脳とピアノの良い関係。イベント「楽器は、健康寿命を延ばす!」

銀座山野楽器で行われた「楽器は、健康寿命を延ばす!」という講演&コンサートに行ってきた。

これはピアニストの蔵島由貴さんの著書「生涯健康脳をつくる!ゆび1本からのピアノ」というピアノ教本の刊行記念イベントで、この本を企画した方と仕事上のつき合いもあるのだけれど、なにより今、僕がこの教本でピアノの練習をしているので、いち読者として楽しみにして参加した。

この教本は、数々のクラシックの名曲が左右1本ずつで弾ける練習曲になっていて(後半5本指の曲もあります)、しかもちゃんと原曲のエッセンスを活かしたアレンジがされているので、練習していてとても楽しい。
あと、僕のようにクラシックの曲が流れた時に「聴いたことあるけれど曲名がわからない」という人間には、曲を覚えるのにも役立つ。

僕は20年近く前に、保育士免許を取るためにバイエルを習っていて、免許取得後も2年ぐらいポピュラー曲を先生に習って練習していたのだけれど、家でピアノ(キーボード)を弾く機会がなくなってからは全くピアノに縁遠くなってしまっていた。
でも、ずっとピアノで弾き語りをしたいと思っていたし、とあるピアニストの方から「曲をつくるなら鍵盤楽器はできたほうがいい」とも言われていたので、今年電子ピアノ(ちゃんと88鍵あるやつだ)を買って、この教本で再チャレンジを始めたのだ。
「生涯健康脳」というタイトルから、どちらかというとシニア向けに作られたものなのだろうけれど、とにかく何か知っている曲が弾きたい、という人にもオススメしたい教本だ。

さて、そして今日のイベント。
3部構成の第1部。まずは教本を監修した東北大学の瀧靖之教授が、いかに趣味を持つことが脳の寿命を長くするのに良いか、ということを講演。楽器演奏者は脳年齢が若いということをエビデンスを交えて、説得力のあるお話しをされる。語り口が柔らかく、またご自身がピアノ愛好家ということで、音楽愛を感じる講演だった。

そして、第2部では、瀧教授と蔵島さんが、ピアノの楽しさや楽器演奏の脳への良い影響などを語った。
そのときに蔵島さんが語った「ゆび1本で弾く練習は、プロが初心に戻りたい時にする練習でもある」という話が印象に残った。
普段5本で弾いているものを1本にすることで、曲へのアプローチをシンプルにする。そうすることで、曲に対して自分の飾らない個性が出てくるとのこと。
ピアニストにとっては、5本で弾くよりも1本指で弾くほうが弾きにくい場面は多々でてくるが、1本指でも「歌うように弾くこと」を意識して弾くというエピソードにプロのストイックさを感じた。

休憩をはさみ、第3部は蔵島さんによるミニコンサート。
ショパンの「幻想即興曲」などを解説を交えながら演奏。その高い技術もさることながら、1音1音に魂を込めるように弾く姿に惹かれたし、それでいて表現が大袈裟になるわけではなく、むしろ各曲の世界観をきちんと表現していて聴き応えがあった。
会場がイベントスペースだったため、音響で苦労しただろうが、それを補ってあまりある演奏と、音楽に真摯に向かう姿勢が見られてとても良かった。大きいホールで演奏を聴いてみたいピアニストだ。

本のテーマでもある「ピアノを演奏することは楽しい」というメッセージが伝わり、1時間40分ぐらいの長丁場が、あっという間に感じられた素敵なイベントだった。
最近サボり気味だったので、心を入れ直してまたピアノ練習を再開しようと思う。

脳のためにもね。

ふじみ野のブルーノ・マーズ

ららぽーと富士見に行った。

郊外型のショッピングモールらしい作りで、通路が広くて買い物がしやすく、ファミリー層が多かった。
欠点はフロア移動するためのエスカレーター、エレベーターの配置がいまひとつなことだが、この手のモールにはめずらしく、フードコートの質が高かった。
こういうモールが車で行ける距離にあるのはありがたいと思う。

さて、ららぽーとの感想はそんなところで、今日の本題はそこではない。

そのららぽーと富士見で「ブルーノ・マーズの曲をアレンジした環境音楽」がずっとかかっていたのだ。
いや、ずっと、というのは語弊があるかもしれないが、僕が確認できただけで「Just  The Way You Are」、「Grenade」、「The Lazy Song」が(「Liquor Store Blues」もあった気がする)、さらには「Uptown Funk」までかかっていた。
そして全てカバー。

