拡散から集中へ

最近どうも調子がよくない。
原因はいくつかあって、そのうちのひとつは「やるべきことに集中できてない」ということ。そして、その理由の中でも大きいのは、所有している本が多すぎることだ。

4年前の夏。
僕は本当にヘタレていて、そんなヘタレが原因で、打ちのめされるような出来事があった。(このままじゃずっと俺、惜しい人だ・・・)という悩みに嵌ってしまったのだ。
それを打破しようと考えついたのが「とにかくやたら本を読もう」ということだった(デカいブックオフを近所に見つけたのもそう考えたひとつ)。
本を読むことは比較的好きで、本屋でバイトした経験もあるから読書自体に抵抗はなかったけれど、今までなんとなく恥ずかしくて敬遠していた自己啓発本やビジネス書を中心に、とにかく気になったものを手当たり次第読んでみた。その結果、真面目な仕事術の本からマユツバ気味のスピリチュアル本も含め、最初の1年で150冊は読破した。
その後もペースは落ちているが、ブックオフに行っては実用書を物色するのが趣味と言っていいくらいになっている。
そんなことをしていたら、読むペースよりも買うペースがあきらかに早くなってしまい、積ん読ばかり。引っ越して2年に満たない6畳ワンルームの自宅だけでも50冊以上の本がある。

この読書習慣、そしてそこから得た知識は僕の糧になったし、おかげでだいぶヘタレ状態からは脱出できたと思っている。反面、あまりに色々な種類の本を読んだせいか、やるべきことが決められずにどれもこれも中途半端になってきてしまった感もある。つまり、自分のしたいこと、やりたいと思うことに集中できずに、気持ちが散漫になってしまっているということ。

本を読み始めたときは、とにかく手当たり次第の知識が欲しかったので良かった。でも自分のやりたいこと、人生の道筋がだいたい見えてきた今は、もう広く浅い知識ではなく、集中した深い知識を得る段階に入ったのだと思う。

そんなわけで、何度かブログでも本を処分したことを書いたが、今度ばかりは「自分の進む道とは関係ない」本は惜しくても処分することにした。興味があったから買ったわけだし、捨てる前にちょっとページをめくると「これは読んどいたほうがいいな」とかいう思いがちらつくけれど、思い切って処分する用の箱に入れている(だいたい経済関係の本が多いです。苦手意識のあらわれ)。

あと、ひとりぐらしを始めた時の夢である「友達を呼んで鍋パーティー」という(リア充)イベントができてないのも、本の量が多いせいだと思っているので、なんとか今冬にイベント発生フラグがたてられるように処分&掃除をやり抜くと心に決めた。
リア充になるためには、ここが集中のしどころなのだ。

友達をどう集めるかはその後考える。

マイナス気温

寒いとやる気がでなくなる。
ということを言い訳にして、ダラダラとしてしまう休日。本をちょこちょこと読みながら、片付けをしたりする。

暖かくなってほしいけれど、これから2月にかけてぐんぐん寒くなるんだよなー。なんて思ってたら、今の時点で-2℃で明日は-6℃になるらしい。晴れるようだから雪になってしまうよりは、マシなのかもしれない。でも寒い。去年の今頃ってこんなに寒かったっけ?覚えていない自分もちょっと怖い。

とにかく風邪をひかないよう、乗り切らねばと思ってます。

なってみてわかること

仕事が遅番だったので、夕食を買いにいつものコンビニに行くと、なんと惣菜&菓子パンがひとつもない!しかもいつもはかなりの量が置いてある弁当、麺類の棚も全て空っぽ。張り紙に「大雪の影響で納品がない」と書いてあり、なるほど日頃はいかに物流がしっかりしているのかと、今さらながら思った。
カップ麺で済まそうかと思ったが、味気ないので近所の松屋へ。ここでも「一部商品が提供できない」との張り紙。それでもさすがにメインの牛丼はあるだろうと券売機をタッチしたら、牛丼類全滅。ここで軽く戦慄みたいのが走る(そして、311の日の夜を思いだす)。諦めて、ラーメン屋に入ったら、こちらはなんとかメニューが揃っていた。

