)せいぜい2、3作だった。
僕とアカデミー賞はそんな距離感のようです。

気にせず好きなもん観よう。

『グレイテイスト・ショーマン』

『グレイテイスト・ショーマン』を観た。

実在した「サーカス」を作ったP.T.バーナムを主役に据えて、でも内容はフィクションのようだが、夢を追う者の人生がギュッと凝縮されていた。
ヒュー・ジャックマンは、やっぱり主役だなーと思わせる華のあるエンターティナーぶりで流石だったけれど、若き共同経営者役ザック・エフロンの歌が上手くて聞き惚れた。他にも出てくる人たちがみんな歌が上手くて、俳優も今や歌えないとダメな時代なのか、と思う。あと、ハリウッドの人材の豊富さも感じる。

一部のレビューで言われていたように、次から次へと話が進む怒涛の展開で、行間のなさを感じたけれど、それがスピード感を生み出して全くダレずに最後まで楽しめた。楽曲もポップなものが多く、耳に残る。

大作じゃないので、歴史に残るミュージカル映画にはならないかもしれないが、エンターテイメント好きには堪らない作品。
日曜の朝にしては客の入りがイマイチなのが気になったので、もっと多くの人に観てほしい。
観終わった後、「僕も頑張ろう」という気にさせてくれる映画です。

惜しいけど大人の事情が感じられる映画 『カンフー・ヨガ』

『カンフー・ヨガ』を観た。

この映画を2017年の締めに見るのもなんだけど、予告編が楽しそうで、しかも僕がジャッキー・チェン映画の中で一番好きな『THE MITH 神話』の監督(スタンリー・トン)の映画だったので、劇場で観ておこうと思ったのだ(このことからおわかりかと思いますが、昔からのジャッキーファンではありません)。
結果的には、予告編が一番面白いパターンだった。裏を返せば、予告編がちゃんと映画の見どころをつないでいるということなんだけれど。盛り上がるシーンがほぼ予告編のシーン、という結果で残念。

仕方のない話だが、ジャッキー・チェンは老けた。往年の動きからはだいぶ落ちたであろう『MITH』からだって12年経っているのだからスピーディーな動きがキツくなるのは当然だな、と思う。かわりに若手俳優のアクションシーンを多めに入れてあるが、やはりジャッキーの代わりができるほどの魅力はない。
なので、満足度はいまいちだったのだけれど、見方を変えると現代の大作映画の作り方を踏襲した映画になっているな、という感想をもった。

この映画は中国とインドの合作なので、まず両方の国でヒットするように作られた。そのために両国の代表的なカンフーとヨガをメインに据えたのだろう(あと、歌と踊りね)。
それから、途中で唐突にドバイロケが入るのだけれど、これはドバイが自国の観光産業をPRするために資本を出したように思える。カーチェイスシーンもあって相当大掛かりなロケで、ドバイの全面協力が伺える。
またCGが多用されていて、しかもその出来がハリウッドレベルに高いのだが、これは最近中国資本が多く入っているハリウッド映画からの技術流入の関係で、きちんと使ってモトをとれ、という事情がある感じがした。冒頭のシーンは全編CGで、これは少ししょぼいが技術力向上のために入れた感じがする。劇中の奴は超リアルだった。

つまり、この映画は、これら「ヨガ入れてください」「ドバイ紹介してください」「CG使ってください」それから「ジャッキーに継ぐ若手アクション俳優の顔見せをしてください」という要素(=大人の事情)が初めにあって、それを足し算したらできました、というつくりになっているのだ。
そして納期に間に合わなかったか、監督にあまりやる気が起きなかったからか、どれも中途半端で抑揚のない作品になってしまった。これはすごく間抜けだったので書いておくが、エンドロールの途中で音楽がなくなってしまう映画は初めて観た気がする(ちょっと劇場の空気が変になったよ)。

そんなわけで、ちょっと残念な映画ではあったのだけれど、ドバイには行きたくなった(帰りに本屋でドバイの観光ガイド立ち読みしたぐらい)ので、まんまと製作の思惑にのせられており、そういうこともあって嫌いになれない作品でした。