ブルーノ・マーズに限った話ではなくて、ビートルズやビリー・ジョエル、マイケル・ジャクソンといった有名な洋楽の環境音楽(たいていはアコースティック)アレンジが店でかかることは多いが、どちらかというと、こういうのは“揶揄される”楽曲なのだと思う。
それはモノマネでもなく、誰が歌っているか、誰がアレンジしたか(インストの場合も多数)などに言及されることもない。原曲よりも「良い」わけでもなく、なぜアレンジしてまで流しているだろうか、と不思議に思っていた。

でも今日、ブルーノ・マーズの曲のアレンジを聴いたら、原曲をそのまま流すと強すぎてショッピングのBGMには合わないのだ、と改めて気づいた。
それに、知ってる曲だしメロディラインは心地よいし、オリジナルの環境音楽を流されるより耳馴染みがいいのだ、ということにも気づいたのだ。
これまで、こういう“謎アレンジ”(とあえて言ってみる)って、作る意味があるのか?とまで思っていたのが、「ああ、これはこれでアリなのかもね」と納得してしまった。
それはブルーノ・マーズの力なのか、アレンジャーの力なのか、はたまたショッピングモールで買い物というTPOの力なのか(多分全部ひっくるめてだろうけれど)、音楽と環境の関係を考えさせられる、興味深い経験になった。
でも、このアレンジの方で曲を覚えて、原曲を聴いた人はどういう感想を持つのだろうか。経験のある人に聴いてみたい。

ところで、僕は20歳のときに、ちょっとした検査で手術を受けたことがある。
頸部から組織を取って検査したのだけれど(結果は良好でした)、その時は部分麻酔だったので、手術中の音はちゃんと聴こえていた。
で、その時かかっていたBGMで良く覚えているのは、チャゲ&飛鳥の「SAYYES」の外国人カバーバージョン。

なぜ手術中に、しかもなぜカバーバージョンがかかったのか。
僕はずっと手術を受けながらそのことばかり考えてしまっていた(だから手術に関する記憶はそれ以外抜け落ちている)。

手術中に「SAYYES」のカバー。
あれだけはいまだに謎だ。

人生の先輩に教わること

ジャズピアニスト 新井栄一さんのプロデュースするシニアジャズバンドのコンサートに行ってきた。
題して「トワイライト(黄昏)コンサート」。

新井さんには大変お世話になっている関係で、シニアバンドとソロの発表会コンサートには何度かお誘いいただいている(前回は自曲を歌わせていただいていたりもする)。

いつも思うことだが、もう還暦はおろか古稀や喜寿を迎えているような方々の演奏である。人生の先輩が演奏している姿はとても素敵だ。しかも一人の人がピアノ、ベース、ドラムと複数の楽器を演奏するのだ。
これは新井さんの教育方針でもあるらしいが、楽器を複数練習することで、曲やセッションに対する理解度を体感で覚えさせる意味があるようだ。

人生の大先輩たちが、懸命に演奏する姿はとても素敵だ。
正直、上手い人もいれば下手な人もいる。ただ誰しもさすがに年の功、度胸があるというか、物怖じせずにひたむきに曲に打ち込んでいる。しかもちゃんとバンドメンバーの音を感じて、自分の入りや力配分を考えて弾いている。

「新井栄一と時代屋」というレジェンドクラス揃いのジャズマンたちがサポートしてくれる安心感はあると思うが、音楽と向き合う時、アマチュアもプロも関係なくなるのだな、とつくづく思う。
音楽を前にすれば年齢も性別も経験も関係なくなる。ただ、真摯に向き合っているかどうかは見透かされてしまう。
それはちゃんと自分の人生が音楽に載っているかどうかだ。

その点、このシニアミュージシャンたちは皆が、自分の人生を音楽に載せて奏でていた。ある人は控えめに、ある人は大胆に。
そして聴衆もその音楽に自分の人生を少し重ね合わせている。だから、その場はすごく幸せな空間になるのだ。

