Delayed Holidays Days2

連休の中日。

とりあえず朝イチで実家に帰った。
その理由の一つは、月末の旅行のための、小さめのスーツケースと、普段着を買うためだ。
探せば自宅近くで買うこともできるのだろうけれど、どうしても買い慣れた郊外の大型ショッピングセンターで買うほうが間違いがないと思ったのだ。

で、スーツケースはサイズで悩んだ挙げ句に一番小さい、LCCでも機内持ち込み可能なものを買った。
1泊なら余裕、2泊には心もとない容量で、今回は2泊するのだけれど、今後の使用頻度を考えたのだ。これだとコインロッカーにも入るのだ。
だいたい国内旅行は1泊が多いし、来年はTrySailの地方公演を最低1回は追っかけるつもりなので(まだツアーやるかも決まってないが)、これを機に「梱包上手」を目指してみる。
友人にはハワイですら、ボストンバッグ一つで行くという強者がいるから(しかも女性)、自分にできないこともないだろう。

それから洋服も、手頃なシャツを2枚買った。
週に5日はスーツなので、普段着はほぼ買わないし、買うと3年は余裕で着回してしまうのだ(これって会社員あるある?)。
でも、洋服を買うのが特に好きではない僕も、いくつか店をまわってみると、けっこう楽しかったりする。これは自由にお金が使える、ということの嬉しさなのか、どうか(まあちょっと考えては、もう忘れちゃうんだけど)。

先月に続き6冊読書をする予定で、4冊目として、“ミロ先生”の愛読書でもある『堕落論』(坂口安吾/集英社文庫版)を読み終えた(“菅原氏”の愛読書『眼球譚』も読みたかったけど売っていなかった)。
坂口安吾の小説や文章を読んだことはなかったが、同文庫に掲載されている『恋愛論』や『文学のふるさと』といった評論というかエッセイが面白かった。
『不良少年とキリスト』は太宰治について書かれた文章で、これを読むと『斜陽』は読んでおきたいな、と思う。なにせ太宰の作品は教科書に載っていた『走れメロス』しか読んでいないからね(しかも、あれは「道徳」の意味で載っていたように思う)。

そんなわけで、当初の目的は果たせた休日二日目。
明日も半分は予定が決まっている。それ以外の部分をどれだけ有意義に使えるか、だな。

読了

8月の目標は6冊本を読むことだった。

5日に1冊(余り1日)という、本を読み慣れている人ならなんてことないペースなんだろうけど、かなり苦戦した結果、最終日の8/31にまるまる1冊読み切って達成!と、僕としてはちょっと劇的なオチ。

読んだ本は順番に

『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話』ヤニス・バルファキス
『3時間半で国際的常識人になれるゆげ塾の速修 戦後史 欧米編』ゆげ塾
『マーベル映画究極批評』てらさわホーク
『会社員副業時代を生き抜くパラレルキャリアの始め方』かさこ
『もう一歩先の世界へ』苫米地英人/フィデル・カストロ・ディアスバラールト

kindle本が2冊あるが、これも1冊と数えておく(さじ加減)。

で、上の5冊を30日までに(もっと具体的にいえば『もう一歩先の世界へ』は31日の昼に)読み終えて、やっとこさ5冊読破。
この時点で半ば6冊読むことは諦めていたのだけれど、前日に知り合いから中村文則の『遮光』を勧められたので、買って読んでみたら、夜、一気に読み切ってしまったのだ。

いや、もちろん、自分で決めた目標を達成できないのは悔しいから(僕は本来“悔しがり”なのだ)、最後の1冊は意地でも読んでやろう、という気概はありましたよ。でも、あらすじから予想したよりもすらすら読めたので良かった。
決して“楽しく”“愉快な”小説ではないが、面白かった。
久しぶりに小説を読み切ることができたのも嬉しい(読んで途中になっていた『最後のトリック』はどうしても馴染めずに諦めました)。
中村文則については、まったく知らなかったのだけれど、作者がこの作品とデビュー作の『銃』を大切にしているそうなので(あとがきに書いてあった)『銃』も読んでみよう。

