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声域なき社会進出

日本人女性の声は世界一高いという。https://courrier.jp/news/archives/109077/
ドイツで行われた調査のようだけど、その理由は体格が原因でもホルモンが原因でもなく、女性の社会進出の進み具合なんだそうだ。世界一女性の声が低いのはスカンジナビアで、男女平等が進んでいるとのこと。

にわかには信じがたい。

ようは甘える女性は声が高くて、政治家のように責任ある立場の女性は声が低いということらしい。なんとなく説得力がある感じはするが、それは「声の出し方」であって、実際の声域はまた違うんじゃないかと思う(安田大サーカスのクロちゃんが実際あの高さで地声を出すのではないように)。だいたい女性の声が低ければ、男女平等が進んでいるっていうのも暴論というか、それは必要十分条件を満たさないだろう。

音楽でいえば、調律の ピッチはA=440Hzから今や442Hzが主流になってきてるし、ヨーロッパでは444Hzもあるそうだ。このまま男女平等が進むと、ソプラノ受難の時代が来ると思ってしまう。

日本が男女平等の進んでいる国とは思わないが、声の高さうんぬんで社会進出しているかしていないかを決めてほしくはない。声低い人が社会的地位が高くて、高い人が地位が低い、みたいな見方もしたくない。ソプラノボイスの女性社長とか素敵じゃないですか(個人の見解です)。

成人の話

成人式には出なかった。

小学校から私立通いのため、地元に友達がいなかったのが一番の原因。あと早生まれなので、成人式の時点でまだ19歳で、なんだか一層「よそ様の行事」感があったのだろう。ただ、その年の成人の日には雪が降っていたように記憶している(あえて確かめませんが)。

成人年齢が18歳に引き下げられる、という法案が今年提出されるようで、ニュースでもそのあたりを取り上げていた。どのタイミングかわからないけれど、この法案が通って施行された時には、18歳から20歳までの全員が一気に成人になるわけで、その時の20歳の人の、後輩とタメになっちゃった感覚を思うと、ちょっといたたまれない。

社会に出てそこそこ経てば年齢の差などあまり関係なくなってくるが、18歳~20歳ぐらいって、年上年下にこだわる年齢層ではないだろうか。18歳なのに揃って成人になった場合の「年下なのに同学年」という状況にも似た、なんとも言えない感覚が20歳の人にはあるんじゃないか。2年のリードがあっさり奪われてしまうような。

とか考えてみたが、今の20歳以下の人たちはあまり「成人になる」って、そんなにたいそうなことだと思ってないのかもしれない。16歳でもしっかりしている人はいるし、25歳ぐらいになってもこどもみたいな人もいる。「成人」という制度は、あくまでも「目安」なのかもしれない。個人的にはしばらくは「20歳=成人」で良い気がするけど。

ともあれ、成人となった方々に幸多かれ!

時代劇ハシゴ観る

絶対に見よう!とまでの気はなかったけれど、放送に間に合ったので『西郷どん』を観た。鈴木亮平が気になるから。

鈴木亮平の出たドラマでまともに観たのは『天皇の料理番』の兄さん役と、あの『銭形警部』だけなのだが、その役の振れ幅と演技を見て「この人ならなんかやってくれる(っていうかいい意味で「やらかす」)」と思っているからだ。バラエティのロケで出た時に「手品が得意」と言ってて、試しに披露した手品が、出演者がひくほど高度な手品だったのも強く印象に残っている。この人マジな奴だ…と。

そんなわけで、「鈴木亮平ショー」を期待して観た『西郷どん』だったが、初回は子役が演じているイントロダクション的な回で少々残念。それよりも、風間杜夫、松坂慶子、平田満の並ぶ画ってすごいことだけど、元ネタわかる若い人いるの?とか、それを言ったら西田敏行のナレーションと鹿賀丈史の出演って『翔ぶが如く』のオマージュじゃねえか、と細かい部分が気になってしまった(つかみとしてはOKだろうけど)。

次回予告は「鈴木亮平ショー」の予感を感じさせたので来週に期待したい。

あと途中からだけど、ダラダラと『必殺仕事人』も観てしまった。これは藤田まことが過去映像と音声を駆使して復活する、と聞いていたから。

んー、この登場シーンはかなり苦しかった。東山紀之と話す2~3分のシーンで、ほぼ板の陰に隠れていて全身を見せないのは、まあ仕方ないのだが、それ以上に「セリフの会話が噛み合ってない」のが辛かった。目を合わせて喋る映像を使っているならまだしも、ほとんど隠れてたり、手だけだったりの映像だったので、声の似た人に喋りの芝居は任せたら良かったんじゃないかと思った。それだと故人に失礼かもしれないが、「藤田まこと」ではなく、「中村主水」を復活させるのだったら、そういうやり方を考えたほうがスッキリしたんだけどな。あ、ただしドラマ自体はなかなか面白かったです。

