はたち(をだいぶ超えてから)の献血

知り合いと血液型の話をしていて、献血の話になった。
僕も彼女も、自分の血液型を知ったのが献血を受けた時だったからだ。

僕が最初で最後の献血を受けたのは忘れもしない2011年3月9日。つまり東日本大震災の2日前。当時、僕はまだ自分の血液型を(正確には)知らなかった。
両親はB型同士、そして兄も、それどころか父方母方の祖父祖母も全員B。もうこの時点でB型であることはほぼ決まりなのだけれど、周りからは「Oっぽい」とか「Aじゃないの?」と、どちらかといえば「Bはない」説が多かったのだ。

ちょうど、ことあるごとに献血に行っているという若干献血マニアな同僚がいたので、どこの献血ルームが良いか聞いたら、有楽町をオススメされたので、休みだったその日に行ってみたのだ。
当時、言われていたミスドやマックが食べられる、という場所ではなかったが、ジュースは飲み放題だったし、カントリーマアムとかせんべい類が好きなだけ食べられる仕様になっていた。雑誌やマンガも置いてあった気がする(記憶は曖昧)。
こどもの頃は、献血車の前で紙パックのジュースを配っていたのを覚えているので、それに比べればずいぶんサービスが充実しているな、と感じた。

献血する前に問診と、ちょっとした血液検査をしたのだが、その時点で血液型はわかってしまったので「もうこれで失礼します」と言いかけたが、そういうわけにもいかず、きっちりと献血してきた。

その時、献血もたまにはいいじゃん、と思ったのだけれど、震災の混乱があったり、献血をめぐる良くない噂話を読んだりしてしまって、なんとなく足が向かなくなってしまった。
ただ、あの時の僕の血液が誰かの役に立ったのなら、それはそれで良いと思う(血液型もわかったし、ね)。

あ、僕の血液型は安定のBでした。
面白みもなんともない。

抜け落ちた世界で気づくもの 『ロスト・イン・トランスレーション』

この映画は公開された当時から気になっていたけれど、ずっと観ていなかった。

観たかった理由は、日本が舞台、主役がビル・マーレイ、なんとなく好きそうな雰囲気、といったところ。でも結局観なかった理由は、あんまりにもセンチメンタルすぎそうな感じがしたから。

ほとんどのシーンをちゃんと日本でロケしたようで(異文化の国での物語を強調するようにカリカチュアされてはいるものの)、珍しく「間違ってない日本」を描いているのが嬉しい。ソフィア・コッポラは日本に住んでいたことがあるらしいので、その辺のバランスはとれているのだろう。

ビル・マーレイは日本のテレビ番組を観てうんざりした顔をするのだけど(基本、この映画の中ではだいたいうんざりした顔をしているが)、映るのが深夜バラエティだったり、謎の白黒時代劇だったりしてちょっと演出されてる感はある(でも、当時バラエティを見慣れていたはずの自分から観ても「罰ゲームで二人羽織でうどんを食べる」というのをテレビで見て、それって本当に面白いか?という気にはなった)。電車の中で漫画雑誌を読むことや、音ゲーに興じる若者のシーンが挟まれていたけれど、外国人にはその姿が確かに奇異に見えるのかもしれない。
それだけでなく、突然、寺に行って祈祷を見るシーンだの、いけばな教室に迷い込むだの、京都へ行くだの、富士山を正面にしたゴルフ場でゴルフしたりだのがインサートされる。
いけばなのワビサビや、なぜ寺で祈願をしているのか、そのあたりは語られないが、それこそ、タイトルどおり「ロスト・イン・トランスレーション」(訳してしまうと抜け落ちてしまうもの)を起こさせようとしているように思えた。

