平成の終わりに

20年前に知り合った、歌関係の友人たちに会いに行った。

かつて、今はなき某音楽専門学校の社会人クラス(カルチャースクールに通うようなもの)で出会ってから、アカペラをやったり、なにかと音楽交流をしていた仲間で、ずっと一緒にいるわけではないし、途中数年の“音信不通期間”もあるのだが、それでもまだ交流があるというのはなかなか貴重だ。

昨年の8月に2年ぶりに再会して、その時の近況報告も(2年という月日があるから)、人生って人それぞれだなーということを思ったのだけれど、今回はさらに衝撃的な話になり、僕との人生の“密度”の違いを激しく感じたのだ。

非常に曖昧な表現になってしまうが、結局、昨日のブログでも書いたように、人生においての重要度のつけ方によって、その“密度”がだいぶ変わってくるのだな、と再確認させられることになった。
逆に言えば、この友人たちと比べて、僕の人生は、ちゃんと自分の身の回りのことに向き合えてない。
というか、身の回りのことと、遠いところのものの重要度の差があんまりないので、どれもこれも“薄っぺらい”感じがするのだ。

僕は、雑学に長けていると言われることが多く、それは長所だとも思っているけれど(クイズとクロスワードが得意です)、その分、本当に向き合うべきことがなんなのか今ひとつわかっていないような気がする。
注力すべき部分が曖昧なので、時々、ここぞというポイントで本領発揮できる人を羨ましいと思うのだ。
そして自分もそうありたいと思っている。

友人たちの人生は“濃い”けれど、その分やや複雑で、それが良いか悪いかは後になってみてはじめてわかるのだろうけれど、「人生」ってそういうものだよね、そういう「人生」やりたいよね、という気持ちにさせられた。

より目の前のことに真剣にならねば。
そういう思いにさせてくれるという友人に感謝する出来事で、平成は過ぎ去る。

ちなみに平成最後の食事は「サイゼリヤ」でした(カルボナーラ)。