ナニモノ

いつも何者かになりたいと思っていたし、今もそう思っている。

それは結局、他者との関わりで変わるもので、その点、今の僕は、比較的“上手に”何者かになっているのだろう。
ただし、自分がなりたいものになるのと、人から求められるものが必ずしもイコールとは限らないし、むしろ相反する部分の方が多い。

今の自分に、不満があるわけではないけれど、なりたい自分とはやっぱり違うんだよなー、とつくづく思う。

ものの本には、「自分のなりたい姿を考えて、道筋をたて、それを実行していけば、なりたいようになれる」と書いてある(それも結構多くの本に)。

だが、果たしてそうだろうか。
なりたい自分のための道筋を作って、幸いにもその道を歩み始めたとしても、その道は決して楽しいだけではない。自分の能力への落胆、現実と理想の解離、理解されない絶望感、その他もろもろの負の感情を呼び覚ますものも、もれなく待ち構えている。

鈍感ならば割とマシなのかもしれない。
「言い訳するってことは、そこまで好きじゃないんでしょ」と言われればそうかもしれない。
でも、それを乗り越えることは誰にでもできることではない。その苦しみから逃げ出してしまいたい葛藤を常に抱えることになるからだ。

だからこそ、歩み続けている人は、それだけですごいのだ。

今月の初めのほうに、自分が“そうであろう”と思った何者に、自分がなれていないことに、そして心のどこかでその何者になることを「しゃらくさい」と思っていることに気づいてしまったからだ。それはつまり、望んでいる自分でないということだ。
それでも僕はだらだらとめそめそと、物事を曖昧にぼやかしながら今日まで過ごしてきた。傍目には苦労なく見える日々も、本音を(そしてやや文学的に)言えばそういうことだ。

もちろんこういうのは、僕だけの感覚ではなく、誰しもがそうなのだろう(よくいう、「優雅な水鳥も水の中では…」という奴だ)。
そうやって今月を乗り越えてきて、荒波にのまれながらも格闘し模索し、自分の道を切り開こうとしている人たちを見て、結局、自分には覚悟が足りていないという思いに至る。

結局、

書かない不安は書くことでしか解消されない。
歌わない不安は歌うことでしか解消されない。
曲を作らない不安は曲を作ることでしか解消されない。

20年前の自分の文章を読み返して思い出す。
あの時の僕はいつも何かに怒っていた。苛立っていた。自分に対しても。
そして心の奥は今も変わっていない。

僕が昔から書いているモチーフに気づくと、それは「破壊と再生」についてだ。
そういうものをずっと考えてきたのに、僕は自分を一度もちゃんと破壊したことがない。だから当然、再生もない。

ロックとはつまるところ自分自身を破壊することだと思っている(少なくとも自分にとってはそういうものだ)。
破壊と、そして再生を繰り返していってこそ、ロックンローラーを名乗れるのではないかと思う。

日常に、狂気が侵食してくるぐらいじゃないと人生は面白くない。
それを体現している人達に触れて、自分のことを振り返った。

気がつけば僕はわりと傍観者の立場のところにいる。
傍観者であることを望んでいるわけではない。
でも、いつも当事者じゃないような感覚だし、気づけば、いつも当事者じゃないところにいる(集団の中で孤独を感じるのはきっとそのせいだ)。
ちゃんと当事者になる覚悟を持たなければ、僕はいつまでも、またぐるぐると曖昧な日々を送ることになる。

やっぱりそれは嫌だな、と今は強く思っている。
まず1回、自分を「破壊」してみなければいけないのだ。

そんな11月の締め。
今の思いの丈を書いてみたけれど、良いのだろうか。

でも、こういうのをブログにぶっ込んでいくのも、それはそれでロックって奴じゃない?