僕も音楽を嗜む端くれとして、強い影響を受けたコンサート。
自分も音楽に真摯に向き合わないといけない。

探しものはなんですか

今や検索ひとつでどんな情報でも手に入れられる。

ということを誰もが思うだろうが、そうでもない。
なぜならば、検索するのにも上手い下手があるから。

10年以上前にイタリア語を習っていたことがある。
それを知っていた当時の同僚が「ドイツ留学時代にヨーロッパで超流行っていたから買ってしまった」と、イタリア人歌手 Tiziano Ferroの「Rosso Relativo」というアルバムを貸してくれたのがきっかけで、一時期イタリアンポップスにハマったことがある。
といってもすごく気に入ったのはTiziano Ferroだけで、あとはジャケ買いしたりして何人かの曲をちょいちょい聴いていただけなんだけど、今日、Youtubeで洋楽を聴いているうちに、どうしても聴きたいイタリアンポップスを思い出した。

NHKラジオのイタリア語講座のエンディングでかかっていた曲で、当時、YoutubeでPVを観て、曲もPVも良かったのでCDを探したのだけれどAmazonでも買えず、ituneでダウンロードしようと思っても日本版にはなかったため、そのうち忘れてしまっていたのだ。

あの曲を久々に聴きたい。
でも、歌手名も曲名も曖昧。
唯一「ナポリがセリエAで戦ってたってホントかよ」というような歌詞があったのを覚えていたので(本当にそういう歌詞かは不明)、うろ覚えのイタリア語で“Napoli ha gioca seria a”(文法的に間違ってます)でググってみたけど、当たり前のようにサッカーチームのナポリに関する情報しかでてこない。
いや、確かにそれであってるんだけど、探しているのはそれじゃない。

見つからないと余計に聴きたくなるもの。
確か「conなんちゃら」みたいな曲名で、双子ばかりでてくるPVだったので、Google翻訳で「双子」をイタリア語に変換したら「Gemini」となんの参考にもならない答えがでてくる。
いくつか意味の検討をつけて翻訳してみたが、ピンとくる単語はでてこない。

こうやって一度見つからないとドツボにハマりますね、検索って。

で、冷静に考えて、NHKラジオのイタリア語のエンディングだったのだから、そこから調べれば良いかと、wikiでまず調べたけど、番組についての情報はサラッとで、当然エンディングテーマまでは載っておらず、
「NHK イタリア語 エンディング」
をベースにちょっとずつ変えながら検索を続けた。
そしてついにYahoo知恵袋の過去ログで見つけたのだ!

思い立ってから30分くらいかかった。
自分はそこそこ検索名人だと思っていたが、まだまだ甘いと痛感した出来事でした。

ちなみに探していたのはPier Corteseの「Contraddizioni」という曲。
「Contraddizioni」の日本語訳は「矛盾」だって。

双子関係なかった。

「クニトInt’lユースオーケストラ 第5回定期演奏会」

石神井Int’lオーケストラ定期演奏会と同じ日に、姉妹オケであるクニトInt’lユースオーケストラの定期演奏会も行われた。

聴いた感想をひとことにすれば、
はっきり言ってこれは「子どものオーケストラ」ではない。

団員は小学生以上高校生以下。ほとんどが小中学生であるが、いわゆる「小さな子が頑張って演奏している」演奏会ではないのだ(もちろん、そういう可愛らしさもあるが)。

第1部の「セントポール組曲」と「シンプルシンフォニー」。
合奏曲としてはさほど難しくない曲なのかもしれないが、ただ楽しんで弾くだけでなく、しっかり大人の演奏、つまり指揮者に求められるレベルの音を出そうと、皆が真剣に弾いているのだ。
もちろん石オケからの賛助メンバーやプロ演奏家である講師が音楽的な支えとはなっているのだろうが、その存在に決して甘えることなく自分の演奏に徹する団員たちの姿からは「子ども」と「大人」を区別することはできない。
「ステージに上がった以上はすべての演奏家が対等」というようなことを考えさせられた。

音楽監督・指揮者の西谷国登さんも、演奏前に声がけをしてモチベーションをあげたり、団員の緊張をほぐす間をつくったり、と石オケよりもアプローチの仕方を増やしていたけれども、曲が始まってしまえば遠慮なく指揮をふる。
団員を「子どもとして」ではなく、きちんと「いち演奏家」として扱う姿は、このクニトオケの子どもたちの音楽的成長に大きな影響を与えるだろうと思った。

 

