アニメ『ダンベル何キロ持てる?』

TrySailの雨宮天が出演しているので、『ダンベル何キロ持てる?』を見てみた。

予告動画を見た時は、声が「まんま天ちゃんじゃん!」とか思ったけれど、アニメ本編では、ちゃんと役の「奏流院朱美」になっているのがさすがプロの声優だなーと思う。
なにせ僕は天ちゃんをTrySailの歌とラジオでしか知らないので、声優としての仕事を見るのが初めてなのだ。
第1話はまだ“天ちゃんっぽさ”を感じたけれど、2話目ではもうすっかり奏流院朱美として存在しているのがすごいです。

さて、このアニメ。
実際にフィットネス初心者の僕としては、簡単そうに見えるスクワットも超辛いとか、他人と比べて負荷が軽い自分が惨めに感じる、などの「初心者あるある」が描かれていて共感できる。
主人公は可愛い女子高生だが、ジムに通う動機が、洋服がキツくなってきたのでダイエットしなければ、というのと同時に「モテたい」というもので、そのあたり男女差って変わんないだよなー、と当たり前のことに気づいたりする。運動前には普通のストレッチではなく、動的ストレッチが良い、といったトリビアもあるし、主人公が初心者ならではの挫折ポイントをいかに乗り越えていくのか、そのあたりにも注目して追いかけたい。

僕のジム通いはやったりやらなかったりでだいぶ効果薄だが、このアニメでは家でできる筋トレ法がオマケでついているので、これをきっかけにして、ちょっとずつ実践していこうと強く決意したわけだ(決意だけはいつでもできるのだ)。
筋肉体操もそうだが、こういう筋肉嗜好(っていうの?)は最近の流行りとはいえ、やっぱり健康って大事だからね。しかも何もしなければ贅肉がつく一方の年齢なのだから自分でなんとかせねば、なのだ。

そんな中、きっかけは微妙だけれど、こういうアニメに出会ったのも運命かもしれない。
主人公と同時進行で自分のフィットネスも進めてみようと思う。

まあ、早くも三日坊主の予感がしていたりもするけれどね。

3日目の憂鬱

集中力が欠如している。

昨日、外出した際には清澄白河駅で降りるはずが、一つ前の水天宮前駅で降りてしまった。
先週も同じように電車乗り間違えたし、ボケてるのかなーと思うが、結局スマホが原因かもしれない。前回乗り間違えたのはゲーム中、今回はTwitterを見ていて慌てて降りたからだ。
歩きスマホは当然危ないけれど、そうでなくてもスマホばかり見ていると、なにか大切なものを見失ってしまうのだろうか(などと警鐘鳴らしてみる)。
まあ、結局、自分の使い方だよね。
うまくスマホと付き合えるようになりたい。

集中力が欠如している理由としては、寝不足と“薄ら”風邪っぴきもあるのだろう。ここ数日、寒くなったり蒸し暑くなったりして、体調が環境に追いついていかない。弱めの風邪薬で対処しているが、果たして。
寝不足は、今日7時間以上寝たことで若干解消(快眠度82%)。
とはいえ、あんまり回復できた感じがしないんだよなー。気の持ちようなのかなー。

なんだかんだ、週末の心配事に決着がつくまではこんな感じなんだろう。うまいこと体力を(そして気力を)配分して乗り切るしかないのだ。

あと4日頑張りまーす(カラ元気)。

人づき合い

高野さんは社交的ですね。

と、よく言われる。
それは多分、褒め言葉なんだけれど、いやいや性根は“ひとぎらい”だし(っていうか人づき合いが苦手。距離感がわからないのだ)、そんな僕が、そう思われるのは、今の仕事で否が応でも人と、お客さんはもちろん取引先とも関わってきたうちに、後天的に得た能力なんだと思う。

そもそも僕が「文学系少年気質」をもっているというのは、こういうブログでひとり語りしていることからおわかりだろうが、人と会っている時にニコニコとしゃべっていたとしても、後で独りになったときに、「なんであんなこと言ったんだろう」とか、「もっと気の利いた会話があっただろう」とか、いつまでもぐずぐずと思い悩む質なのだ。
筒井康隆もエッセイでそんなこと書いてた(気がする)。