当たり前だけれど、僕が普段意識しているのは小さい“世の中”であって、実はそのほかにも意識しない“世の中”があって、つながっているのだ。己の想像力の欠如に自嘲気味になったりした。

いつもの当たり前の風景は、ほんの少しのことで当たり前ではなくなってしまう。いや、結構な大雪だった。でも、身の回りで大きな事故もない(それも見えてないだけかもしれないが)のに、コンビニや牛丼屋からモノが消えるのだ。
当たり前をやるのも、どこかの誰かが頑張って、それがつながってできているのだ。なら僕も頑張るしかないじゃないか。

そう思わせられた雪の日の夜。

そして雪が降る

思ったより積もりましたね、都心。

帰りに電車に乗るのに、入場規制の列がすごくて唖然くらったけれど、別の改札からすんなり入れて、帰宅まで思ったよりは時間がかからなかった(ノロノロ運転ではあったけどね)。こういうのも、まあひとつの盲点だったりする。「あっちの改札が空いてます!」と言ってしまうと、収集がつかなくなってしまうのだろうけれど、動いたほうがいいこともある、ということを学んだ。
多くの企業が一斉に、早期帰宅指令を出したようだが、サービス業で営業もしているのに、そりゃあないよー、と思ったりもする。言うは易し、行うは難し。現場を放って帰るわけにもいかないし、ね。その辺、納得いかない思いもあるし、それが入場規制に至る混雑を生み出した一因のような気もして、こういう時、なんかもっと上手い方法あるんじゃないかと感じる。
安全に運行している鉄道会社に敬意を感じたりもした。

それにしても予想以上に積もっていて、一番積もっていたのが自宅マンション(アパート)の入り口で、足跡が一つしかなくて、「一体どういうところに俺は住んでいるのだ」と(別の意味での)若干の不安を感じた。でも無事に帰れただけ良いのかもしれない。

明日は晴れるようだけれど、凍った地面には要注意だな。
みなさんご注意くださいませ。

降雪前夜

東京でも雪の予報がでている。
iPhoneの天気アプリでも、明日の13時からの雪確率が100%になっていて、こりゃあもう間違いなく振りますね、と覚悟を決める。日が落ちてからの気温の低下も肌で感じられる。
湿度があがることはウィルス対策としては悪いことではないけれど、交通機関が乱れるほどの雪では困ってしまう。こどもの時のように、はしゃぐだけではすまないくらいには大人になってしまった。それを寂しいと思う余裕もなく、ただ、積雪量があまりひどくないことを願うだけだ。

果たして明日はどうなっているのか。

セレンディピティ

昨日、友人のフェイスブックの写真が「ラクサを食べてる写真」だと聞いて、今まで一度も聞いたことのなかった「ラクサ」という言葉、そしてモノを知った(シンガポールのローカルラーメンだそうです)。

そうしたら、今日、食堂のメニューに「ラクサ風ラーメン」という日替わりメニューがあってびっくりした。いわゆるタイ風の辛いラーメンがあまり得意ではないので一瞬迷ったけれど、こういうセレンディピティには積極的に関わるようにしているので、結局食べた(ラクサ“風”だったせいかさほど辛くなく美味しく食べました)。

セレンディピティとは、幸運な偶然という意味だけど、僕はこういう、知ったばかりのことや気にしていたことが、別のところで起こった場合に意識している。きっと「何か」あるんだろう、と思っているのだ。自然と収まるところに収まりそうな予感がする。その感覚を大切にしたい。

特別なような普通のような日

ひとつ歳をとった。

かつての上司に偶然会って「結婚はまだしてないのか?」と言われた。
仕事のメールで、少し恩を忘れていたお世話になった方のことを思い出した。
なかなか会えなかった可愛がっている後輩に、ずっと渡せなかったプレゼントを渡せた。
いつも仲良くしてくれる友人達からお祝いメッセージのLINEをいただいた。
金曜日は定例の飲み会があるので、そこで祝っていただいた。
「誕生日だからホッペにチューしてあげようか」という女性からの光栄な申し出を「純情なんで」という理由でお断りした。