故人をアーカイブ復活させるという試みは、最初ブルース・リーで聞いた気がするが、あれから月日が経ち、技術が進歩してもこの程度なのか、と少々がっかりする出来映えだった(予算も関係してるだろうね)。少しオカルトじみた思考かもしれないが、故人が演じていたキャラクターがCGじゃなく、画面できちんと復活するのを単純に見てみたいし、それはその作品のファンなら夢のような企画だろう。映像関係の方々にはその方向もぜひ頑張っていただきたい。

部屋と片付けとカラシ

休みだったので、年末からやろうやろうと思いながらも遅々として進まない部屋の片付けをする。

片付けを始めても、ダラダラと時間を費やしてしまい、中途半端であまり片付かないというのがいつものオチなのだが、今回はあるテーマを決めて片付けはじめている。それは「自分にとって必要なものと好きなもの以外は処分する」ということだ。
結局「好きでも嫌いでもない」ものでなんとなくあるものを処分すれば、かなり部屋は片付くはずなのだ(ただ、これが難しいんだけれど)。
そういうテーマがあるおかげか、いつもよりちょっとは片付けが進んだ気もするが、自分の部屋が散らかっている一番の理由は「本の多さ」なので、どれも買う時は理由があったものをポイポイと捨てられないのが問題だ。片付けで見つけるまで、買ったことを忘れている本もあるのだが、パラパラとめくってみるとなんとなくまだ捨てがたい気がしてしまう。それでも今日は10冊ほど処分した。とにかく買う量を減らして、処分する量を増やすしかない。で、片付け途中で読んじゃうから、片付けは進行度15%程度で終了。いつになれば終わるのだろうか(結局いつものオチでした)。

「ときたまフライドポテトが食べたくなる病」の僕だが、今日はチキンマックナゲットが割引しているというので、ナゲットとポテトの夕食(というか酒のつまみ)にした。
ナゲットのソースは断然マスタードソース派。これはポテトにつけても美味いので一石二鳥のソースだと思う。15個入りは3つソースをつけられるので、他に期間限定の「夢のオマールエビソース」と「贅沢チーズフォンデュソース」を頼んでみる。オマールエビソースはつけるとナゲットがエビフィレオっぽく感じて、完全に味覚が騙される(馬鹿舌ですかね)。チーズフォンデュソースはちょっとクリームチーズ感が強すぎてクセが強いので、むしろポテトに合わせたほうが美味しく感じた。
ただ、こういう期間限定ソースは結局「変化球」的意味合いが強く、通常提供されている「マスタードソース」と「バーベキューソース」の安定感を改めて痛感する。定番って偉大だ。

などとジャンクフードで腹を満たしているけれど、正月に食べすぎて2kg太ってしまっている事実。
部屋の片付けだけじゃなくて脂肪の片付けも必要のようです。

年賀状

もう何年も、年賀状を自分から出すことをしていない。会社員としてどうかとも思うが、わりとそういうことに寛容な職場でありがたい(上司や同僚と年賀状のやりとりもしない)。

いただいた年賀状も、個人で送ってくださるのはフリーランスの方ばかりで、あとは取引先の企業からまとめて、という感じ。フリーランスの方にはお返事を書いた。

学生時代は、いかに凝った年賀状を友達に出すか、というのが楽しみで、お互いどれだけ面白いのを書けるかと張り合ったりしたけれど、すっかり文字を書くことすら「面倒くさい」と思うようになってしまった。絵を描くのが好きだったり、友達への「ネタ見せ」だったりしたので、書くテンション高かったのかもしれない。

お世話になった方へ、普段伝えられないお礼の気持ちや、しばらく会ってない友人との残しておきたい繋がり、としての年賀状文化自体は良いことだと思うのだが、いかんせん「義理年賀状」が多くなってしまって、さほど書くことがないのに空白を埋める作業に疲れてしまうからだろう。でも家族がいる方からの年賀状は家族写真をうまくコラージュしてあって、なるほど自分が年賀状に苦労する理由がここに一つあったか、と今さらながら納得してしまった。こんなとこにも独り身格差を感じるとは…ぎゃふん。

来年は(正確には今年末だが)凝った年賀状考えて送ろうかなー、とちょっとだけ思ったのでここに書いておこう。実行できたか否かがわかるのはおよそ350日後(そう考えると、結構な大河ブログだな)。

異文化コミュニケーション

外国人と仕事の交渉をした。
相手はドイツ人の男性だったが、ドイツ人らしい生真面目さと(ステレオタイプな見方ではあるが)話しやすい雰囲気をもった方だったので、交渉をするのはなかなか楽しかった。