そもそもはそういう人間なのである。

じゃあ今無理してるか、って言われるとそうでもない。煩わしいと思う時もあるが、基本、人と関わるのが嫌ではなくなった。
全ての人がそうなるとは限らないが、以前の僕のように人づき合いが苦手な人でも、そんなの信じてもらえないぐらいに得意になることもあるよ、ということだ。
だから今、人づき合いが苦手で悩んでる人がいたら伝えたい。

それも“慣れ”だと。

そして慣れてしまうと人づき合いも悪いもんじゃないし、その中で、本当に深いつながりができる場合もあるよ、と言いたい。

なんてことを思ったのは、今日、僕は同業他社との方々との懇親会だったからだ。
5年ぶりぐらいに参加したので、知り合いが皆無なアウエーの中、あいかわらず名刺交換のタイミングが下手だし、話す内容を膨らませられないけれど、苦痛とは思わないし、同じ業界の違う価値観に触れるのは楽しかった。

でも、まあ、根が“アレ”なので、どっと疲れましたけれどね。

こうして僕のハードウィーク Days2は終わり。
あと5日乗り切りますよ。

レストレスウィーク

今週は実質休みなし。

しかも週末に初めてのイベントが控えていて、やや不安。
それでもやるしかないし、やってみなくちゃわかんないんだから、この不安はほっとけばいいのだ!とポジティブ展開しては、「でも、あれがそうなったらどうなるんだろう」と未知の恐怖と戦っているわけですよ。
みんなそうでしょう?どうなの?違う?(無駄な煽り)

そういう、不安から貴重な読者を煽ってしまうような状況の中、若干の二日酔い。
頭痛いとか気持ち悪いとかはないが、いつもより身体が重くダルい。昨日寒かったから、風邪の効果かもしれないけれど、それを知る由もない。
禁酒しようとその都度決意するけれど、よほどのことがなければ無理だと悟ったので、節制でなんとかしようと思っている。

あとアルコールの種類や、その質でだいぶ酔い方は変わる。
ここ2、3日はバーボンのロックで、それが良くないのだろうか。そこそこメジャーな銘柄で、昔はこればっか飲んでて何も問題なかったのに…体質って変わるんですかね。

C級ワイン探訪記を終えて、しばらくはチュカロとカルロロッシを交互に飲んでいたんだけど、ある時、新たなC級ワイン(500円以下のワイン)を買ってみたら、たいして美味しくなかったどころか、翌朝の酒の残り方がひどかった。
昔、メイド喫茶で、本当にひどいチューハイを飲まされて以来、安酒には気をつけていたんだけど、そりゃ500円以下のワインだもん、そういうものだってあるよね。
逆にちっとも嫌な残り方がしないチュカロやカルロロッシは優秀ということだね。
ちゃんと良いお酒を“適量”(←ここ大事)飲んでいこう。

そんな忙しいんだから、ブログは休み…
とかしちゃうと多分復帰しなくなるので、通常運転で続けます。

今週は乗り切ることが目標。

七夕の夜、空を見上げることも忘れた

そういうタイトルの脚本を20代の頃考えたことがある。

深夜の単発ドラマか、小劇団のやってる芝居っぽくって、ちょっといいタイトルだなーと当時、我ながら思った。
タイトルだけ先に思いついて、一行も書いていないんだけれど、童心を忘れて忙しく過ごしていた主人公たちが同級生の死を知って、それぞれのこれからを考え直す、という群像劇だった気がする。
まあ、そういう物語を“普通に”考える若者だった自分が、自意識過剰っていうか、やっぱり変わってる気がするね(ほっとけ)。

七夕といえば、幼少の頃は短冊に願いを書いたが、カトリック系の小学校に通っていたこともあって「世界は平和になりますように」とかそういうことを書いていた気がする。
当時からそういうふうに空気を読んでいたかと思うと、それはそれでなんだろう、「うわーっ」ってなりますよね(「うわーっ」って)。

でも「織姫と彦星が会いたいよ」(ざっくりすぎる)っていうものに、幼心にも「合体ロボが欲しいです」みたいなことを書く気分にはならなかったのも事実ではある。

で、やっぱり学校が関わらなくなると、七夕という行事は忘れがちになってしまう。
節分の恵方巻きのように、なにか無理くり慣習を盛り込むと流行るんじゃないの、と敏腕プロデューサーとしては思うわけだ(いつからだよ)。
そうだね、天の川に見立ててそうめんを、それも数本色のついた麺がまじったそうめんを、天の川の方角を向きながら食べるとかどうだ?
北関東では有名な風習です、みたいな。←ありそう。