事柄じたいは間違っていない日本が描かれるが、ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンの主人公二人が繰り出す夜の街は、正しい日本の姿とは思えない。
カラオケ館で歌うシーンはあるが、一緒につるんでいる日本人の若者は、エッジの効きすぎたパリピのようで(裏の世界、とまではいかないが夜の街で生きている感じ)共感はできない。行く店も仲間内のパーティーが行われているクラブだったり、謎のアングラ・セクシーバー(上半身裸で女性が体操みたいなのをするのだ。こういうのはアメリカ的発想だろう)みたいなとこだったり。
さすがに「居酒屋でくだを巻く」というシーンを入れても響かないのだろう。
ただ、こういう“ウサの晴らし方”はできる、できないは別として、誰しもしてみたいことだろうな、とは思う。仲間と一緒にちょっと悪ぶった行動をとってみて、騒いで過ごす。日本人もアメリカ人も寂しい時のウサの晴らし方は案外変わらないのかもしれない。

この映画ではとにかくスカーレット・ヨハンソンが可愛い。垢抜けないけど魅力的。平凡で、でもまだまだ遊びたい、自分の人生これでいいのだろうか、と人生の迷子になっている若い人妻を自然に演じている。
まさか今、スカヨハがあんな「男性を手玉に取る強かな女性」像になるとは、当時この映画を観ていたら思わなかった(これは木村佳乃がまさかあんなキャラになるとは、とほぼ同意です)。

女性監督ならではの感性だな、と感じたのはスカヨハが「女の子はみんな写真に夢中になる。馬を好きになるように。」というところ。
僕は今まで全く気づかなかったが、言われてみれば確かに女性は写真に夢中になるし(男性がカメラに夢中になるのとは違う)、馬が好きだ。

僕には、文化のギャップというのを日本人としてしかみれないから、この映画の意図するものは一生つかめないのかもしれない。
世代間のギャップという意味でも、主人公のように25年間の結婚生活を経験しているわけでもなければ(結婚自体経験がないし!)、ましてや新婚の人妻には一生なれない。

主人公の奥さんから電話がかかってきて、彼は東京の様子を伝える。
それを聞いて奥さんは「東京は楽しそうね」と言う。
主人公は言う。
「楽しくはない。この街は変わっている」

大人になっていろいろなものを抱えるようになると、異世界、異文化の街に来た時、僕らはこういう感情をちょっとだけ持つ。文化の違いに興味を持つけれど、それが楽しいか、と言われるとそうでもない。ただ「違っている」ということを面白がるだけだ。
そしてそういう自分がゆらぐ場所にいる時に、素の自分が何を求めているのか気づく。

だから人は旅をしたいと思うのだろう。

地味な映画だけど、結局これは「おとぎ話」である。
日本で公開された2004年、僕はまだ20代だった。その時見ても、おそらくこの映画には「退屈な映画だった」という感想を持っただろう。
40代になって観たからこそ、この映画は良いな、と思えるのかもしれない(スカヨハの幼い魅力も今だから可愛いと思えるのかもしれない)。
ただ、少し人生の機微がわかるようになった今、「人生ってなんだろう」と見つめ直したり、自分が何を求めているのかを考えさせられる作品ではある。
そういう人は一度観ておいて損はない。

「クニトInt’lユースオーケストラ 第5回定期演奏会」

石神井Int’lオーケストラ定期演奏会と同じ日に、姉妹オケであるクニトInt’lユースオーケストラの定期演奏会も行われた。

聴いた感想をひとことにすれば、
はっきり言ってこれは「子どものオーケストラ」ではない。

団員は小学生以上高校生以下。ほとんどが小中学生であるが、いわゆる「小さな子が頑張って演奏している」演奏会ではないのだ(もちろん、そういう可愛らしさもあるが)。

第1部の「セントポール組曲」と「シンプルシンフォニー」。
合奏曲としてはさほど難しくない曲なのかもしれないが、ただ楽しんで弾くだけでなく、しっかり大人の演奏、つまり指揮者に求められるレベルの音を出そうと、皆が真剣に弾いているのだ。
もちろん石オケからの賛助メンバーやプロ演奏家である講師が音楽的な支えとはなっているのだろうが、その存在に決して甘えることなく自分の演奏に徹する団員たちの姿からは「子ども」と「大人」を区別することはできない。
「ステージに上がった以上はすべての演奏家が対等」というようなことを考えさせられた。