日頃、さほど外国人と仕事の話をすることはないのだけど、今回改めて思ったのは外国人の方は主張がはっきりしている、ということだ。
料金のことやら、希望時間のことやら、希望条件を包み隠さずはっきりと主張してくる。それが「ダイレクトすぎる」と好きになれない人もいるだろう。僕もどちらかといえばそうだった。
でも最近、時間をつかったあげくに、のらりくらりで着地しない交渉をしていることが多いので、肝心な条件をバシッと言ってくれる相手は楽だなーと思う。腹の探り合いをせずに済むからだ。相手の望みがはっきりするので、どうやったらそれに合わせられるのか、それともどうやっても合わせられないのか、とこちらもゴールを決められる。

外国ではいつもこういう交渉がされているのだろうか。翻って日本の(というか自分の周りの)交渉のダラダラ感と、物事の進まなさを考えると、少なくともスピードという点では、外国にそりゃあ太刀打ちできないわな、とか考えてしまった。
とかいいながら、今日のクライマックスは「外国人と仕事の話できてる自分カッコイイ!」とちょっと思ってしまったことだったりするんだけれど(完全に調子に乗るタイプ。あと、全部日本語で、だ。)。

ちなみに、この交渉が成立するかはまだ決定していない。

仕事始め気分

2日3日と休みがあって、今日が本格的な仕事始め。元日が仕事だったのが遠い昔のように感じるのは、いわゆる歳のせいなのか、いつもと違って実家で二日間過ごしたことが長く感じたのか。いずれにせよ2018年も4日目に突入したわけだ。

自分には、さほど「仕事行くの嫌だ」という気はないと思っているものの、朝はブレーカーが落ちたり(単に暖房器具のつけすぎ)、Wi-Fiのクレードルが充電できない(電源に接続しているのは認識しているのだが、充電はしない)トラブルがあって、仕事に行きたくない病に入りかけたけれど、出社してしまえばどうにかなるもので、なんとか一日終えた。
クレードルの充電できない問題はけっこう重く、検索かけたり、説明書読んだり、いざとなったらサポートに連絡する手順を調べたり、帰宅して充電器につなげるまで不安がつのっていた。結局、物理的にリセットボタン押したら直ったのだけれど、リセットボタンが「先の細いもの」で押す仕様なのに、こういう時に限って「先の細いもの」が見当たらずイライラした(こういうのマーフィーの法則であったっけ?)。なんとか見つけたクリップを伸ばして押してリセットできた。
思惑どおり充電できた瞬間、ちょっと小躍りした(いや、それくらい不安解消してスッキリしたのだ)。

年末年始飲み過ぎたので、今日は休肝日にしようと思っていたのに、トラブルを脱したのでお祝いに飲んでしまうほど。安いお祝いだが、こういう自分を労るのが大事だと思っている。というか、まだまだお正月気分が消えてないのかもしれない。街も休みの人っぽい人たちで賑わっていたし、それで良いだろう(良いのか?)。
といいながら、こうやって正月気分をひきずっていると、あっというまに1月が終わってしまうだろうから、気を引き締め直さないと。色々なことが「日常」に落ち着いた今日、ようやく2018年のスタートと思って、これから進んでいこう。

インスタ映え って本当か?

年越しの渋谷がすごい人混みだった、とワイドショーでやっていた。その時のテロップが「インスタ映え狙い、若者渋谷に集合」となっていて若干の違和感。
いや、別にインスタ映え狙ったからって渋谷に集まるわけじゃないだろう。結果的にインスタ映えになる、ってだけで、初めからそのためにわざわざ自分の行動を変える人って極少数なんじゃないかと思う。そこに行く目的が「美味しいものがある」、「見たい場所がある」が先にあって、結果「インスタ映えにもなるし、ね」という思考をするのが当然の流れだろう。

日経新聞でも若者の消費離れな記事があって、レンタル友達を使ってSNSのいいねを狙う女性のことが書いてあったが、月に50件くらいあるというレンタル友達のサービス、Facebookのアカウント数は2800万、インスタグラム2000万(17年11月Gaiaxサイトより https://gaiax-socialmedialab.jp/post-30833/)あるのに対して、50件では「流行っている」とは決して言えないだろう(むしろこのサービスを利用する主な顧客は、SNS映えを狙うひとたちよりも、複雑な事情で家族や親戚あるいは会社の上司向けに仮のパートナーを用意しなければならない人たちのように思う)。それだけで「今の人の大多数はSNS映えを意識して生活している」とは言い切れない。