というわけで、一応、目標は達成できた(オメデトー!)。

で、僕が読んだ6冊中5冊はノンフィクションで、この傾向がここ何年も続いているので、一度流れを変えるためにも、9月はフィクション中心に読んでいきたい。
今月は特に冊数の目標は立てないけれど、やっぱり6冊ぐらいは読もう。

はてさて、結果はいかに。

読書月間

「このままじゃ自分はダメなまんまだなー」

というか「“惜しい人”で一生を終わるなー」と思ったのが2014年の夏。
それでどうしたか、というと、とにかく本を読もうと思ったのだ。

そうして1年で150冊ほどの本を読んだ。
読書家からしたら大したことはない量だろうけれど、もともと年10冊~15冊ぐらいしか本を読まなかった自分としては10倍以上の数だし、それまで読んでいなかった「自己啓発本」や「人生論」、「ビジネス書」を、休みの日にブックオフで買い漁ってはひたすら読むのはとても楽しかった。
最初の1年のペースには追いつかないが、それから5年で400冊以上の本を読んで、今ではブックオフ通いが趣味のひとつにもなっている。

果たして“惜しい人”から脱出できたかどうかはわからないが、あの時よりも自信は持てていると思うし、本を読んでいたことで共通の話題ができて、人との交流もより深くできるようになったこともある。

で、最近の自分には、なんとなく“突き抜けられない感”があって、これを払拭するにはどうしようか、と考えてみて、じゃあまた読書してみようか、と思ったのだ。
初心に戻ってみるのだ。

積ん読してある本からしばらく読まない本を軒並み処分し、自分の読むべき本だけ手元に残して、これを端から順番に読んでいこうと決めた。
今回は5年前のジャンルよりも「実用書」的な本が多く、読むペースは落ちるはずなので、無理せず今月は6日で1冊、つまり6冊読むことにする。
9月にもしかすると連休がとれるので、まずは今月、本を読み進める感覚を思い出すリハビリに充てて、来月と合わせて15冊読破する目標とする。
面白い本があれば、ブログネタにもなるので、それも良いだろう。

そんなわけで、候補から外れた本をブックオフで処分してきたら2100円になったけれど、代わりに2200円分の本を買ってきてしまって、また本が増えてしまうというヘボさ加減(もちろん売った量のほうが多いから実質は減ってるけれど)。
そんな“積ん読症候群”気味の僕ですが、果たして読むペースが買うペースを上回れるのでしょうか。

まあ、まずは1冊読み切るところから始めてみよう。

片付けと不買運動

年末に人を呼べたのが嘘のように、部屋が散らかっている。

所有物が多いのも一因だろうが、衣類、読む本、ノートなど、日頃使っているものが、気がつくと山積みになってしまっている感じだ。
そのせいか、今日は久しぶりに片付けをしたものの、あまり片づいた感がない。

片付けたり、模様替えをしても変化が感じられなくなると、なんとなく、もう引っ越そうかなーとも思ったりするが、今の部屋に不満があるわけではない。結局はマンネリをどう打破するか、ということなんだろう。
断捨離、とか、ミニマリスト、とかいう言葉が流行りつつあるが、僕には合わないっぽいので、自分なりの片付け法と、過ごしやすい環境づくりを編み出さなければならない。

その第一歩として、とりあえず本を買うのをしばらくストップしている。
それはAmazon primeを始めて、kindle unlimitedが使えるようになったのも理由ではあるけれど。
kindle unlimited、すごく良い。使っていなかったiPadを常に持ち歩くようになった。どちらかと言うと「紙の本派」ではある僕でも、無料(primeの月会費はかかるが)だし、けっこう読みたい本があるのが魅力的だ。