音楽監督・指揮者の西谷国登さんも、演奏前に声がけをしてモチベーションをあげたり、団員の緊張をほぐす間をつくったり、と石オケよりもアプローチの仕方を増やしていたけれども、曲が始まってしまえば遠慮なく指揮をふる。
団員を「子どもとして」ではなく、きちんと「いち演奏家」として扱う姿は、このクニトオケの子どもたちの音楽的成長に大きな影響を与えるだろうと思った。

 

そして世界で活躍するピアニスト、ジャスミン荒川さんと共演できたことも、大きな影響を与えただろう。
曲はリストの「ピアノ協奏曲 第1番」。
3楽章制のアレンジだったが、団員も最後まで集中力を切らさずにジャスミン氏の演奏を支えた。
そして、ジャスミンさんの演奏は圧巻のひとこと!
まさかアマチュアの(しかもユースの)オーケストラでこういう演奏を聴けたというのは、聴衆にとっても嬉しい驚きだったに違いない。

西谷さんが「超一流の腕前」と絶賛するピアニストと一緒に演奏する機会を小さいうちから得られたことは、貴重な財産であり、贅沢な経験だろう。今は、その意味がわからない団員もいるかもしれないが、年齢を重ねて演奏を続けていく中で、この経験が生かされる時が来るはずだ。

 

アンコールの「ホルベルク組曲」まで変わらぬ「大人の顔」をした演奏を続けたクニトInt’lユースオーケストラの団員たち。
このメンバーたちが音楽的に、そして人間的にどう成長するのかも楽しみになってくる。そんな演奏会だった。

次なるステージ 「石神井Int’lオーケストラ 第5回定期演奏会」

第5回目を迎えた、地元、石神井Int’lオーケストラ(石オケ)の定期演奏会。

去年の演奏会を聴いて、4年かけたフェイズ1を終えたと僕は記したが、今年はフェイズ2の第1弾とも言える演奏会となる。果たしてどういう演奏が聴けたのか。
その答えはバロック時代の“合奏協奏曲”と、5弦ヴィオラという異端の楽器との共演、そして20世紀音楽・難曲への挑戦である。

1曲目はバッハの「ブランデンブルク協奏曲 第3番ト長調」。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがそれぞれ3パートずつに分かれ、独奏と合奏の区別のない(いわゆるソリストと伴奏がいる“独奏協奏曲”ではない)協奏曲である。団員たちの息が合い、これぞ弦楽オーケストラといった調和のとれた演奏。
第2楽章は即興演奏で行われるらしく、今回はチェリスト毛利巨塵さんのソロによる演奏が行われたが、オリジナルのソロでありながら、あたかもそこに譜面が存在しているかのような見事な演奏に魅了された。
石オケはヴィオラとチェロの人数が相対的に多い。もちろんヴァイオリンが一番多いのだが、合奏協奏曲を演奏しても違和感のない音のバランスが実現できる。そして毛利さんのようなプロの演奏家がいることで説得力のあるソロも楽しめる。石オケの二つの強みを活かした選曲だったのではないか。

 

そして2曲目はモーツァルト「クラリネット協奏曲イ長調(5弦ヴィオラ編)」。
5弦ヴィオラ奏者であるルドルフ・ハケン氏との共演である。

実は石オケは2年前もハケンさんと共演しているが、その時演奏したのは彼の作曲した「5弦ヴィオラの協奏曲」。作曲者自らが演奏するので、曲の解釈、聴かせどころはハケン氏に任せて、しっかり伴奏に徹すれば、聴かせられるレベルの演奏をすることはできる。
だが、今回はモーツァルトの「クラリネット協奏曲」という、聴衆にも知られているし、曲自体を知らなくても“モーツァルトらしさ”を期待される楽曲なのだ。クラリネットパートが5弦ヴィオラの演奏になっているというだけでも、その音色、雰囲気はだいぶ変わる上に、モーツァルトらしく弾かないと観客の満足度は下がってしまう。同じソリストとの共演といってもオケに求められるものが2年前とは比べられないくらい重い。