もっとも、地方によっては盛大な七夕祭りがあったりして、そんな余計な慣習を創作しなくても(創作ってバラした。僕にはまだ善良な気持ちが残っていたのだ)、今日という日は盛り上がっているのだろう。

七夕祭りといえば仙台だ。
仙台といえば、僕にとっては約束の地だし、散歩したあのアーケード(クリスロードだ)が、七夕飾りで飾り付けられているのを想像して、感慨にふけったりもできる。
なんか今朝、仙台の結婚式場のサービスがひどくて話題になっているのを目にしたが、仙台自体に罪はないし、僕にとっては素敵な場所のままだよ、仙台(今日は神戸でTrySailライブがあったんだよなー。神戸は熱く燃えたんだろうなー。うらやましい。セトリ知りたい)。

さて、それはさておき、去年の七夕に何書いてたかなーと思ったら、七夕前日に「七夕前夜」ってタイトルのくせに、中身が全く関係ないこと書いていて、七夕当日はなんと炭酸水のことを書いていた。
読み返すと、やたらと眠い、眠いと書かれていて「大丈夫か、俺」と思う。
今もだいぶ眠いので、時期的なものかもしれない。
1年って早い。何書いたかも、何考えてたかも忘れている。

七夕の夜、去年のブログに何を書いたかも忘れた。

このタイトルでは、しまらないどころか、忘れんぼなだけだな。

ほっこり・しんみり

今日は特になにもない。

でも、仕事でとても感じの良いご夫妻(僕と同い年くらい)と出会って、なんとなくほっこりした。
息子さん連れの、柔らかい物腰の旦那さんを案内した後に、ひとりの女性がやってきて、その方の印象を一目みて、さっきの方の奥さんだなーとわかった(果たしてそうだった)。
なんというか、おんなじ素敵な雰囲気をもっていたからだ。
そういう関係ができるっていいなーと、漠然とだけど思う。

それから、知り合いのイラストレーターさんが、マジシャンである旦那さんのイラストをSNSにアップしていて、素敵だなーと思う。
僕は旦那さんにお会いしたことがないのだけれど、お話しのエピソードを聞くと、お互いの良いところを伸ばして、物足りないところをフォローし合うという、良いパートナーシップを築いているんだろうな、というのがよくわかって、聞いていてこちらもほっこりするのだ。

夫婦の話というと、どちらかといえば、相手の悪口を聞かされるパターンが多い気がするが(それは「照れ」もあるのかもしれないね)、こういうエピソードに触れると、やっぱり素敵な関係って存在するんだなーとしみじみ思う。

僕にはないだけだ。

いやいや、だからといって、まあ焦ったりするわけではないんだけれどね。

俺にはないだけだ(2行ぶり2回目)。

もし、仮にそういう相手がいて、僕はきちんと素敵な関係を築けるか、は疑問だったりする。
まあ、仮定の話しててもしょうがないけどね。

夏だ。
強く生きていこう。

オチはないです。

ぺい

なんちゃらペイというものを使ったことはないし、当分使おうとは思わないが、それにしても7payの問題は結構な衝撃ではあった。

脆弱性がどんなもので、どういう攻撃を受けたのかはわからないが、パスワード再設定の方法が穴で、メールアドレスと電話番号さえわかれば、第三者が簡単に乗っ取れてしまう仕様になっているというのは杜撰すぎる失態だろう。
PayPayのときの「何億キャッシュバック」みたいな(ってあったよね?)、派手なことやってユーザーを囲い込もうとする方法に対して、7payはせいぜい「おにぎりプレゼント」ぐらいで静かなスタートと思ったけど、それすら捨てアカで無限におにぎりがもらえてしまうという悪用もできるらしく、ホント、大グループなのにセキュリティどうなってんの?と不安になったりする。