とはいえ、そっちの本ばかり読んでしまって、今積ん読になっているのを読まないので、部屋は片付かないままなのが問題ではある。
計画的な読書が必要だ。

このペースで部屋が片付くのはいつのことになるのだろうか(そう言いながら3年が経とうとしている)。

「空気の中に変なものを」

江戸川台ルーペは僕の古くからの友人である。

彼の文章は、昔から他の人のそれとは大いに違っていた。
「天才的」と言いたいが、それはきっと血の滲むような思いをし、魂を削って文章を書いているだろう彼に失礼だから、別の言い方をすると、とにかく心を掴まれる文章を書く人だった。
そんな彼が小説を書いた。
「空気の中に変なものを」

僕も彼も80年代後半から90年代が青春時代の世代だ。
そして(僕が彼と出会ったのは二十歳を過ぎた後だが)同じような青春時代を過ごしたのだと思う。

僕らの青春時代は理不尽だった。
先生の体罰は当たり前だったし、「そんなことで?」ということで怒られたこともある。女子はスポーツができて容姿の良い男子に群がっていた。
そんなことよりゲームやマンガと男子づきあいができれば、それはそれで良かった。良かったのだけれど、同時に身の回りのさまざまな理不尽に対するどうしようもない苛立ちを感じていた。
女の子に興味はあった。ただそれを後回しにするほど(後回しにせざるを得ない現実があったとして)ゲームや漫画などいわゆるオタク系なものに夢中だったナードな青春時代を過ごした者なら、その理不尽さを一度は感じたはずだ。
そして、僕らのほとんどが普通に大人になり、恋愛をし(学生のときにできなくても大人になるとできるものなのだ)結婚をし、いわゆる普通の幸せを手に入れる(独身の僕が言うのもなんだが)。
でも、あの青春時代の言われようのない理不尽さは常に心のどこかにわだかまりのようなものを残している。

だから僕はこの小説の「僕」に共感するのだ。

バブル経済の中、大人たちが浮かれて、いわゆる男女的な楽しさに興じている一方で、それを冷めた目で見ながら、そして羨ましくも思いながらも、僕らはファミコン(スーファミ)の新しいソフトや、ゲーセンでのストⅡの対戦に夢中だった。そういう80年代〜90年代の喧騒と、賑やかだったけれどもどこか湿った雰囲気を、江戸川台ルーペの小説は持っている。

そう、これは僕らの世代の小説なのだ。

彼は穏やかな中に激情をはらんでいるような、カラッとした陽気さを持ちながらどこか湿っているようなそういう文章を書く。シリアスな中に時々あらわれるユーモアも含めて、彼のアンビバレンスなその思いが文体となって現れている。

これは僕らの時代の小説なのだ。

僕らが経験したエンタメへのオマージュがところどころに散りばめられて、僕らはそれに共感しつつもこの不思議なそして狂気な物語の中に引き込まれる。

これは「大人の冒険小説」だ。
同世代の人にはもちろん、タグが気になった人はぜひ読んでもらいたい。

と、ここまで書いて、この小説に新しい章が加わっていたことに気づく。
続きの章となっているが、いわゆる“本編”のスピンオフの形になっている。
本編とは違った青春小説になっていて、本編はダークな部分が多いが、こちらは中学生のまっすぐな青春をリアルタイムで切り取ったような印象がある。

江戸川台ルーペの今の全力投球が感じられる小説。

小説好きな方はぜひご一読ください。
友人としてだけでなく、いちファンとしてオススメします。

投稿先によって書き方がかわるということを『その可能性はすでに考えた』で考える。

昨日のブログは、以前その映画(『恋はデ・ジャブ』)を観た直後に備忘録的に書いておいたものだが、そういう自分のすでに書いていたものを“発掘”する形で毎日ブログをこなしていこうかと思っている。

で、僕は一時期、読書してはその感想を書き留めておいたのだが、そのうちのいくつかを「ブクログ」というサイトで公開していた(というか現時点でも公開している)。
今日はその中から、ドラマ「探偵が早すぎる」を先日取り上げたので、同じ原作者 井上真偽の小説『その可能性はすでに考えた』の感想を転載してみる。