ポッドキャストの6

高野ザンクのNerdy Days ONAIR版 Vol.6」を配信した。

今週録った、ということで当然の流れで「文学フリマ」について語る回になっている。イントロの話だけ違うけれど、実は文フリで話してたときに出た内容にも関わるので、3本まるまる文フリがらみの話になってしまった(そういう回があってもいいよね)。

今月を締めくくる内容でもあるので、月末である明日に公開しようと考えていたのだけれど、話の中で、一番大事なポイントを話しそびれてしまったことに気づいた。
それで、補足的なものを明日ブログに書くとして、一日前倒して11月29日“いい肉の日”(言いたいだけ)に配信。

僕にとってポッドキャストはキャッシュなもので、かつ後で録り直しがきかないから、大事なことを話しそびれた場合を考えて、4回目からはある程度、脚本を作って臨んでいるのだけれど、今回は流れでしゃべったので、果たして「話しそびれた」。
もっとも話している「ノリ」にややそぐわないという点で、咄嗟に出てこなかったのかもしれない。

ポッドキャストの中で「今回は短めに」と言いつつ、Voi.5を超える30分の内容になってしまいましたが、何か作業のお供にお聴きいただけるとありがたいです。

二分休符

このところわりと“しっかりとした”ブログを書いていたが、毎日、そんなにドラマティックなことが起こるわけでないので、今日一日の報告を。

とにかく雨で寒い。雨だと洗濯物が乾かずに困る(生活感満載)。
スポーツウェアも乾かないので、ワークアウトも中止にした(言い訳がましい)。

で、今日は休みだったので、ポッドキャストを録り、ケンタに行って読書をし、夜は『ジャスティス・リーグ』を観て終了。
『ジャスティス・リーグ』は、うーん、やっぱりDCコミックスのヒーローものはいまひとつ好みじゃないみたいです。バットマンは可愛そうなぐらい弱いし、逆にスーパーマンがチートすぎて、正直、このメンバーのコラボを続けるのは難しいだろうと思う。
でも、それなりに面白かった。ヒーロー映画自体は好きなのだ、うん。

ポッドキャストはAnchorにアップもしているけれど、公開は明日か明後日に。
もったいぶるほどではないが、一晩ぐらい寝かしておきたいのだ。

それから、音楽関係でやらなきゃいけない…というか声をかけてもらった案件があるので、ギターのコードをとったりした。
ギターについては、そもそも“ちゃんと”弾けるってレベルではないし、加えてブランクが長すぎる状態でどこまでできるかわからないが、声をかけてもらった以上、とにかく頑張る。

「ストロング」銘柄ではないが、アルコール9%のチューハイとハイボールを飲んだら、やや酔った。
3本目を開けようかどうか悩みながら、今日は終了。
明日も明後日も朝早いんだよなー、どうしようかなー(飲まずに寝ろよ)。

そんなこんなで休日はおしまい。
明日からまた頑張りましょう。

タイムカプセル

昔、演劇をしていた時期がある。

といっても、メンバーは4人(最初は7人いたが色々あって最終的には4人になった)で、社会人サークル的な活動だった。
それでも僕は本気で脚本家になりたいと思っていたけれど、多分それはまだ若かった僕の“甘っちょろい本気”だったのだろうと今は思う。

文学フリマで出会った人たちに触発されて「俺も小説書きたーい」という、その“甘っちょろい本気”に似た“こどもっぽい憧れ”みたいなものが出てきたのだが、そういえば、昔、自分が書いた脚本だの、書かなかった物語(「小説」というよりは「物語」だ)のプロットだのを、実家から持ってきたんだよなー、と籠の中のファイル類を物色してみたら、自分の書いた脚本を見つけたのだ。

ちゃんと舞台にかけた、つまり演じてくれる人がいて(そのうちの一人は僕だ)、お客さんに観てもらったものが2作。
処分したと思っていたので、これがちゃんと残っていたのは嬉しかった。

