真実とFAKEの間

佐村河内守の名前を知ったのは、当時、まだ現代のベートーヴェンとして注目を浴び始めたばかりの頃だった。

ちょうどその頃、日本コロムビアの人と仕事をしていて、その人が「いやー、ウチの佐村河内守が話題になってましてね」と得意げに話したことを覚えている。
その時に、コンサートだかCDのチラシをいただいてプロフィールを見たら、耳が聞こえないのにすごい曲をつくる天才作曲家ということが書いてあった。もっとも僕が興味をもったのは「鬼武者」の作曲家だったというところだったけれど(鬼武者、「2」しかやってないけれどね)。
その後、僕は例の「交響曲」を聴くこともなく、その名前も忘れていた頃、佐村河内騒動を文春で読んで、「ああ、あの時の!」と驚いたのを覚えている(名前でわかりますよね)。それから、あの「絶対聞こえてるでしょ」的な会見も見たし、影武者だった新垣氏が面白キャラとして各種バラエティーに出たのもいくつか見た。

“佐村河内守”名義でつくられた曲を全く聴いていない身としては、とくに騙されたとも、卑劣だとも思わなかったが、文春で最初に問題になったのは「義手のヴァイオリニスト少女を金目当てに利用した」というものだったはずで、それが本当ならひどいな、と思っていた。
それからメディアの報道としては、佐村河内氏の耳が聞こえるのか聞こえないのか、という点にシフトしていったので、善人のように扱われた新垣さんだけが得をした感じで自体は収束した感じがしていた。

後に、佐村河内守を撮ったドキュメンタリー映画として『FAKE』が公開された。
僕はどうしてか忘れたが、この作品を興味をもって渋谷に観に行ったのが2年前のこと。

前置きが長くなったが、なぜ今さらこの話を書いたかというと、『FAKE』の監督である森達也氏の著作『ニュースの深き欲望』を読んだからだ。
『FAKE』は初めて観たドキュメンタリー映画だったが、すごく面白かった。熱量の高い映画だった。観客が満員だったので驚いたのもよく覚えている(ドキュメンタリー映画でそんなに人が入るとは思わなかったから)。

ネタバレってあるのかわからないけれど、この映画の中で佐村河内氏は森氏に薦められて自ら作曲を行う。僕はその出来栄えに「自力で結構作れるんじゃん!」という感想をもったが、それすらも「FAKE」である可能性を感じさせる演出もあり、結局、佐村河内守は稀代の悪党なのか、新垣さんばかりが善玉なのか、そのあたりが映画を観たことでより一層曖昧になった。
ただ、この一連の問題について、より考えるようになったのも確かだった。

森監督は『ニュースの深き欲望』の中でこう述べている。

情報にはそもそもフェイクな領域がある。ただしこのフェイクを、単純に「=(イコール)嘘」と訳してほしくない。(中略)
世界はグレイゾーンで成り立っている。1か0かではない。多重的で多面的で多層的だ。どのようで見るかで変わる。絶対的な真実など存在しない。

結局はそれに尽きるのだろう。僕らは情報を善悪で考えたりするけれど、それは見方によってあるいは立場によって変わるのだ。客観性を持とうと思っても最終的には主観になってしまう。ただ、それを意識しているか否かで、世界の見方、もっといえば世界への接し方は大きく変わるのだ。

自分は情報にきちんと向き合う姿勢をもっているだろうか。考える姿勢をもっているだろうかと想像する。

森監督の著作はそういうことを意識させる。今の「情報」を考えるのに良い一冊だった。