『その可能性はすでに考えた』2015年11月9日
事件の謎は「奇蹟」が起こしたことを証明するために、あらゆる全ての可能性を否定して事件を解決しようとする探偵、上笠 丞(うえおろじょう)。
裏社会の大物である(そして美女でもある)フーリンとともにひとつの事件が「奇蹟」によって起きたことを証明しようとします。
依頼された事件が、「カルト宗教団体の首切集団自殺」にまつわるという、猟奇的かつ特殊性の高い事件という点で、すでに荒唐無稽ではありますが、さらに、その事件のトリックの仮説をたてるライバルが次々と登場してきて、ミステリーというより「推理格闘小説」の様相を呈してきます。
このライバルたちが、またひとくせもふたくせもあり、お互い奥義を出し合うかのようなディベート合戦が繰り広げられます。
もともとの謎が突飛なこともあり、仮説もかなり暴論ですし(さらに小難しい点もあり)、反証も詭弁のような感じはしますが、読者がしらけない程度のレベルを保っていますし、合間に挿入される薀蓄の数々に、思わず読み進めてしまいます。
またダークかつハードボイルドな雰囲気の中で、アニメやゲームのキャラクターのような人物を登場させ、挿絵がないのにビジュアル的なかっこよさが感じられます。
とはいえ、普通に謎解きを楽しむ作品ではないし、トリックを想像する楽しみは少ないです。
ただ、その屁理屈にも似たディベート合戦と、後半にかけてたたみかける超展開は、他でなかなか味わえない愉快な物語でもあります。

うーん、なんだろう。
書いた内容はなんとなく覚えているし、確かに自分の文章っぽいんだけれど、このブログや備忘録で書いたものとはだいぶ違う感じで違和感がある(よそいき感と言ってもいい)。
その理由を考えてみると「ブクログ」って自分の読んだ本を人に紹介するのが目的のサイトだから、あらすじを書いたり、文体をですます調にしたりして、親しみやすく本を紹介しているから、だろうと思う。
これは「ブクログ」に書いている人たちがみんなそう、というわけではなく、自分が「本を人に紹介するときどう書くか」と考えた結果、こういう文体になったということだ。
どっちかいいかはわからないし、書きやすさ書きにくさもさほど変わらないが、単純に、投稿先によって文体が変わるのが自分のことながら面白いと思った。
それと同時に、自分の書いたものだから、そのままこのブログで使おうと思ったけれど、手を加えないとダメじゃん。とも。なかなか楽はできない。

そんなわけで過去文章をサルベージしつつも、自分の考える「ブログっぽい」文章でこれからも書いていこうと思う。
だんだんとこなれていけば良いのだけれどね。

トラブルin MacBook

MacBookが起動しなくなった。

借りてきたDVDで、読み込めないところがあってフリーズし、その再起動を4回繰り返したら、画面が映らなくなってしまったのだ(起動音はするし、周辺機器の電源も入る)。

Windows PCは、そうなってしまったことがあるけれど、Macは壊れないと聞いていたので(考えてみたら都市伝説ですね)、超焦るし、超困った。

最近はDVD見るのと、ちょっとだけエクセルに記録をつけていただけで、よく使うメモはiCloudで共有できているので、PC中身のデータがなくなっても致命的ではないのだけど、使えなくなってしまうのはやはり困る。

ネットで対処法を見て色々試すも改善されず、迷惑を承知で、Apple製品に詳しい友人にヘルプを頼んだ。

で、アドバイスを聞きながら進んで、今、OSを再インストールしている最中なのだが、WiFiが遅いせいか「ダウンロード終了まで6時間42分」とかなってる(で、微妙に時間が増えたりもする)明日の朝までにできるのだろうか。

それにしても、奇しくも3日前に、特に必要ないのに「MacBook買い換えようかなー」などという話を友人にしていたのだった。

そんなこと言ってるから、現MacBookに拗ねられたのではないか、とオカルトめいたことを考えてしまうくらい、参ってはいる。

カムバックMacBook!