そして世界で活躍するピアニスト、ジャスミン荒川さんと共演できたことも、大きな影響を与えただろう。
曲はリストの「ピアノ協奏曲 第1番」。
3楽章制のアレンジだったが、団員も最後まで集中力を切らさずにジャスミン氏の演奏を支えた。
そして、ジャスミンさんの演奏は圧巻のひとこと!
まさかアマチュアの(しかもユースの)オーケストラでこういう演奏を聴けたというのは、聴衆にとっても嬉しい驚きだったに違いない。

西谷さんが「超一流の腕前」と絶賛するピアニストと一緒に演奏する機会を小さいうちから得られたことは、貴重な財産であり、贅沢な経験だろう。今は、その意味がわからない団員もいるかもしれないが、年齢を重ねて演奏を続けていく中で、この経験が生かされる時が来るはずだ。

 

アンコールの「ホルベルク組曲」まで変わらぬ「大人の顔」をした演奏を続けたクニトInt’lユースオーケストラの団員たち。
このメンバーたちが音楽的に、そして人間的にどう成長するのかも楽しみになってくる。そんな演奏会だった。

次なるステージ 「石神井Int’lオーケストラ 第5回定期演奏会」

第5回目を迎えた、地元、石神井Int’lオーケストラ(石オケ)の定期演奏会。

去年の演奏会を聴いて、4年かけたフェイズ1を終えたと僕は記したが、今年はフェイズ2の第1弾とも言える演奏会となる。果たしてどういう演奏が聴けたのか。
その答えはバロック時代の“合奏協奏曲”と、5弦ヴィオラという異端の楽器との共演、そして20世紀音楽・難曲への挑戦である。

1曲目はバッハの「ブランデンブルク協奏曲 第3番ト長調」。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがそれぞれ3パートずつに分かれ、独奏と合奏の区別のない(いわゆるソリストと伴奏がいる“独奏協奏曲”ではない)協奏曲である。団員たちの息が合い、これぞ弦楽オーケストラといった調和のとれた演奏。
第2楽章は即興演奏で行われるらしく、今回はチェリスト毛利巨塵さんのソロによる演奏が行われたが、オリジナルのソロでありながら、あたかもそこに譜面が存在しているかのような見事な演奏に魅了された。
石オケはヴィオラとチェロの人数が相対的に多い。もちろんヴァイオリンが一番多いのだが、合奏協奏曲を演奏しても違和感のない音のバランスが実現できる。そして毛利さんのようなプロの演奏家がいることで説得力のあるソロも楽しめる。石オケの二つの強みを活かした選曲だったのではないか。

 

そして2曲目はモーツァルト「クラリネット協奏曲イ長調(5弦ヴィオラ編)」。
5弦ヴィオラ奏者であるルドルフ・ハケン氏との共演である。

実は石オケは2年前もハケンさんと共演しているが、その時演奏したのは彼の作曲した「5弦ヴィオラの協奏曲」。作曲者自らが演奏するので、曲の解釈、聴かせどころはハケン氏に任せて、しっかり伴奏に徹すれば、聴かせられるレベルの演奏をすることはできる。
だが、今回はモーツァルトの「クラリネット協奏曲」という、聴衆にも知られているし、曲自体を知らなくても“モーツァルトらしさ”を期待される楽曲なのだ。クラリネットパートが5弦ヴィオラの演奏になっているというだけでも、その音色、雰囲気はだいぶ変わる上に、モーツァルトらしく弾かないと観客の満足度は下がってしまう。同じソリストとの共演といってもオケに求められるものが2年前とは比べられないくらい重い。

いざ演奏が始まると出だしからモーツァルトらしい軽やかな旋律が奏でられ、きちんと曲の世界を表現できているように思えた。
そしてクラリネットパートを弾く5弦ヴィオラのソロが合わさると、5弦ヴィオラという楽器の特殊性によるのかハケン氏の音楽性によるのか、どこかアメリカンな雰囲気が加わった。

だが、それは紛れもなくモーツァルトの曲だった。オーケストラが素直にヨーロッパのモーツァルトを表現し、ハケン氏が奏でる新大陸に渡ったモーツァルトと共演しているようにも思え、なんともいえない独特の世界を生み出していた。弾いている団員にとっても、貴重な楽しい経験だったに違いない。

 