いざ演奏が始まると出だしからモーツァルトらしい軽やかな旋律が奏でられ、きちんと曲の世界を表現できているように思えた。
そしてクラリネットパートを弾く5弦ヴィオラのソロが合わさると、5弦ヴィオラという楽器の特殊性によるのかハケン氏の音楽性によるのか、どこかアメリカンな雰囲気が加わった。

だが、それは紛れもなくモーツァルトの曲だった。オーケストラが素直にヨーロッパのモーツァルトを表現し、ハケン氏が奏でる新大陸に渡ったモーツァルトと共演しているようにも思え、なんともいえない独特の世界を生み出していた。弾いている団員にとっても、貴重な楽しい経験だったに違いない。

 

そして団員がもっとも苦しんだという難曲、20世紀に活躍した作曲家バルトークの「弦楽のためのディベルティメント」である。
この曲、奏者泣かせだけでなく、聴者泣かせでもあるらしく、聴く側にもある程度理解がないと「不快になるかも」ということで演奏前に簡単な曲解説が入る。ここで、各章のさわりが披露され、聴く側も「これは難解そうだな」と予習はできたのだが全体像はわからない。かえって予習ができた分、一体どんな曲なのかどんな演奏がされるのか、期待が(そして不安も)高まる。

曲が始まってみると、解説で感じた以上に、次々とめまぐるしく曲が展開する。聴く側はなんとか展開をつかめるが、弾く立場となると確かについていくのもしんどいだろう。ただ、団員の努力の甲斐もあって、第1楽章の変拍子も破綻することなく、第2・3楽章の劇伴のようなフレーズとともに、この楽曲の不思議な世界を楽しめた。これは、各パートにサポートのプロ演奏家がいるから可能だったという面もあると思うが、団員一人ひとりが真剣に曲と向き合い、それぞれ今できる演奏を精一杯した賜物だろう。
奇しくもNHK-BSに出演した際、石オケ音楽監督・指揮者の西谷国登さんが「アマチュアオーケストラは雰囲気をつくったり、どうやったら自分たちが楽しめるのかということを表現するのに長けている」と言っていたように、しっかりと曲の雰囲気、そして“石オケの楽しさ”を曲に乗せていた。

 

去年よりももう1ステップ上のステージを目指したと感じられた石オケだが、それを実現するためには、音楽監督が乗りこえられるギリギリの課題を与え、団員がそれに食らいついてクリアする。その課題のレベル設定の見事さは、ヴァイオリン指導者としても活躍する西谷さんならではなのではないか。

レベルをあげながらも、新しく入ってくる団員も迎え入れなければいけない。そう考えてみれば、アマチュアオーケストラとは決して完成せずに形を変え続けていくものなのかもしれない。しかし決して完成しないが、ベースのレベルをアップしていかなければ毎年聴衆を楽しませることはできないし、このオケに至っては、その名を表すように「インターナショナル」に羽ばたくことを目指すなら、いつまでも同じ場所に留まることはできない。
だからこそ選曲はこのオケの生命線なのだ。

今年から参加したメンバーもいる中で、音楽監督が出した課題を乗り越えてきた団員たちの真剣な演奏。それこそがここ1年の成長であり、そんなことが当たり前のように、団員を信じ、遠慮することなく指揮をふる音楽監督からお互いの信頼関係も伺える演奏だった。
アマチュアオケ、地域オケとはこうあるべきという姿をみた気がする。

未だ成長の途にある石神井Int’lオーケストラ。
来年の演奏会も楽しみに待ちたい。

「大塚京子 ソプラノ・リサイタル クルト・ヴァイルの世界」

ソプラノ 大塚京子さんのリサイタルに行ってきた。

今回は、ドイツの作曲家クルト・ヴァイルの生涯を、「ドイツ ベルリン時代」、「フランス パリ時代」、「アメリカ ニューヨーク時代」と、その曲の変遷と合わせて紹介しながら歌っていく構成になっていた。