真実とFAKEの間

佐村河内守の名前を知ったのは、当時、まだ現代のベートーヴェンとして注目を浴び始めたばかりの頃だった。

ちょうどその頃、日本コロムビアの人と仕事をしていて、その人が「いやー、ウチの佐村河内守が話題になってましてね」と得意げに話したことを覚えている。
その時に、コンサートだかCDのチラシをいただいてプロフィールを見たら、耳が聞こえないのにすごい曲をつくる天才作曲家ということが書いてあった。もっとも僕が興味をもったのは「鬼武者」の作曲家だったというところだったけれど(鬼武者、「2」しかやってないけれどね)。
その後、僕は例の「交響曲」を聴くこともなく、その名前も忘れていた頃、佐村河内騒動を文春で読んで、「ああ、あの時の!」と驚いたのを覚えている(名前でわかりますよね)。それから、あの「絶対聞こえてるでしょ」的な会見も見たし、影武者だった新垣氏が面白キャラとして各種バラエティーに出たのもいくつか見た。

“佐村河内守”名義でつくられた曲を全く聴いていない身としては、とくに騙されたとも、卑劣だとも思わなかったが、文春で最初に問題になったのは「義手のヴァイオリニスト少女を金目当てに利用した」というものだったはずで、それが本当ならひどいな、と思っていた。
それからメディアの報道としては、佐村河内氏の耳が聞こえるのか聞こえないのか、という点にシフトしていったので、善人のように扱われた新垣さんだけが得をした感じで自体は収束した感じがしていた。

後に、佐村河内守を撮ったドキュメンタリー映画として『FAKE』が公開された。
僕はどうしてか忘れたが、この作品を興味をもって渋谷に観に行ったのが2年前のこと。

前置きが長くなったが、なぜ今さらこの話を書いたかというと、『FAKE』の監督である森達也氏の著作『ニュースの深き欲望』を読んだからだ。
『FAKE』は初めて観たドキュメンタリー映画だったが、すごく面白かった。熱量の高い映画だった。観客が満員だったので驚いたのもよく覚えている(ドキュメンタリー映画でそんなに人が入るとは思わなかったから)。

ネタバレってあるのかわからないけれど、この映画の中で佐村河内氏は森氏に薦められて自ら作曲を行う。僕はその出来栄えに「自力で結構作れるんじゃん!」という感想をもったが、それすらも「FAKE」である可能性を感じさせる演出もあり、結局、佐村河内守は稀代の悪党なのか、新垣さんばかりが善玉なのか、そのあたりが映画を観たことでより一層曖昧になった。
ただ、この一連の問題について、より考えるようになったのも確かだった。

森監督は『ニュースの深き欲望』の中でこう述べている。

情報にはそもそもフェイクな領域がある。ただしこのフェイクを、単純に「=(イコール)嘘」と訳してほしくない。(中略)
世界はグレイゾーンで成り立っている。1か0かではない。多重的で多面的で多層的だ。どのようで見るかで変わる。絶対的な真実など存在しない。

結局はそれに尽きるのだろう。僕らは情報を善悪で考えたりするけれど、それは見方によってあるいは立場によって変わるのだ。客観性を持とうと思っても最終的には主観になってしまう。ただ、それを意識しているか否かで、世界の見方、もっといえば世界への接し方は大きく変わるのだ。

自分は情報にきちんと向き合う姿勢をもっているだろうか。考える姿勢をもっているだろうかと想像する。

森監督の著作はそういうことを意識させる。今の「情報」を考えるのに良い一冊だった。

三十一音に思いを込めて

以前、少しばかり俳句をかじったことがある。

句会形式のワークショップのようなものに参加したのだが、その時の宿題でつくった俳句が、先生から特選(優秀賞みたいなもの)に選んでいただいて、それがまた(柄にもなく)甘酸っぱい恋愛の句だったことから「恋愛についての俳句を作ろう」なんてことを思ってしまい、それが結局は自分の首をしめて、僕の俳人人生は1年半で幕を閉じる。