そのうちの1つは、最初で最後の「本公演」で演じたもの。
「死刑囚たちが、減刑を求めて芝居をする」という大きな流れは覚えていたが、自分で書いたくせにセリフは全部忘れていた。
逆算すると、執筆したのは1997年のはずで、今から22年も前なわけだから、正直言えば「黒歴史」だし、「わー、俺の文章、拙い!恥ずかしいー!」となるのが普通だが、文章力自体は現在とさほど変わらず(そっちが問題だろう)、そういう恥ずかしさはない(ないのか!)。

むしろ、「これ、本当に俺が書いたの?」っていう感覚。

厳密に言えば、人間は日々細胞が生まれ変わるのだから、22年という歳月で「僕」というものはすっかり変わっているのだろう(ややオカルトっぽい話だが、高野ザンクは無宗教です)。
もっと単純に言えば、これを書いた時点から、それまでと同じ年数の人生を歩んできたのだから考え方が変わるのも当たり前。
この物語は、大学卒業したての自分が、その当時の世相や自分の状況を反映して作ったもの、だから、今の自分が“やや他人事”のように感じるのは当然なのかもしれない。

それにしても、だ。

書いたことを覚えている脚本はいい。
舞台にかけた2作もそうだし、他に映像作品用の喫茶店を舞台にしたものや、人数が揃っていればぜひやりたかった「プラットホームの待合室が舞台のもの」と、「売れないペンションが舞台のドタバタ」(基本的に舞台転換のないシチュエーションコメディばかり書いていた)も、書いたことは覚えていた(ただ、読み直していてオチをどうしたのだろう、と本気でわからなかった。そして最後まで読んで「俺っぽいなー」とも思った)。

でも、唯一、全く書いた覚えがない「バスケ部もの」が出てきたので驚いた。
読み終えた今でこそ、確かに自分が書いた気がするが、それは記憶のすり替えのような気もする(トータル・リコール)。

「1461days」と書いて「4years」と読ませるタイトルや(キザだね)、そう名付けた理由がオリンピックイヤーをモチーフにした話だったことはなんとなく思い出した。
でもバスケって。

僕はバスケにほぼ興味がないのだ(『SLAM DUNK』を最初のちょっとだけ読んだぐらい。しかもジャンプの連載時に)。
そんな僕がバスケ部を舞台にした話を書いているし、回想場面として、試合の再現も描いている。なんでバスケを選んだのかなーと色々考えてみると、メインキャラが男5人でスポーツもの、というとおのずと「バスケ」しか選択肢がなかったのだろう。舞台にすることを考えて「登場人物を7人に絞る」ということを一番に考えた結果なのだと思う。
計画的というのか、気を使っているというのか(それ以上にバスケファンに謝ろうね。ごめんなさい)。

江戸川台ルーペがカクヨムに進出した時に、自分も「小説書きたーい」となって(デジャブ)、小説のアイディアを考えて以来メモを書きはじめているのだけれど、なにかを公開するなら、発掘した脚本を小説に手直しして出すのが近道かなーとも思っている。

その理由のひとつはすでに一旦は書き上がっているからということ。
もうひとつは、20年以上前の自分のために、この物語をちゃんと公開してあげたいな、という、ある意味ひどく自己満足な理由だ。
それから、若い自分の文章は、人生について目論見の甘さを感じるものの(今も甘いけどな)、そのモチーフは、結局、今と変わっていないんだなと気づいたので、これを「今の自分」が出すのは、まあ自然な流れのように思える(さらに20年間寝かせてみる、という手もなくはないが)。
何かの思し召しに思えなくもない(繰り返しますが無宗教です)。

そういうわけで、まずは手書き原稿を、ワードに打ち直すことから始めてみる。

タイムカプセルを開けて良かったのか悪かったのか。
それがわかるのは、まだ先の話。

復刻の浅草オペラ

今月初めに浅草オペラの復刻イベントである『ああ夢の街 浅草!』を鑑賞した。
ちょっと間があいてしまったが、感じたことを書いておこうと思う。

「浅草オペラ」の存在は聞いていたし、「コロッケの唄」というのがあるというのは知っていたけれど(聴いたこともある)、実際にその舞台を見るのは初めて。
お仕事でお世話になっているソプラノの大塚京子さんが出演されるご縁で、11/2の夜公演を観ることができた。