惜しくも僕は用事で開演に間に合わず、「パリ時代」から聴くことになったのだが、パリとニューヨークの曲を聴き分けるだけでも、その曲のスタイルの変化と、それでも根っこでは同じ作曲家の曲だと感じられ、楽曲って、その時代や風土とつながっているのだな、と改めて思った。

2年前のリサイタルでも感じたように、大塚京子さんの良さはその天真爛漫な明るさと、いつまでも少女(乙女)のような可愛らしさだろう。とくにニューヨーク編で取り上げたミュージカル「ヴィーナスの恋」の曲は、心をもったヴィーナス像が歌うという設定らしく、彼女のキャラクターと相まってとても魅力的だった。「愚かな心」はその天真爛漫さが良く出ていて、そこに細かく確かなテクニックを入れてくるところにプロの技もみえて聴き応えがあった。

それから、今回感じたのは、歌っているときの滑舌の良さ。
先に書いた「ヴィーナスの恋」の英語の明瞭さもそうだが、アンコールでも歌った「ユーカリ」(パリ編の曲)など、フランス語がわからない僕でも、意味が伝わってくるような、はっきりとした歌い方をするのが耳に心地よい(ご本人いわく「フランス語が全くできない」そうだが)。

それと同じくアンコールで歌った「マック・ザ・ナイフ」(ベルリン編で歌った「メッキメッサーのモリタート」という曲がアメリカでジャズとなって流行した曲)。
僕は、ボビー・ダーリンが歌ったバージョンのこの曲が大好きで、今回のリサイタルでぜひ聴きたかったので、アンコールで聴けて本当に嬉しかった。
恐らくやろうと思えばもっと崩せるのだろうが、クラシックの良さを活かして、さらにマイクなしといったギリギリのところのアレンジの、新鮮な「マック・ザ・ナイフ」が聴けた(「メッキメッサーのモリタート」と聴き比べたかったが…残念!)。

そして山田武彦さんのピアノは「ピアノって、曲によって音色まで変えられるんだ」ということを実感する心に残るピアノだった。

きちんと実力のある歌い手が、ひとりの(しかも近現代の)作曲家を、その作品と時代とともにとりあげるというコンセプトでリサイタルを開いている、というのはとても意義のあることだと思う。知らない作曲家なら、その曲と時代背景を知ることができるし、知っているなら、より深く曲について学ぶことができる。そしてなによりリサイタル中、とても楽しかった。
次回のリサイタルではどんな作曲家とどんな曲がとりあげられるのか、楽しみにしている。

ぶらりと途中下車

金曜とはいえ、明日は普通に仕事(そして夜、外出)、明後日も用事があるので、体調管理のためにとっとと帰る…

つもりではあったが、それもちょっとつまらないので(なにせプレミアムフライデーなんだよ!忘れてたけど)、練馬のブックオフを物色しようと途中下車。
目当ての本はなかったものの、気になった本を3冊買って、そのまま近くのマクドナルドで読書しながら夕食。
昨日もマクドナルドだったので、ちょっと「スーパーサイズミー」的な気分になったりはする。来週、健康診断なのに。

練馬は、ひとりぐらしをしようと思った時に候補にあげた街である(結局、今、練馬区民だけど)。駅前の大通りに多くの飲食店があるし、道も広くて住みやすそう。散策するのに良い駅だと改めて思った(今日まだ3回目だけどさ)。

きちゃう

イニエスタがヴィッセル神戸加入って、すごい時代になった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180524-00000015-goal-socc

世界中の現役選手の中で一番好きなプレイヤーが日本でプレイするのだから、必ず観に行かないといけない。予定をたてよう。

イニエスタのどこが好きか、というと、チャンスメイカーにもフィニッシャーにもなれるところと、やっぱりヌメるようなドリブルだろう。そのプレイを生で見たい。

ちなみに歴代の選手も入れると一番好きな選手はロベルト・バッジョ。
結局、速くてテクニックのある選手が好きなのだ。

フェルナンド・トーレスも鳥栖に来る(なぜ鳥栖?と思ったけど)という報道もあったが(結局アメリカに行くようだ)、かつてのJリーグバブルの時の「一昔前の大物」ではなくて、ピークは過ぎたとはいえ現役のワールドクラスが移籍してくるのは、日本にもサッカーが根づいた証拠なのかもしれない(ここ数年まともにサッカーを観ていない僕には断言はできないが)。