誕生日でなくても起こりうることだけれど、誕生日だから何か特別な気づきのようにも思う。

孔子曰く「四十にして惑わず」という。でも僕は40歳をだいぶ超えてもなお、まだまだ惑っている。いや、惑っていたいと思う。だから僕は惑う限りはまだ39歳のままでいたい。
惑って迷って前のめりで生きていこう。

反動

昨日の休日が実に良い休みだったので、今日は仕事に行くのに気が向かなかった。家の鍵をちゃんと掛けたか一度戻ってしまったくらい。
今の仕事が嫌いなわけではないし、特別辛いわけでもないけれど、気張らなきゃいけない部分はあるので、弛緩しきった休日から「仕事モード」への振れ幅の大きさに気持ちがついていかなかった。

などとちょっとセンチメンタルに思っていたのだけれど、実際はうっすら風邪ひいてるっぽい。身体の不調はけっこう正直に出る。そして気持ちも下に引っ張られてしまう。気をつけねば。

まだ幼い自分にできることはなんだろう。

23年前の僕はまだまだ幼かった。
当時は大学2年生。数日前の成人式には参加せず、授業は後期試験時期だった気がする。

震災の被害はテレビで知っていたけれど、関東にいる自分にはあまり関係のないことのように感じられた。被害の実感がなかった。
関西出身の知人から「知り合いが被害にあった」いう話を聞いて、少し自分事にはなったけれども、まだまだ当時は、その被害が身にしみて感じられなかった。もうすでに成人になろうとするのに、まだまだこどもだった。

翌年、僕は傷心旅行も兼ねて、神戸へ一人旅をした。神戸には小学一年生の時に行っていて、震災の状況を見てみたいと単純に思ったからだ。僕が訪れた時はすでに復興は始まっており、街の活気は普通に感じられたが、歩道橋に亀裂が入ったりしていて、震災の爪痕は感じられた。

今思っても、あの時の自分は、あまりにも幼かった。

東日本大震災の時はもっときちんと大人だった。だけれど、そういう災害を前にして、僕は自分の無力を強く感じる。こういう時にこそ尽力できる人でありたいと今は思う。

とにかく今は生きることだろう。生きるということを大切にしていく。それで終わり、ではない。だが、根底にはそういう思いでいる。具体的に何ができるかは、まだ見えない。でも、常にそれは考えていたい。

取り扱い注意

2000万円以上する楽器(ヴィオラ・ダ・ガンバ)を機内預けにしたところ、破損して戻ってきたことに持ち主の音楽家が怒りのSNSを投稿した、というニュースを朝のワイドショーでやっていた。ネットで調べる限りは、ニコニコニュース http://news.nicovideo.jp/watch/nw3206638 にしか記事の掲載がなくてあまり日本では話題になっていないようだ。

昨年、ヴァイオリンを弾く方々と一緒に飛行機に乗ったのだが、その時も機内持ち込みの手続きが様々あって、楽器を飛行機に載せるのって面倒だなー、と思ったものだ。ましてや大型の楽器となると、持ち運びの苦労を考えただけでも疲れてしまう。今回の楽器もどうしたって普通に機内持ち込みするのは不可能なサイズだもんな(ちなみにテレビではヴィオラ・ダ・ガンバの説明が雑だったけど、今回のはその中でも大きい種類のバスガンバでしたね)。

この出来事の見方は、音楽家側、航空会社側双方色々あるだろうけど、壊れた楽器の画像を見る限り「それにしても壊れすぎだろう!」という感想。
乱暴に扱った、というレベルではなく「プレス機にかけましたか?」という感じに。ケースの形状を見れば楽器とわかるのだから、あとあとのトラブルを考えたら、係員もちょっとぐらいは配慮するだろうから、おそらく荷物受取場に搬送する機械に引っかかって潰れてしまったのだろう。航空会社も超焦ったと思う。
その後の対応の不味さや、もう一席とるように言った言わないの応酬で泥仕合になっている模様だが、「すみません、機械に引っかかりまして。でも弁償は規定の金額しか出せません」では通用しないのかもしれない。

どんなモノでもいつかは壊れるのだ、という達観と、職業柄楽器を常に持っていないといけない音楽家への憐憫がないまぜになるニュースだった。