浅草自体、そんなに行ったことがあるわけではないので、そのイメージは浅草寺、そしてコテコテの東京漫才(ナイツとか東MAXとか)なのだが、その東京漫才の聖地とも言われる、浅草東洋館が、今回の浅草オペラ復活の舞台である(他の会場でも公演はされました)。

まずこの会場がすごかった。年季の入ったエレベーターで4階まであがると、これまた昔の映画館の入り口のような雑然としたロビーが現れる。そして劇場内に入ると、和風というよりは、昭和初期の大衆劇場を彷彿とさせる。
舞台のことを「箱」と呼ぶことが、その呼び名がぴったりといった印象だった。

そして浅草オペラの幕は上がる。

活弁士 麻生八咫さんの進行で、たくさんの歌い手さんたちが次々と歌う。ソロで歌う曲もあるが、コーラスはもちろん、歌い手さんが後ろで芝居を演じていたりと、とにかくにぎやか(そして飛び交う“おひねり”)。
なにせ、クラシックで鍛えたプロの方々が集まって歌うので、聴き応えがある。
それと、演奏もカラオケではなく、小編成ながらも(ピアノ、ヴァイオリン、クラリネット、アコーディオン)生演奏なのが良い。グルーヴ感が段違いに出る。

演出としては、昭和の大衆オペラを“そのまま”再現している、というよりは、当時の昭和を、多少のパロディとカリカチュアを交えて再構築しているんだと思う。
だから、当時の技術では最大限の努力だっただろう、ハンドライトでの主役へのスポット照明や、紙で作った小道具の月などが、令和の時代の今に再現されると「レトロ」という部分で笑えるのだ。

大塚京子さんは、テネシーワルツでは堂々かつ可憐に聴かせ、コロッケの唄では下町奥様なりきりで楽しませてくれた。
それからプログラムには載っていない「人形焼 木村屋本店」の生コマーシャルでもお母さん役で歌ったのだけれど、このCMソングが特に面白かった。
ローカル感もあり、スポンサーへの愛もあり、こういうのを当時の舞台でやっていたのだとすると、良い時代だったんだなと思う。

他に印象に残ったのは「おてくさんの歌」を演じた、みすぎ絹江さんと、島田道生さん。
あとで調べてわかったのだけど、島田さんは「カンツォーネ!」の掛け声でおなじみの(おなじみか?)オペラ芸人「島田夫妻」の人なんだね。
一度テレビで見て、僕の「面白くないけど好きな芸人」枠に入っていたので、ここで実際に見れたのは嬉しかった(でも芸人は解散したようです)。
とにかく、この二人の掛け合いが面白かった(そして歌うとすごい上手い)。
島田さんの「カッコつけながらもスカす」というのは、僕が思う「真にカッコいいこと」に通じるので、お手本のようにして観た(笑わせておいてキメるとこキメる、っていうのに憧れるのだよ)。みすぎさんとの間の取り合いも良かった。

それから鈴木沙久良さん(ソプラノ)。
系統の違う曲をたくさん歌っていたが、清純派の女優像から、はすっぱな小娘まで、同じステージの中でガラリと違う演技ができるのが見事だった。

また、この日の舞台では、特別に関西オペラ界のレジェンドと称される林 誠さんが出演したのだが、その“レジェンドぶり”たるや。
かなりご年配だと思うが、衰えない声量、魅了する歌声。本当に“生きる伝説”を見た、という感じになった(弟子の方々も素敵でした)。