そして団員がもっとも苦しんだという難曲、20世紀に活躍した作曲家バルトークの「弦楽のためのディベルティメント」である。
この曲、奏者泣かせだけでなく、聴者泣かせでもあるらしく、聴く側にもある程度理解がないと「不快になるかも」ということで演奏前に簡単な曲解説が入る。ここで、各章のさわりが披露され、聴く側も「これは難解そうだな」と予習はできたのだが全体像はわからない。かえって予習ができた分、一体どんな曲なのかどんな演奏がされるのか、期待が(そして不安も)高まる。

曲が始まってみると、解説で感じた以上に、次々とめまぐるしく曲が展開する。聴く側はなんとか展開をつかめるが、弾く立場となると確かについていくのもしんどいだろう。ただ、団員の努力の甲斐もあって、第1楽章の変拍子も破綻することなく、第2・3楽章の劇伴のようなフレーズとともに、この楽曲の不思議な世界を楽しめた。これは、各パートにサポートのプロ演奏家がいるから可能だったという面もあると思うが、団員一人ひとりが真剣に曲と向き合い、それぞれ今できる演奏を精一杯した賜物だろう。
奇しくもNHK-BSに出演した際、石オケ音楽監督・指揮者の西谷国登さんが「アマチュアオーケストラは雰囲気をつくったり、どうやったら自分たちが楽しめるのかということを表現するのに長けている」と言っていたように、しっかりと曲の雰囲気、そして“石オケの楽しさ”を曲に乗せていた。

 

去年よりももう1ステップ上のステージを目指したと感じられた石オケだが、それを実現するためには、音楽監督が乗りこえられるギリギリの課題を与え、団員がそれに食らいついてクリアする。その課題のレベル設定の見事さは、ヴァイオリン指導者としても活躍する西谷さんならではなのではないか。

レベルをあげながらも、新しく入ってくる団員も迎え入れなければいけない。そう考えてみれば、アマチュアオーケストラとは決して完成せずに形を変え続けていくものなのかもしれない。しかし決して完成しないが、ベースのレベルをアップしていかなければ毎年聴衆を楽しませることはできないし、このオケに至っては、その名を表すように「インターナショナル」に羽ばたくことを目指すなら、いつまでも同じ場所に留まることはできない。
だからこそ選曲はこのオケの生命線なのだ。

今年から参加したメンバーもいる中で、音楽監督が出した課題を乗り越えてきた団員たちの真剣な演奏。それこそがここ1年の成長であり、そんなことが当たり前のように、団員を信じ、遠慮することなく指揮をふる音楽監督からお互いの信頼関係も伺える演奏だった。
アマチュアオケ、地域オケとはこうあるべきという姿をみた気がする。

未だ成長の途にある石神井Int’lオーケストラ。
来年の演奏会も楽しみに待ちたい。

「大塚京子 ソプラノ・リサイタル クルト・ヴァイルの世界」

ソプラノ 大塚京子さんのリサイタルに行ってきた。

今回は、ドイツの作曲家クルト・ヴァイルの生涯を、「ドイツ ベルリン時代」、「フランス パリ時代」、「アメリカ ニューヨーク時代」と、その曲の変遷と合わせて紹介しながら歌っていく構成になっていた。

惜しくも僕は用事で開演に間に合わず、「パリ時代」から聴くことになったのだが、パリとニューヨークの曲を聴き分けるだけでも、その曲のスタイルの変化と、それでも根っこでは同じ作曲家の曲だと感じられ、楽曲って、その時代や風土とつながっているのだな、と改めて思った。

2年前のリサイタルでも感じたように、大塚京子さんの良さはその天真爛漫な明るさと、いつまでも少女(乙女)のような可愛らしさだろう。とくにニューヨーク編で取り上げたミュージカル「ヴィーナスの恋」の曲は、心をもったヴィーナス像が歌うという設定らしく、彼女のキャラクターと相まってとても魅力的だった。「愚かな心」はその天真爛漫さが良く出ていて、そこに細かく確かなテクニックを入れてくるところにプロの技もみえて聴き応えがあった。

それから、今回感じたのは、歌っているときの滑舌の良さ。
先に書いた「ヴィーナスの恋」の英語の明瞭さもそうだが、アンコールでも歌った「ユーカリ」(パリ編の曲)など、フランス語がわからない僕でも、意味が伝わってくるような、はっきりとした歌い方をするのが耳に心地よい(ご本人いわく「フランス語が全くできない」そうだが)。

