いつも何者かになりたいと思っていたし、今もそう思っている。
それは結局、他者との関わりで変わるもので、その点、今の僕は、比較的“上手に”何者かになっているのだろう。
ただし、自分がなりたいものになるのと、人から求められるものが必ずしもイコールとは限らないし、むしろ相反する部分の方が多い。
今の自分に、不満があるわけではないけれど、なりたい自分とはやっぱり違うんだよなー、とつくづく思う。
ものの本には、「自分のなりたい姿を考えて、道筋をたて、それを実行していけば、なりたいようになれる」と書いてある(それも結構多くの本に)。
だが、果たしてそうだろうか。
なりたい自分のための道筋を作って、幸いにもその道を歩み始めたとしても、その道は決して楽しいだけではない。自分の能力への落胆、現実と理想の解離、理解されない絶望感、その他もろもろの負の感情を呼び覚ますものも、もれなく待ち構えている。
鈍感ならば割とマシなのかもしれない。
「言い訳するってことは、そこまで好きじゃないんでしょ」と言われればそうかもしれない。
でも、それを乗り越えることは誰にでもできることではない。その苦しみから逃げ出してしまいたい葛藤を常に抱えることになるからだ。
だからこそ、歩み続けている人は、それだけですごいのだ。
今月の初めのほうに、自分が“そうであろう”と思った何者に、自分がなれていないことに、そして心のどこかでその何者になることを「しゃらくさい」と思っていることに気づいてしまったからだ。それはつまり、望んでいる自分でないということだ。
それでも僕はだらだらとめそめそと、物事を曖昧にぼやかしながら今日まで過ごしてきた。傍目には苦労なく見える日々も、本音を(そしてやや文学的に)言えばそういうことだ。
もちろんこういうのは、僕だけの感覚ではなく、誰しもがそうなのだろう(よくいう、「優雅な水鳥も水の中では…」という奴だ)。
そうやって今月を乗り越えてきて、荒波にのまれながらも格闘し模索し、自分の道を切り開こうとしている人たちを見て、結局、自分には覚悟が足りていないという思いに至る。
結局、
書かない不安は書くことでしか解消されない。
歌わない不安は歌うことでしか解消されない。
曲を作らない不安は曲を作ることでしか解消されない。
20年前の自分の文章を読み返して思い出す。
あの時の僕はいつも何かに怒っていた。苛立っていた。自分に対しても。
そして心の奥は今も変わっていない。
僕が昔から書いているモチーフに気づくと、それは「破壊と再生」についてだ。
そういうものをずっと考えてきたのに、僕は自分を一度もちゃんと破壊したことがない。だから当然、再生もない。
ロックとはつまるところ自分自身を破壊することだと思っている(少なくとも自分にとってはそういうものだ)。
破壊と、そして再生を繰り返していってこそ、ロックンローラーを名乗れるのではないかと思う。
日常に、狂気が侵食してくるぐらいじゃないと人生は面白くない。
それを体現している人達に触れて、自分のことを振り返った。
気がつけば僕はわりと傍観者の立場のところにいる。
傍観者であることを望んでいるわけではない。
でも、いつも当事者じゃないような感覚だし、気づけば、いつも当事者じゃないところにいる(集団の中で孤独を感じるのはきっとそのせいだ)。
ちゃんと当事者になる覚悟を持たなければ、僕はいつまでも、またぐるぐると曖昧な日々を送ることになる。
やっぱりそれは嫌だな、と今は強く思っている。
まず1回、自分を「破壊」してみなければいけないのだ。
そんな11月の締め。
今の思いの丈を書いてみたけれど、良いのだろうか。
でも、こういうのをブログにぶっ込んでいくのも、それはそれでロックって奴じゃない?