何事も、人を楽しませるには技術が必要だ。
この復刻版浅草オペラ。高い技術を持った方々が、プロに徹してやるんだから面白くないわけがない。
出ている方々はほとんどがクラシック畑の歌手の方だから、ある意味“おふさげ”な舞台はとても難しいだろう、照れたりしたら観客はしらけるし、「自分のカラーじゃないからこんなのできない」という感じで演じていたら見透かされる。
そういうことを全く感じさせなかったから、出演者全員が舞台を楽しんでいたのだろう。

真剣にふざける、でも音楽に対してはとことん真面目に。

そういう部分に隠れたプロフェッショナリズムを感じた。
聴きながら、純粋な楽しみと、出演者への畏怖の念がないまぜになった。
いやあ、皆さん、スゲーよ。

実際は、ヨーイドンのぶっつけ本番に近い部分も多いようだが、それを感じさせないし、多少のミスもご愛嬌で済ませられる。
決して十分な練習時間がとれたわけではないだろうけど、こういう舞台を作り上げられるということで、舞台への取り組み方も学べた。

高い技術を“オモシロ”に落とし込むっていうのは、自分のやりたいことにも通じてる。
そういう意味でも十二分に刺激を受けた場だった。
プログラムが3パターンあったようなので、次回復刻した際には、一通り見てみたい。

純粋に楽しめたし、勉強にもなった。
エンターテイメントってこうでなくっちゃね。

文フリのあと

そういうわけで文学フリマ東京に行ってきた。

僕が以前に行った2006年の会場は、秋葉原の東京中小企業振興公社秋葉原庁舎(長い)で、会場規模もブース数もかなり限られていて、もう少し地味なイベントだったように思う。
前回のときは芥川賞作家の長嶋有が出した『メルボルン1』という同人誌目的で行っただけなので、長嶋さんのブースに行って、緊張しながら少し会話をして(会話ってレベルではなかったけど)、ちらちらと他のブースを眺めながらひと回りしたものの、30分と滞在せずに帰宅した覚えがある。

今回の僕の目的は、なんといっても江戸川台ルーペが参加したアンソロジー本『元祖オーケン伝説』を購入するため。
とはいえ、せっかく出向くのだからと、事前にwebカタログでどんなブースが出ているのか調べて、興味のある本は試し読み&購入しようと考えていた。

さて、開場時間10分ほど前について、入場待ちの列に並ぶ。
会場の、東京流通センター 第一展示場(これはこれでそれなりに長い)は、予想よりも照明が明るく、また列に並ぶ人たちを見ると、着物や勝負服のような“ハレ”の格好の人もいれば、普段着で年配のご夫妻もいて、以前(13年前だ)とはだいぶ違う印象を受けた。前はもっと“いかにも”な人ばかりだった気がする。
ただ、スーツケース持参率が高いのは、このイベントが本を大量に買うことになるから、ということを物語っていた。

並んでいる場所から、会場内の様子がガラス越しに伺えて、「それでは、文学フリマ、開場します!」という運営の人の声と、出店者たちによる拍手が聞こえてくると、ガラス越しにも高揚が伝わってきて、こちらも楽しくなる。

果たして、会場に入ると、多くのブースが出ているわりには、通路にゆとりがあり、動きづらい感じはしなかった。
気になるところをローラー作戦で廻っていったが、やっぱり会場内は、文学好きらしいシャイな雰囲気で、「はしゃぎたいけど躊躇する」というアンビバレンスな思いを持っている人たちが多いなぁと、売り子さんからもお客さんからも感じた(そして、それは僕も同じだ)。
広いと思っていた会場も、ぐるっと廻ってしまえば、1時間とかからずに物色は済んでしまい、ここでようやく「曖昧書房」さんに出向き、江戸川台ルーペに会う。