2017年観た映画

今年劇場で見た映画は8本。思ってたより少ない。軽く今思い出した感想を。

『ドクターストレンジ』
マーベルコミック原作もの。ベネディクト・カンバーバッチは、天才、口が悪い、などとシャーロックとキャラクターがかぶる部分が多くあれど、それとは違う演技をしていた。MCU(マーベルシネマティックユニバース)の中では、映像といい、話の流れといい硬派なつくりで、これだけ単体で観ても楽しめると思う。カンバーバッチファンならなおさら。

『ラ・ラ・ランド』
観た直後は最高に楽しい、好きな作品だなー、と思ったけど、直してない。多分、失恋が描かれるから。
結婚したら奥さんと観たい。いつになるのだ。

『相棒 劇場版4』
反町隆史が相棒になったシーズンのテレビ版はほとんど観てなかったのだけれど、新シリーズを観るようになったので、一応、な感じで観ておいた。素直に、ファンなら楽しめる映画だった。
ただ「死んじゃうの?どうなの?」な展開はいらなかったと思う。
あと、反町の浮いた演技も最近では、味として楽しめるようになってきた。それを慣れとも言うが。

『グレートウォール』
今年観た映画を、振り返ろうと思った時に真っ先に頭に浮かんだのがこれ。「中国資本で作ったハリウッド映画」と揶揄されてるのも見たけれど、娯楽作品としてよくできている。映像も綺麗で、スクリーン映えするアクションが多く大画面で観た甲斐もあった(今調べたら、監督チャン・イーモウだった)。アジアの中に欧米人がいてもあまり違和感なく作られているのがRPGの世界っぽくて良い。そしてマット・デイモン無双。

『LOGAN ローガン』
観たこと忘れてたぐらい印象に残ってない。
『ウルヴァリン』最終章としては納得するけど、どうもこれをX-MEN正伝の完結編と認めたくない自分がいる。パラレルワールドの一つの終着点だと思っている。だから忘れたいのかも。そして最強の敵に唖然(悪い意味で)。

『スパイダーマン:ホームカミング』
トム・ホランドのピーターは役柄ピッタリだし、MCUとの関わり方も面白い。ストーリー展開もあっと驚くしかけがあり面白かった。ただ、これは最近のMCU映画全般に言えるが、ラストバトルがやや物足りないのが残念。

『マイティ・ソー バトルロイヤル』
前2作とは全く違うテイストで初めは戸惑ったが、コメディ(というかギャグ)として観ればかなり面白かった。でもMCUに興味なければ全くもってわけわからないだろうな。

『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』
詳しくはこちらで。
EP7からテイストをかなり変えてきた感じがした。あとやっぱりフォースが出てくるとなんでもアリだね。チート。

こう見るとハリウッド大作ばかり観てるな。しかもマーベル率高い。単館上映ひとつもない。来年は10本ぐらいは劇場で観よう。

神話としての「エピソード8」

「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」(エピソード8)を観てきた。初代、つまりEP4は劇場で観てはいないけれど、ハン・ソロの吹き替えを松崎しげるがやった例の奴はリアルタイムで観たし、その後も旧3部作は特別編を劇場で観て、DVDセット(ヘイデンが出てるアレだ)も持っていた。マニアを語るほどではないが、十分スターウォーズ好きではある。

そして、僕はEP1が一番好きという、スター・ウォーズファンからしたら多分変わりものだ。なぜ好きか、っていうと、クワイ・ガン・ジンが大好きだから。オビ・ワンと一緒にダース・モールと戦うシーンは何回でも観れる。あと、政治力が低くて立ち回りが下手なあたりも武人っぽくてカッコイイ。
それと新3部作(EP1~EP3)は大人になってからリアルタイムで体験した「スター・ウォーズ」サーガだけあって思い入れが強いのかもしれない。EP4~EP6と合わせ鏡のようになっている物語展開も(元を知っているだけに)感慨深い。