そもそも「利便性」とか言うけれど、僕にとっては今セブンイレブンで主流の“nanaco”で十分だし、もっといえば現金で不便だと思ったことない。
ペイ系が増えてきて、使い分けている人は、かつての“財布がポイントカードでぱんぱん”状態になっている人もいるんじゃないか。
物理的にぱんぱんにならないのは良いかもしれないけれどね。その都度、使い分けるってけっこう面倒だと思うのですよ。

こういうスマホ決済は、先行者利益が命のビジネスで、よほど利用にメリットがあるものでないと、後発がシェアをとるのは難しいだろうなと、ITジャーナリストじゃない僕だってわかるわけだ。

こういう系は、一度クレジットカードを登録すると、あとは特に認証も必要なくチャージできる、というのがそもそもセキュリティが甘いと思う。
いちいちチャージの際にカード番号入力するのは確かに面倒だし、そのワンクッションを省くことで、使い勝手を良くしてるんだろうけど、せめてクレジットカードからチャージする際に、IDパスとは違うパスワードを求めたり、セキュリティコードを求める仕様は必要だと思う。
IDの乗っ取りって、昔よりも簡単にできるようになってしまったので、その点、安全性を第一に考えるべきだろう。

といいつつ、どれだけセキュリティがあがっても、最初に書いたように、ぼくは一部のデポジットカードは使うけど、当面スマホ決済ものはいいや、と改めて思う。
ただでさえAmazonで買い物するのがクレカだから「実質無料」とポチる回数が増えてしまっているのだ。普段の買い物までそういう状態だったら、ホント、破産しますわ(いや、それ以前にたくさん買い物するほど余裕はないんだけれどね)。

カードの明細が来て青ざめる日々にならないよう、なにごとも節制が大切です。

本業

最近、ブログ頑張ってますね。

と1年ぐらい前に言われたことある。
毎日更新して半年以上がたっていて、毎日更新するっていうのは、まあ「頑張っている」ように“見える”のだろう。

でも、例えばこれが企業のブログで売上や販促につながるとか、著名人のブログで知名度アップに貢献するならば「頑張っている」と言えるかもしれないが、どちらでもない僕にとっては、このブログにかける労力が、そういう目的につながるわけではない。
だから「頑張っている」と言われると、嬉しいけれど、虚しい想いもしたりする。

なんというか「そこまでして何やってんの感」がある。
もちろん、僕の人となりをわかってもらうには良いアウトプットだけれど、逆に「高野さんってこういう人だったんですねー」と言われるリスクもあるわけで。

で、結局何が言いたいのかというと、本業を頑張れってことだ。
それは今、自分の飯のタネになっている仕事もしかり、自分のやりたいこともしかり、だ。
それができてこそ、このブログが生きてくるんだろうなーと思う。

このブログは前にも言ったが、何千年後かにインターネッツの奥底から発掘されて、2020年近辺の、いちおっさんの生態として重宝されればいいと思って書いている。ポンペイの壁画みたいな感じで(世界遺産と比べてみた)。
でも、今、現時点、2019年に生きる“僕”としては「ブログしかないおっさん」と看做されるのは嫌だなーという思いがある。
ちゃんと本業をしっかりやって、こんなブログも書いてます、というのが望む形なのだ。

仕事はまあまあちゃんとやってると思うが、しばらく疎かにしている「やりたいこと」を進めなくてはならない。
このブログを始めて1年半経って、ようやくそのことに気づいたりした。

遅せーよ。
ただ、ずっと気づかずにいるより良いだろう(ポジティブ脳)。

ブログを更新しつつ、ちゃんとやることやる人になるぞ。
それが後半の目標です。

浅いなー(でも何千年後かには重宝されてるはずだ)。

『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

リブートした『スパイダーマン』映画の2作目であり、『アベンジャーズ/エンドゲーム』で一旦ケリのついた物語の後日談でもある。

ネタバレはしていませんが、察してしまう部分もあるのでご了承ください。
事前情報なしで観たい方は、観てから読んでいただけると嬉しいです。

『アベンジャーズ』でめちゃくちゃになってしまった複雑な設定を力技でまとめていて、前作の「明るく楽しい娯楽ヒーロー映画」路線になんとか軌道修正してスタートさせたのがすごい。