作品を出している身分だし、忙しいだろうと挨拶だけで帰ることも考えていたのだが、彼のカクヨム仲間で初めてお会いした詩一さんも加わって話が盛り上がったので、リフレッシュルーム(休憩室)に移動して、本腰を入れて4人で身の上話や創作界隈の話をすることに。
さらに途中からげえるちゃん、たかなんさん、キタハラさんという、江戸川台ルーペつながりで「Twitterとカクヨムで見る有名人」たちも加わってオフ会の様相を呈してくる。

で、結局4時間以上そこで話していたよ。

文学好きという、ただ、その一点だけで(しかしものすごく大きな一点のおかげで)、初対面にも関わらず同じサークルのメンバーみたいに話せて、この上なく楽しかった。

総じて思ったことは、紙の本強くない?ってこと。
電子書籍を否定しないし、それで読む本もあるけれど(カクヨムだってサイトだし)、こと「文学」においては紙の本、まだまだ人気あるよ。
それから、表紙のイラストや装丁が素敵な本が多く、ジャケ買いしそうになった。個性が強いものが多いのは同人誌ならではなのか、その点は本屋でならんでいる本を見るよりも楽しかった。

若者の本離れ、とか言われるし、経営難になる本屋も多い昨今、事実活字を読む人口は減っているのだろう。
でも、決してなくならないだろうこの熱狂をどうにかして盛り上げたいし、僕も“端っこ”でいいから、これからもこの世界に混じっていたいな、と心から思う。

 

さて、最後にやや個人的な話を。

今回、文学フリマに行った目的のもうひとつは、人を引き合わせることだった。
そもそも、僕はそういうことを滅多にやらない人間だし、状況次第では「やらなきゃ良かった案件」になることも覚悟していたけれど、創作に関わる人のつながりは予想通り(逆に意外にも、か?)相性が良かったようで、リフレッシュルームでの懇親会はとても充実した時間になった。
思い返してみたら、そういえば今までも僕が人を引き合わせた時、その片割れの九分九厘は江戸川台ルーペであって、その点を踏まえても、合わせるべき人は間違いなかったな、と思う。

江戸川台ルーペはじめ、お話しした皆さん -詩一さんの家庭話、げえるちゃんのTwitterと違わぬ“げえるちゃんっぽさ”、たかなんさんの爆買いぶり、キタハラさんの漫談トーク- 具体的な創作苦労話はもちろんのこと、皆さんの醸し出す雰囲気とか、存在自体(物書きってちゃんと実在するんだー)という点が、とてもタメになりました。
燻っていた僕自身の創作魂にも火がつきました。あのメンバーでいつか共同制作できたら素敵だなー、と妄想したりしました(一本でも書いてから言おうね)。
そして、出店者として店を守っていた曖昧書房の斉賀 朗数さん、次回はぜひ色々お話し聞かせてくださいませ。
皆さん、改めて、ありがとうございました。

いつか、「この日から始まったのだ」としみじみ思いだせるものを作れるように、僕も今日から創作に軸を移動していきたい。

小さい思いだけれど、そう決意した、文フリのあと。

フリマーズ

文学フリマに行ってきた。

僕は長嶋有がブースを出した2006年に、それ目当てで行ったことがあるけれど、会場も大きくなってたし(この13年ってすごいね)、何より友人である江戸川台ルーペが参加するというところが、前回と違って「楽しみ感」の高いイベントになった。

まとめきれないので、詳しくは明日(もしくは明後日)に改めてにするが、とにかく、色々話をしてくださったキタハラさん、詩一さん、たかなんさん、げえるさん、ご挨拶しかできなかったけれど斉賀さん、そして江戸川台ルーペ、ありがとうございました!