さて、このEP8を観る直前に、友人がスマホでEP7をダイジェストで観せてくれたので、前作をさらっとおさらいできたのが良かった。忘れてる部分がかなりあって、改めて「面白かったんだなー」と再認識。しっかりとEP4をトレースして、新たな3部作(今度は未来へとつながる物語だ)のはじまりを上手くスタートしたと思う。主人公がくすぶっている前半の冗長さも含め、これぞ「21世紀のスター・ウォーズ」といった作品に仕上がっていた。レイはルークの、ポーはソロの、カイロ・レンはダース・ベイダーの、そしてフィンはレイアとドロイド達、さらにランド・カルリジアンをミックスしたような役割を与えられ、EP4~6におけるキャラクターの肩代わりをする形で活躍した。

そんなわけだから、今回も、満を持してルークが登場するとはいえ、だいたいは予定調和の中で物語が展開するだろうと思っていたのだが、だいぶ様相が変わっていた。

スター・ウォーズの世界をひとことで言ってしまえば「銀河を巻き込んだ壮大な親子喧嘩」なわけで、今回もその背景は続いている。ただ、アナキンの物語やルークの物語と大きく違うところは、選ばれし者が全てを解決してくれるわけではないところ。
神話の中心には、フォースやジェダイや暗黒卿やら、と選ばれし者たちが出てくるものの、今回の映画の中で描かれる物語は、一般兵士同士の戦いだ。だから失敗もするし、「なんだかんだあったけどフォースの力で一件落着する」ということもない。
物語が進むほど、レイ達主要キャラクターは、それぞれ神話の始まりで与えられた役割から外れていく。言い換えればこの作品で「過去作の代理キャラクター」ではなく、独自のキャラクターとして解放されていくのだ。

今まではこの物語の中心は選ばれし親子だったし、結局は親子が和解することで平和が訪れた。それこそが「スター・ウォーズ的なもの」とするならば、この物語の展開は本当に先が読めない。
ただ「スター・ウォーズ」が現代の神話なのだとしたら、この2010年代後半の世相を描いて後世に伝えるという意味では、たしかに神話の役割を果たしている。
正義の戦争などなくなってしまった現代の戦争の背後にある問題も抱えているし、何より一人のヒーローが戦って勝つのではなく、特別な力を持たざる者達が勇気と知恵をあわせて立ち向かう姿が描かれている。それだけに、持たざる者たちが使えるのは数=命であって、玉砕覚悟の攻撃が多めだったのが痛ましかった(そして、それが報われない場合も多々ある)。

EP7が、衝撃的な展開もありながら、それなりに明るい物語に終始したのに、今回ややダークな展開になったのは、昨年の『ローグ・ワン』の影響もあるのかもしれない(あれはまさしく持たざる者たちの物語だった)。また、それこそがどことなく陰を落としはじめている2017年の世相を映す神話の役割なのかもしれない。

壮大な親子喧嘩を中心としながらも、物語の中心は旧作の殻を破ったキャラクターにゆだねられた。この神話に、最後どうオチをつけるのか。最終章が楽しみになるエピソードであるとともに、この神話がハッピーエンドで終わるためにも、公開が予定されている2019年が明るい兆しを持った年となっていることを願わざるをえない。

それぞれの『誰もいなくなった』

テレビ朝日でやってた『そして誰もいなくなった』を録画していたので観た。
原作は未読、過去映像化されたものも観てはいないので「密室ミステリーの傑作」と言われるこの作品を予備知識なしで観られた。

第1夜「事件編」と第2夜「解決編」を続けてみたのだけれど、本来ならば一晩待たなければ「解決編」は観られないわけで、「これ一体どうなるの?」という上手いところで「事件編」は終わっていた。ただ、続けて観てしまうと「解決編」はオマケ感(というか3時間にして1日で終わらせていいじゃないという感じ)が強かった。沢村一樹演じる相国寺警部のキャラで持たせてた。あのキャラはこれだけで終わらせるのは惜しいので、またアガサ・クリスティ作品をリメイクする時にでてくるんじゃないかと思う。