それと同じくアンコールで歌った「マック・ザ・ナイフ」(ベルリン編で歌った「メッキメッサーのモリタート」という曲がアメリカでジャズとなって流行した曲)。
僕は、ボビー・ダーリンが歌ったバージョンのこの曲が大好きで、今回のリサイタルでぜひ聴きたかったので、アンコールで聴けて本当に嬉しかった。
恐らくやろうと思えばもっと崩せるのだろうが、クラシックの良さを活かして、さらにマイクなしといったギリギリのところのアレンジの、新鮮な「マック・ザ・ナイフ」が聴けた(「メッキメッサーのモリタート」と聴き比べたかったが…残念!)。

そして山田武彦さんのピアノは「ピアノって、曲によって音色まで変えられるんだ」ということを実感する心に残るピアノだった。

きちんと実力のある歌い手が、ひとりの(しかも近現代の)作曲家を、その作品と時代とともにとりあげるというコンセプトでリサイタルを開いている、というのはとても意義のあることだと思う。知らない作曲家なら、その曲と時代背景を知ることができるし、知っているなら、より深く曲について学ぶことができる。そしてなによりリサイタル中、とても楽しかった。
次回のリサイタルではどんな作曲家とどんな曲がとりあげられるのか、楽しみにしている。

走る原因

東京大学が、合奏の際になぜ意図せずにテンポが速くなる(業界用語で「走る」)のか、その原因を解明したらしい。
https://clarinet-labo.com/run/

合奏は確かに走りがちだ。僕も合唱時代に経験している。ちゃんと指揮の先生がいるのに走ってしまう(ちゃんと指揮を見ていないだけかもしれないが)。
この研究結果を簡単に言えば「速い人にテンポを合わせるから」という理由。
納得いくようないかないような、それでいてだからどう解決すれば良いのか、少し残念な研究結果だと思う。

音程はピアノのようなラならちゃんとラの音が出る楽器が入っていれば、フォローができそうな気がする。
それは正しい音程を出す楽器に合わせれば良いからで、(僕は合唱しか経験はないが)高い音に合わせがちになっても、どこかで修正できる。

テンポには「絶対音感」のような「絶対テンポ感」はないのだろうか?
そういう能力を持つ人が指揮をして、そこに合わせれば走らない(走っても修正効く)はずだが、逆に正確なテンポでの演奏を聴いてもつまらないのかもしれない。
機械の演奏がつまらない(かどうか、ちゃんと実験したわけではないけど。)ように、音程もテンポもちょっとしたズレが味になるのだろうか。

そうすると設計図である譜面通りに弾いても、それ以上に良い出来の演奏がある、ということなのか?
それって作曲家としてはプライド傷つくんじゃないのか?
とか考え始めるとキリがない。

そういうところが、音楽を含む芸術の奥深さかもしれないが、今度はそういう検証結果が知りたい。

解明されても、僕にはほとんど理解できないだろうけど。

「西谷 国登 第7回 ヴァイオリンリサイタル」

西谷国登さんのヴァイオリンリサイタルへ行ってきた。

2年ぶり7回目となるソロリサイタルは、5回、6回と同様、浜離宮朝日ホールで行われた。ピアニストは前回と同じ新納洋介さん。
今回はブラームスのヴァイオリン・ソナタを中心とした内容だ。

1曲目はそのブラームスが作曲したF.A.Eソナタより「スケルツォ」ハ短調。
プログラムに掲載された解説によれば、アンコールとして演奏されることの多い曲だそうだが、あえてコンサートの1曲目にもってきたとのこと。
力強さと明るさを備えた出だしから、ゆったりと心地よさを奏でる中盤といい、これから始まる音楽の世界に誘うにはピッタリで、この曲からスタートする試みは成功したように思う。

続いて前半の山場ともいえるヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」ト長調 作品78。
「雨の歌」というように雨粒を感じさせるピアノ、それと雨の情景が浮かぶようなヴァイオリンの響きが、ひとつの物語を浮かばせるような演奏となり惹き込まれる。二人がお互いの呼吸を確認しあって奏で合う様子が伺え、コンビネーションの良さも光った曲。