自分も創作やっている端くれとして、エネルギーとしても、心構えとしても得るものたくさんありました。逆に小説書きたい熱でてきました!(いや、お前は歌を作れ)。

身体は疲れたけど、心は満たされた日。これを明日から活かしていくよ。

キンロー

気がつけば勤労感謝の日だった。

とはいえ土曜だし、僕は祝日でも関係なく仕事だし、ほとんど気にもとめていなかったのだが「ハッピーマンデー」で多くの祝休日が毎年日付を変える中で、同じ日に祝日というのはけっこう貴重な存在かもしれない。
勤労感謝の日に仕事するのを、「仕事があってありがたい」と思うか、「こんな日まで労働かよ」と思うかは“あなた次第”だろうけれど、まあ仕事は“そこそこ”あったほうが良いと思う派ではある。

さて、ここひと月ぐらい、“自分らしさ”とか“自分の立ち位置”とかを考えることが多くなってきたのだけれど、それは年末ならではの寂しさゆえか、勤労感謝について意識が薄れてきたせいか……(嘘、後者はないわ)。

とにもかくにも、こうやって徒然とした駄文を貪る日が多くなってきてしまっているので、どうにか今月中に立て直したい。
多分、“やや”働きすぎているのだろう。

さて、明日は休みをとって文学フリマへ行く。
たくさんの創作者の方々のエネルギーに触れて、刺激を受けてくるつもり。

まずは無事に会場にたどり着けるか、が問題だけどね(おのぼりさん)。

4ケタ

メールを管理しない同僚がいる。

一度、彼女のiPhoneを見るともなく見たら、メールアプリの右上の数字(未読メール数だね)が8000とかになっていたのだ。

「どういうこと?」と訊いたら、もうほぼダイレクトメールなので放置しているとのこと。

僕も、もうメールでやりとりする友人はほとんどおらず、受信するのはDMか、Amazonやなんやらの申込控えだけだし、なんかその「放置」というところがロックな感じがしたので、彼女に倣って、僕も放っておくことにした。

それから約4ヶ月経って、未読が1000を超えた(そう考えると8000ってどんだけだよ、って思う)。

4ケタになったら、逆にこの数字が鬱陶しく感じるようになって、一気に消したくなる衝動に駆られる(そう考えると8000ってどんだけだよ、って思う。←2回言ってみました)。

で、これは一回リセットしよう、とちまちま消し始めて、今、370まで減らした。

未読って少なくても気になるし、多すぎても気になる。ただ、そこそこの数字だとそうでもないんだな、と感じるのがわかったのが今回の結果です(300ぐらいだと気にならないのだ)。

とりあえず、これを機に未読なしまでゴミ箱に入れるが、そもそも、もう使ってないサービスからのDM解除すればいいんだよね(それはそれで面倒なのだが)。

それと部屋の片付けだけでなくメールの片付けも下手なことはわかった(ほっとけ)。

ながらーストロンガー

噂の「ストロングゼロ」を飲んでみた。

まず、昨日、サワーといえば基本だろうと思われる「ダブルレモン」というものを飲んで、今日は同僚がオススメしていた「ダブルシークヮーサー」を飲んだ。
思ったよりも甘みが少なく、飲みやすい印象。「あっというまに酔う」という説もあったが、さほどではなかった。
でも、今日、それを飲んだあとにハイボールと日本酒(熱燗)を飲み始めた今、やや酔っ払っている(飲みすぎだよ)。

家飲みするとき、ただ飲むだけでは時間がもったいないので、録画しておいた『相棒』と『G線上のあなたと私』を観ながら、アイロンをかけつつ飲んだ(主夫っぽいかね)。
『G線上〜』の波瑠は本当に可愛い。役柄が可愛いのかなーと思いつつも(眼鏡だしね)、CMに出ている波瑠も可愛いので、多分、単純に波瑠好きなんだと思う(朝ドラは見てなかったけど)。
あと、中川大志も格好いいよね。この人なら認める(上から目線)。

世の中ゴタゴタがありすぎて、自分の無力さに嫌気がさすけれど、そう思う気持ちが“贅沢”だと思って、必死でやらなきゃ、と思う今日この頃。
とにかく楽しく生きなきゃと思う。てんで、それができていない。

そう反省しつつ、今日は店じまい。

明日からまた頑張りましょう。