(原作と違っている部分はあるだろうけれど)ミステリーとしては、2017年の今、トリック自体はそんなにあっと驚くものではない。誰が犯人かすぐにわかったわけではないが、だいたいの見当はついたし、偶然性に頼った部分があって、そんなに上手くいくかなーという疑問も。でもこの作品が1939年に書かれたことを考えると、その後のミステリー小説に多大な影響を与えたことはわかる。
トリックの古臭さを人間ドラマの面を推すことで、2017年に放送する難点をカバーしたおかげか、一気に見てしまうほど楽しめたのは事実で、重厚感のある映像も雰囲気があった。

そして何より渡瀬恒彦さんの遺作だったのが、録画してまで観ようと思った一番の理由だ。しかも病気をおしてこの役を演じるというのは、ものすごい神経を使ったのではないかと思う。ご本人の意志と演技がキャラクターとリンクして、ドラマを一層心に迫るものにした。それはある意味“ズルい”(渡瀬恒彦に頼ってしまった)部分はあるけれど、なにか運命的なものなのかもしれない。

 

それから、同じ『そして誰もいなくなった』が原作だというシュワルツェネッガー主演の映画『サボタージュ』を観たのだが、どこらへんが原作なのかほぼわからない(先に聞いてなければ全くわからない)映画だった。共通点は一人ずつ死んでいくところぐらい。ミステリー要素がないわけではないが、別段観る側に犯人探しをさせる気がないくらいのさらっとしたテイスト、「ミステリー風味」。血みどろのシーンが多めのごく普通のアクション映画。つまらなくはないという感想。

それにしてもシュワちゃんは老けた。“円熟味が増した”とか“味がでた”ではなく、単純に老けた。

舞台『リトル・ヴォイス』に期待

ご縁があって、舞台『リトル・ヴォイス』の製作発表会に行ってきた。

『リトル・ヴォイス』と言えば、映画版を公開当時劇場で観た。
ハリウッド大作ではなく、イギリス映画だったせいかロードショーをしておらず、銀座だか渋谷まで観に行った覚えがある。

しかしながら、映画の内容はほとんど覚えていない。
というのも、本編が始まる前にユアン・マクレガー主演の5分程度のショートムービー『Desserts』が併映されて、これがまさかのホラー。
ミュージカルドラマを観にきたはずなのに、ホラー映画を見せられるという展開で、本編の印象が完全に消されている(で、逆に『Desserts』についてはよく覚えている)。
当時を考えると「ユアン・マクレガー人気」のおかげで、この映画も話題になった部分が大きいから、ファンサービスとして併映したのだろうけど完全に裏目だったと思う。

さて、それでも「面白かった」という漠然な感想を持っているこの映画を日本で舞台化するという。主演は大原櫻子さん。
制作発表会の中で、役の“リトル・ヴォイス(LV)”として歌唱を行うシーンがあったのだが、彼女が“役”として登場した時に、映画で観たシーンが蘇ってきた。

思い返してみれば、この『リトル・ヴォイス』という作品は、普段は誰ともコミュニケーションをとれない少女が、レコードを聴くうちにその往年の名歌手の見事な歌マネができるようになって、その才能を見出される、といった内容だった。

引きこもりの彼女がステージにたった途端に、スターが乗り移ったように歌い始める。

その彼女が醸し出す、不安と歌うことの幸せが入り混じった感覚が、大原櫻子の演じるLVから強く感じられた。

しかもこの役の難しいところは、歌をしっかり聴かせながらも、歌マネとしても成立させなければならないということ。歌手としては、自分の個性とマネのバランスをとらなければならないのだが、今日、お披露目だったにしては見事なパフォーマンスだった。本番までに磨きをかければ、大原櫻子流の「リトル・ヴォイス像」をつくれると思う。

共演者の方々も、本当に面白い舞台をつくろうという気概が強く感じられた製作発表会だった。期待して観にいこうと思う。

 

舞台『リトル・ヴォイス』は、5/15〜28 天王洲銀河劇場にて上演。
その後、富山・北九州での上演もあり。