ピーター・パーカーがアイアンマンの庇護から離れて一人のヒーローとして成長する過程が、『アイアンマン』第1作をなぞる部分もあってファンとしては嬉しい。
単純な感想としては、MJ役が「ブスかわ枠」になっているのはコミックからなのか、キルスティン・ダンストの影響なのか(いや、キルスティン・ダンストもゼンデイヤも可愛いですよ。でも典型的美人ではなくて。そう考えると、『アメージング・スパイダーマン』でエマ・ストーンが演じた恋人がグウェン・ステイシーだったのは「あえて」のような気もする)とか、新レギュラーのアンガーリー・ライスが可愛いとか、役者としてのジョン・ファブローが生き生きしてて、やっぱりこの人好きだわーと思ったとか、そういうものになるのだが、本筋は、最後までフェイクとリアルの区別がつかない展開で、頭がついていけなくなった。

マーベル映画は、単純なヒーローものではない。
X-MENは差別の物語だし、キャプテンアメリカでは、国家の正義の欺瞞を描いたり、そういう何かしら考えさせられるものが込められてはいるけれど、今回は「仮想現実による嘘」という、とても身近な脅威を描いている。
僕たちは知らず知らずに深刻な問題に直面していて、同時に信じることの難しさを痛感する。僕らは簡単に騙されてしまう世界にいるのだなー、とこの映画で思う。そこにリアルな映像が入っていたら、まあ大抵のことは信じてしまう。
昔、『バトルランナー』という映画があって、主役のシュワちゃんがニセの映像によって無実の罪を着せられるのが発端なんだけれど、もう、そういうのが現実に起こりうるという世界に僕らは生きている。
ここ数年で(おそらくそれはトランプが大統領になってからだ)「フェイクニュース」という言葉が当たり前に使われるようになった。そして「フェイクニュース」というものが本当に「嘘」なのか、そうでないか、ということも含めて、僕らは判断を迫られる時代になってしまった。
この映画の展開は、そういう社会的なメッセージを持ちながら、作品自体の中でも、観客を惑わすような仕掛けが入っている。

映像技術や編集技術が進むと、悪意をもってそれを使っている人には敵わないよなーという漠然とした恐怖を感じる。
今回の敵は、戦闘能力は皆無なのに、技術と心理戦に長けていて、たとえスパイダーマンであっても苦戦を強いられるというのが面白くもあり、怖くもあるのだ(だって僕らには危機を察知できる「スパイダーセンス」がないんだもの。イチコロだよ)。

さらに、そういう思いを強くさせたのが、恒例のエンドロール後のシークエンス。
いつもは「オマケ」的なものなのに(前作のなんか、本当にひどかった)、今回は作品の根幹に関わる部分を描いていて、その衝撃が全部持っていったからでもある。
さんざん、本当か嘘か、現実が仮想現実か、というのを劇中やってきたのに、さらに追い打ちをかけるように、「え?そういうこと?」と思わされるオチ。
小説で言えば「叙述トリック」のようなことをやっているのだ。
最後まで観終わった後に、「あの場面のアレってどうだったっけ?」と、もう一度確認したくなるように作られている(観なおさなくても、あるキャラのあるセリフに違和感があったのが、これで納得したりした)。

そういうことを考えると、外見は「快活な青春娯楽ヒーロー映画」でありながら、マーベル・シネマティック・ユニバース作品の中でも異例の「ミステリー映画」になっている。心理的にジワジワくるタイプ。
こういうの好きだけど疲れる(でも、確認のため、もう一回観たい)。

信じることの難しさを描くのに、お人好しのピーター・パーカーは最適だったのかもしれないし、敵からも同情されるほどの彼の善人さがよけいに際立ち、応援したくなる。いつまでもピュアな青年でいてほしいと思うし、軽口を叩きながら戦うスタイルを続けてほしい。

そんな「えー、どうなってんの?」的なラストだったので、次の展開がどうなるのか、すぐに観たい。
単独映画は早くて2年後ぐらいだろうが、MCUに組み込まれているから、他の作品で「その後のスパイダーマン」は少し描かれるのかもしれない。単独映画として成立しているのに、続きが気になって仕方がない。
長生きせねば。

