僕がブログを書く理由

高野ザンクはペンネームだ。

なぜペンネームを作ったのかといえば、僕は本名が“強すぎるから”だ。「剛力彩芽」とかそういう意味の“強すぎる”じゃないし、徳川とか豊臣とか、そういう家系が強すぎるというわけじゃない。田中 実さんと違って(一番多いフルネームみたいです←トリビア)、単純に本名が珍しく、多分漢字フルネームだと簡単に特定されてしまって、それが嫌だからだ。
特定されてしまったからと言って、とくにマズイわけではない(多分)。書いている内容が、普段の自分と違うというわけでもない。普段は温厚にふるまっている分、ブログをそのイライラのはけ口をしている、ということでもないし、たまに良いこと書いてるじゃん、っていうのは、内容読んでいただけるとおわかりだろう(だよね?)。
当たり障りのない内容なのだから、本名で書いて身バレしたって別に構わないじゃん!と、(良くも悪くも)自分でも思うのだが、まあなんというか、ペンネームを使う一番の理由は「ああ、あの人、こんなこと考えてんのね?ウフフ」とか思われてしまわないか、という不安があるからだ(完全に自意識過剰)。

最近、ブログのアクセス数について友人と話して、ひとりが「ネタによって1000超えるけど、最近は300ぐらいのもあってイマイチ」だの、もうひとりが「ツイッターでバズって(炎上して?)50000リツイートされた」とか言っている中で、このブログの今週の訪問者数、平均3人だからね!
最大の日でも8人!(いつもありがとう!)
しかも1回「米国領サモア」からアクセスされてるからね!(完全にスパムだよね。サンキュー!でも最大アクセス8人だからね!効果ナイヨ!残念!)

そんなブログで、ペンネームだの身バレだの言ってるの、ちゃんちゃらおかしい。

逆に言えば、それでもブログを続けていられるって幸せなことだ。週刊少年ジャンプだったら、もう2話目で後ろから2番めのポジションだろうし、6話で打ち切りになった、あの伝説の漫画「セコンド」を超える勢いで打ち切りになっているはずだ(僕、好きでしたよ「セコンド」、1話の減量失敗しちゃう話を今でも覚えている)。
そのあたりワールドワイドウェブは寛容だ。

話が脱線した。

で、あいもかわらず中年サラリーマンの思いつき(愚痴ですらない)をうんうんうなりながら更新し続ける中で、「僕がブログを書く理由ってなんだろう」と考えてみた(一応考えるんですよ、僕も)。
そうしたら、つまり結局、僕は自分の好きな「娯楽」について書きたくて、このブログをやってるんだよなーという結論にたどり着いたのだ。
それが僕にとっての「娯楽」であり「趣味」なのだ。つまりはそこに尽きる。

その思いは今月閉鎖してしまう「Yahoo ジオシティーズ」でホームページビルダーでつくったホームページを公開していたときから変わっていない(あれはもう20年も前だ)。
そしてその時も本名は使わずニックネームだった。今以上にしがらみないのに。

なぜかといえば、やっぱり「特定されてしまう自分」が「好きなものについて語る」ということが「恥ずかしかった」からにすぎない。本名でないことでキャラをつくるわけではない。いつも以上に攻撃的になるわけでもなく、逆に「いい人」になるわけでもない。それはいわゆるネットの中の「通称」=文字通りの「ニックネーム」という感覚だった。

そして今、僕はネット上では(それから本業でないことに携わる時は)「高野ザンク」を名乗り始めているが、だからといって、それは本名の僕と違う存在ではない。ただの通称。その方が自分が「やりやすいから」だ。

ただその本質を忘れてしまっていて、ペンネームの活動も、本名での活動もなんだか無理にキャラクターをつくろうとしてしまっていたから、ブログの筆が進まなくなってきたんだなーと気づいたら、ずいぶんと気が楽になった。
ペンネームを名乗ったからといって、新しいことや変わったことをする必要はないのだ。ようは使い分けだ。長嶋有とブルボン小林のように。古くは阿佐田哲也と色川武大のように(いや、そんな高名な方々を引き合いにだすまでもないけど)。

ということで、このブログは“僕の”初心に返って、娯楽について気ままに書いていくことにする。
とはいえ明日からも全然変わらないと思います。ポンペイの落書きみたいに、2000年後「ある独身中年サラリーマンの生態」として未来人のネタになっていればいい、とか思っているぐらいだし、訪問者8人だし(自虐)、つらつらと日記みたいなものも続くはずだ。

でも、ひとつ違うのは、このブログの「役割」に自分が気づいたことだ。続けるうちに、ブログの内容がその「役割」にひっぱられて変わっていくことだろう。
それが良い方向に行くのか、力尽きてしまうのか。
まあこれからもお付き合いくださいませ(特に8名の方々 サモア含め)。