スヌーピーのグッズ販売会「ありがと祭」(そごう大宮)に行ってきた。実際にスヌーピーが来て写真撮影ができる日だったので、開店と同時に結構な数のファンが撮影会の整理券を求めて売り場に集まっていた(僕もそのひとりですが)。親子連れが多いのかな、と思っていたが、大人のファンも多く、本格的な一眼レフカメラを手にしている若い女性が来ていたりもした。会場も、撮影スポットがいくつか用意されていて、それこそ「インスタ映え」を意識したつくりに。でも会場に集っているのは単純にスヌーピーが好きな人たち。その中で、自分がここに来た記録と記憶を残そうとしているだけで、スヌーピーにまったく興味のない人がSNS映えがするからとわざわざ集まってきているわけではない。

渋谷で年越ししようと思った人たちも、ただ単に楽しいから、仲間がいるから、渋谷に集まっただけだろう。それを「インスタ映え狙い」としてくくってしまう伝え方に僕は違和感を持ってしまった。それは物事の根本を見誤る可能性が高いから。
そのズレは、ものづくりだったり、流行だったりに良くない影響を与えてしまうと思うのだ。おおげさに言えば、物事の本質を、そしてその良し悪しを正しくつかむことができなくなってしまう可能性が高い。

2017年の流行語にもなった「インスタ映え」を主軸にしたい気もわからないではないが、それを使わずとも渋谷の年越しの騒々しさは伝えられる。そしてSNSを意識しなくても、良いものは自然とSNSで広まる。という前提を(特に物事を生み出す人たちは)忘れないでほしいと思った新年だった。

元日仕事と初詣

正月から出勤。サービス業なのでいたしかたないが、元日からお客様がいらっしゃるようなところじゃないので、自分の持ち場は僕ひとりだけ勤務で事務作業に専念。ひとりぼっちで働くのって、かえって集中できないことに気づく。多少のパノプティコンは必要なのかもしれない(監視社会には絶対反対ですが)。あと、心のどこかで(仕事始めは三が日明け)と思っちゃってるのもあるな。

仕事を終えて、恒例の氷川神社初詣へ。

地元で有名な神社なので、参道の出店の量も多い。以前はなかった和菓子やロングフライドポテトの出店があって、この業界でも流行り廃りがあるのだとわかる。昨年大量にあったケバブの屋台をほとんど見かけなかったし。

無事に参拝を終え、おみくじも引いて(「吉」だけどCP高い感じの“強”「吉」)、ようやく正月モードをじわじわと実感できるように。正月休みはなんとなくのんびりしてしまうものだけれど、一年のスタートがその年の集大成になると思って、あんまりダラダラしないように心がけよう。

2017-18の年越し

2017年の大晦日。
大晦日は毎年恒例で仕事なのだが、今回はとくに落ち着いた感じの一日だった。
昼食に社食で一応年越しそばを食べておいて、夕食は友人と「いきなり!ステーキ」。17年はこの店によく行ったな。いつもミディアムだけど、ミディアムレアを頼んでみる、大晦日でも攻めの人生。たくさん食べた証として今日でマイレージがゴールドになりました。旧年中に済ませておきたかったので駆け込みセーフ。
その後、3年連続3回目のスパラクーアへ。いつもは(とかいいながら今回で行ったの4回目)普通のフットケアをお願いするのだけれど、初めて「タイ式」のフットケアとヘッドマッサージをお願いしてみた。
タイ人が行う(まあ一応かたちは)本場のマッサージだったが、僕は普通の中国式フットマッサージのほうが好き。それを確認できただけでもチャレンジした甲斐はあった。大晦日でも攻めの人生。
それからマリオカートを1時間くらいやったのだけれど、今回は元日から仕事&東京ドームのジャニーズカウントダウンライブの流れを避けるために、早目に帰ろうと23時40分くらいに退散。

で、どこで年越したかって言うと、西武池袋線の中(もっと詳しく言えば東長崎あたり)。これがまた実に“地味”な年越しでした。

同じ電車の中での年越しでも、カウントダウンパーティーが多く行われているであろう渋谷近辺や、明治神宮へ初詣に行く人たちの乗る山手線内だったら、誰かが「あけましておめでとう!」とか言って、車両内で拍手が起きたり、見知らぬ同士でハイタッチが始まったりするのだろうけれど、新年になったということを誰も気づいてないんじゃないか、というくらいの静けさ。
さっきまで東京で年越ししたい場所ナンバー20には入るんじゃないか(個人の見解です)というスパラクーアにいたのに、まさかの地味年越し。2018年、これでいいのだろうか?とちょっと今年の先行きを不安に感じたりした。

しかし見方を変えれば、年越しとは新年を迎えるだけでなく、旧年を送り出す瞬間なのだ。それならば、2017年をしめやかに送るために、静かにひっそりとした年越しもたまにはいいんじゃないかと思う。去年、一昨年と違って、あえて地味な年越しする。年越しでも攻めの人生。
今年は右肩あがりに派手にしていこう。

本年もどうぞよろしくお願いいたします!