ちなみにその時の俳句は「夏めくや彼女の袖の傷見えて」。

俳句よりも短歌のほうが恋愛向き、と知ったのはそれからだいぶたってから。とはいえまだ短歌には手をだしていない。
ただ短歌にも興味があって、何かとっつきやすい本がないかと思っていた時に書店で見つけたのが『短歌は最強アイテム』という本だ。作者は千葉聡さん。歌人であり、現役の高校教師(しかも担任をされている)そうだ。
ご自身の高校担任生活における学生とのあれやこれやを描いたエッセイである。

「岩波ジュニア新書」だから、きっと読者対象は高校生以下なんだろうけど、作者が描く高校生たちの青春ぶりは、大人が読んでもキラキラして楽しい気分になる。しかも、この“ちばさと先生”は非常に行動的。
教員の部屋入口に置いてある小さな黒板の使用目的がわからない(訊いてもノーリアクションだった)ことから自由に使えると思って、毎朝おすすめ短歌を書いてアピールを始めたり、合唱コンクールで他クラスの伴奏者がインフルエンザで出られないと聞いてピアノ伴奏を立候補したり、部活の副顧問を掛け持ちしたり…。しかも歌人としての活動もしているわけで、そのバイタリティがすごい。

学生とのエピソードの途中に関連性のある短歌が挿入されるのがこの本の特徴。
著者の作だけでなく、場面にピッタリくるものをセレクションしているが、そのセレクトが絶妙で、文章に軽やかなリズムが生まれてとても読みやすい。
そして各エピソードも、学生と真剣に(でも熱血すぎるというわけでなく)向き合うからこそ体験できた出来事が多く、共感もするし、この先生もそして学生たちも応援したくなってくる。

後半、お母様との生活の話は泣けたし、そういう等身大の話も人柄が感じられた。
脚色はあるだろうが、こういう先生が「現実にいる」ということはとても素敵なことだと思うし、ちばさと先生の血肉になっているものが短歌の影響からだと思うと、もっと短歌について知りたくなる。
それだけ短歌の魅力、奥深さ、そして軽やかさ、楽しさがよく伝わる物語(エッセイだけどあえてそう言ってみます)だ。

短歌、俳句、もしくは詩でもいい。何かと向き合って心を動かされた時は、短い文章にしておくことが良いのかもしれない。

何に良いかって?

はっきりとはわからないけど、単純に思いを言葉に込めるということが「素敵だ」ってことだろう。

親和性

雑誌って美容院で読むためにあるんじゃないかと思う。

昔から床屋も美容院も、つまり髪を切る場所が苦手だ。その理由は、店員さんと会話をするのが苦手ということに尽きる。さらに言えば「仕事なんですか?」とか「今日は何してたんですか?」とか、初対面にもかかわらず、結構プライバシーに踏み込まれるのが嫌なのだ(たいてい噛み合わないし)。
僕はあなたと楽しくおしゃべりしにきたのではないよ、髪を切ってもらいたいのだよ、と思ってしまう。かといって、黙ってるのも手持ち無沙汰でそれはそれで居心地が悪いんだけど。
散髪中に雑誌を読む、という行為もまた苦手だったのだけれど、最近お世話になっている美容院では、グッズ情報誌と「Number」を出してくれるので、それを読むようにしている(ちなみに店員さんも仕事が丁寧で気に入っている)。

グッズ情報誌を買うかと言われたら、まず買わないが、散髪中は読んでしまう。そして紹介されたものは買ったり、試したりしてしまうんだよな。
ワイヤレスヘッドホンも、Bluetoothスピーカーも、そこで読んだ雑誌のランキングが高いものを買った。紹介されてた飲食店にも行った。
なぜか、散髪されながら読むと印象に残る気がするのは僕だけなのか。

買った雑誌も、家で読むと途端に興味が薄れたりして、中身の半分も読まずに処分してしまうので、より、美容院での雑誌のパフォーマンスが際立つ。
でも考えてみたら、そもそも雑誌って、そうやってパラパラと短時間で読むものなのかもしれない。その瞬発性が散髪時間というものにジャストフィットしているのではなかろうか。

難しく言ってみたけれど、つまり美容院で雑誌読むと良い時間つぶしになります、という話です。