やめるのやめた

ブログタイトルを変更する、と言ってみたものの、一旦取りやめました。

なぜかっていうと、一応、念のため、同じタイトルを使っている人がいるかなーと思ってググってみたら、案の定、1件ヒットしてしまったから。
しかも、音楽活動している人のブログみたいで、それとかぶってしまうのはのちのち困りそうだし、実はこの新タイトルって“苦肉の策”で考えついたものなので「絶対これ!」という思い入れがない。だから、今、そのタイトルを使っている人のほうがタイトルに対する熱意があるのだろう。
なので、今回はその人に譲ることにする(偉そう)。

で、じゃあどうしようかな、と考えついたタイトルがもうひとつあって、それはきっとブログとしては誰も使ってないだろうし、かぶらないだろうと思っていたら、それはそれで、海外のネットショップの店名になっていて、使おうかどうしようか悩む。
世界は広いな。そして世界的にみたら、全く新しいタイトル、ってもう考えつかないんじゃなかろうか。

そんなわけで、しばらくブログタイトル変更は保留する。
ペンネームのときもなかなか決められなかったが、こればっかりは一度つけたら、すぐ変えるわけにはいかないからなー(いろいろ悩むわけです)。

とはいえ、このブログは「今日も誰かに会いに行く(仮)」といいながら、結局、たいして「誰か」に「会い」に行ってないのも事実。
もう少し、このグダグダな日常の切り取り、っぽい感じのタイトルを早めに決めます。

で、今日はポッドキャストの収録をして、そのあと『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』をとしまえんのユナイテッド・シネマに観に行ったのだが、練馬から電車を乗り間違えて、中村橋に行ってしまうという失態をおかしてしまう。
時間に余裕があったので間に合いましたが、自分のぼんやりさ加減に焦る。練馬の乗り換えはなかなかわかりにくいけれど、そういう間違え初だった(だいたい歩いて行っちゃうのでね←言い訳)。
それだけじゃなくて、IMAX3Dで鑑賞するために持参した3Dメガネが壊れていることに、上映開始間際で気づいて、慌てて買い直したりした。
そういう意味で、なんかこの映画とは“縁がない”のかなーと開始前にちょっと不安になったが、作品自体は面白かったし、マーベル・シネマティック・ユニバースのフェイズ3のラストを飾るにふさわしかったです。感想はまた。

それからブックオフでまたTrySailのラジオCDを見つけたので(前回はvol.6 で、今度はvol.3)、脊髄反射的に購入する。夏川椎菜のソロアルバムも買ってしまって、しばらくはTrySailがいれば生きていける感じになってきている。
健全な証拠(そうか?)。

TrySailと言えば、一緒にライブに行った江戸川台ルーペが「カクヨム」で近況報告を更新していて、そこで「TrySailを好きと言うと引かれてしまうかもしれないけれど、それをちゃんと言えない世の中は良くない」と書いているが(意訳。実際はそれを、すごい面白おかしく書いてますので、ぜひ読んでみてください)、まったくそのとおりだと最近の僕は思うのだ。

僕はTrySailファンであることを、リアルな知り合いにも(うざくない程度には)公言している。
自分から話題をふることはないが「TrySail好きなの?」とか「TrySailってどういう人たち?」と訊かれたら、迷うことなく「好きです」とか、「もちょかわいい、天ちゃん美人だしアレです、ナンスは気になる子」と正直に答えるようにしている。いや本当言うと、実際にそうはっきり答えたことはないが、答える気構えは常に持っているのだ。

それは最近、

「僕が、好きなもので定義されるのではなく、僕自身で定義されれば、何が好きだって構わないのだ。だから好きなものは好きと貫く。」

ということを心情としたからだろう。
自分の「好き」を否定されると、自分自身が否定されるような気がするけれど、自分というものをちゃんと持っていれば、そんな好き嫌いなんかどうでもいい。好きとか嫌いとか最初に言い出した人にもそれは伝えておきたい(『ときメモ』やったことないのにフレーズだけ使いたいタイプ)。それから、ひとの「好き」も馬鹿にしない。
そういう精神で生きていこうと思っています。

話がずれた。

まあ、なんだかんだと発言が「穿って」取られることが多くなり、言いたいことが言いにくい世の中だけれど、このブログぐらいは正直に書いていたいわけです(言いたいこと、というよりは、好きなことについて、だけれど)。
そういうようなことがわかるタイトルを探そう。

では、また明日。