前半最後はツィゴイネルワイゼン。
本来ならリサイタルはヴァイオリン・ソナタだけで構成するつもりのようだが、今回はヴァイオリンの曲の中でも超メジャーなこの曲をラインナップに入れたそうだ。
今回のCD(内容はヴァイオリン小品集になっている)に入っているから、ということもあるだろうし、聞き馴染みのある曲を入れることで観客を飽きさせない意味もあったと思う。
ただ、この曲の演奏を聴いて、僕は「これはご自身の生徒、それだけでなく客席にいる全てのヴァイオリン演奏家に手本を見せるため」なのではないかと思った。
弓を端から端まで使う奏法、左手の使い方、時には全身を使っての曲表現、緩急のつけ方、などその一挙手一投足が生きた手本となり、見るだけで相当の練習になる。ヴァイオリンを弾けない僕でも、学べる部分がたくさん見つかるのだから(とはいえ「凄い!」と感動することしかできないけれど)、ヴァイオリン奏者ならかなりのことを吸収できたはずだ。
以前、キャロル・シンデル氏との演奏でも「指導者の顔」を感じたが、今回はソロ・リサイタルなので、より伝える気持ちが強かったように思う。
そしてそれだけのことをしておいて演奏も圧巻なのだから恐れ入る。

休憩を挟んで、箏奏者 岡部梢さんとの、箏とヴァイオリンによる「瀬音」。
和の曲を挟むことで、王道の中に変化球を混ぜる感じもあるが、それでもリサイタル全体のイメージを崩さずにフィットさせるところに西谷さんと岡部さんの懐の深さを感じる。

最後は、ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108。
楽章ごとに異なる個性をきちんと聴かせつつ、全体の統一感を持たせることが求められる曲展開だったが、このソナタのもつ宇宙観というかドラマティックさをしっかり表現していて、リサイタルを締めくくるのにふさわしいベストアクトだったと思う。

2年に1度の集大成、ということもあってか序盤は少し入れ込みが強く感じた部分もあったが、曲目が進むにつれ、西谷さんのそれぞれの楽曲に対する解釈と世界観を存分に感じさせる演奏会だった。それを支えた新納さんのピアノも素晴らしかった。
なにより、どの曲からも「演奏することは楽しい」というシンプルなメッセージが感じられ、このリサイタルが幅広い様々な世代の観客に、幸せな、心地よい時間を与えられたのではないかと思う。

そして、これだけの演奏を聴きながらも、まだ西谷国登の演奏にはさらなる高みがあるのではないかと期待させられる。
それは演奏者である西谷さんの円熟によるものなのか、一聴衆である僕の円熟によるものなのか(果たしてその両方なのか)。
その世界にこれからもついていけるように、彼の演奏は今後も聴き逃せない。

見えない経験値

3月後半に舞台で歌って以来、1ヵ月以上まともに歌ってなかったので、久々に一人カラオケに行った。

今日のテーマは、新しい曲の練習と、自分にあったキーを探すこと。
僕は基本的に“原キー至上主義”ではあるが、先日の舞台であえて半音下げて歌ったほうが、時には自分の表現したいものを出しやすい、と思ったので、今日は途中上げ下げしながら聴き栄えのよいキーを探してみた。

以前、友人に「原曲のキーでないと、その曲の良さ(雰囲気)が変わってしまう」という説を聞いて、それもなるほど、と思う。
良いなと思った曲も、調が変わるとなんだかつまらない曲になるのも事実ある。
ただ、逆に凡庸だと感じた曲も、キーを変えることで違った良さがでるのではないかとも思うので、こればっかりは“好み”に委ねられるのかもしれない。
とはいえ、カラオケは(とくにひとりカラオケは)自分が気持ち良く歌えれば良いと思っているので、自分が気持ちよく歌えるキーを探してみた。

で、前回カラオケに行ったときに、全体的に半音や1音低くしたほうが歌えると感じたので、今日は下げ気味にしたのだが、逆に原キーのほうが歌いやすかったりもした。
というか、前は原キーだと最高音が出なかった曲が、今日は原キーですんなり出たりした。

この期に及んで、声が高くなってるのだろうか。

昔から、電話ごしだと女性に間違えられるくらいは高い声(アルトは余裕で出る)なのが、おっさんになるにつれ高音が無理なく出るようになってるってどういうことだ。
多分、体調とかそういうので左右される、という結論だろうけどね。
あとはやっぱり舞台で人前で歌って、見えない経験値が溜まってるんだろう。
来月に歌う機会をもらいながら、準備ができそうもなく断ろうかと思っていたけれど、やっておいたほうがレベルはあがるなーと悩みはじめた(ぜいたくな悩みですが)。

ともあれ、課題をもって歌うのは楽しい。
ちゃんとこれを活かせるようにしなければ、と思う。