楽天は「パンダフル」しか好きじゃないが、今回については良い仕事しました。
お金って大事だ(それ結論?)。

ニュー祈願パラダイス

5月はどうも上手くいっていない。

4月もイマイチだったような気がするけれど、GWはボーッとしているうちに終わってしまったし、その後もうまく自分のペースをつかめないでいる。

そんな時、ふと部屋の一角にある御札に目が止まった。

僕はここ4年ほど、いつも初詣に行く大宮の氷川神社でご祈願をしてもらっている。厄年の間だけはお賽銭だけでなく、強めのご祈願(お祓い)をしていただいたほうが良いと思っていたからだ。
で、早生まれのため厄年が始まるのが数えなのか満年齢なのかがわからず、一番最初に行った時にまだ前厄ではなかったため「災難除け」になり、そこから去年後厄が終わるまでの4年間、ご祈願していたのだ。
もう厄年は過ぎたので、今年はもういいかなーと思っていたのだが、「余裕があればしてもらっておいたほうが良いかもな」という気持ちと、今月感じていた良くない流れをどうにかしたい思いが重なり、ご祈願に行ってきた。

4年間はひとりで行っていたのだが、今年は母と出かける用事が重なったので、母と一緒に行くことに。僕は自分の災難除け、母は家内安全をお願いする。

僕は神様に対しては「良いことは自分でなんとか切り開いていくので、悪いことから守ってください」というスタンスでいる。
ラッキーなのも嬉しいけれど、良いことは「自分でやった」感が欲しいし、そこまで神様に頼るのは贅沢な気がするからだ。でも、理不尽なことや、なるべく嫌なことからは守ってほしい(それもまあ十分贅沢だけれど)。
なので、厄除けや災難除けはまさに神頼みをしておきたいと思う。

いつもは僕の他に4〜5組のご祈願をする人や団体がいるのだが、今年は、僕と母の二人だけ。神様へのお願いをウチだけで独占してしまい、ありがたいような恐れ多いような気持ちになる。
そのせいか神主さんの祈祷も良く響いたし、言葉も良く聞こえた。
「オオカミがうんぬん…」という言葉が聞こえたので、「ああ、この神社の守り神は狼なのか」と、狼の群れが僕の周りに現れて災難に向かって吠えて守ってくれている絵面が頭に浮かんだのだが、後々考えたら「大神」だと気づき、複雑な気分になった。
まあ、名作ゲーム『大神』が好きだから、その主人公アマテラスを想像したと思えばそれもまた良しだ(あれは犬だけれど)。

ご祈願を済ませて、少しだけど運気が持ち直した気もするので、5月後半から頑張っていきたい。

ノスタルジック通り

昨日の送別会が行われた会場のある通りは、僕が中学、高校時代によく通ったゲームセンターのある通りだった。通りを挟んで大小2件のゲーセンがあったが、今はもうどちらもない。

まだ、対戦格闘ゲームが流行る前だったので、友人と繰り出しては、思い思い好きなゲームに興じていた。

そのゲームセンターには、高校1年の時によく行っていたはずだ(なぜならば一緒に行ってたのが高1のクラスメートだと覚えているから)。

大きい店のほうに行くのが主流で、プレイした覚えがあるのは、「ハードパンチャー」、「パロディウスだ!」、「マーベルランド」、「エイリアンストーム」とか。プレイはしなかったけど、向かいの小さなゲーセンに「ピストル大名の冒険」と、「ウイニングラン」が入っていたのをよく覚えている。

あと、造作の甘い動物のぬいぐるみが景品だった頃のUFOキャッチャーも結構やった。今よりも設定が甘くて取りやすかったのだ。

大きいゲーセンはコンビニになり、小さいほうは居酒屋になっている。

それでも、その通りに行くと、あの時の無邪気さと若さが蘇ってくるのは不思議だ。

おっさんになっただけかもしれない。