それぞれの『誰もいなくなった』

テレビ朝日でやってた『そして誰もいなくなった』を録画していたので観た。
原作は未読、過去映像化されたものも観てはいないので「密室ミステリーの傑作」と言われるこの作品を予備知識なしで観られた。

第1夜「事件編」と第2夜「解決編」を続けてみたのだけれど、本来ならば一晩待たなければ「解決編」は観られないわけで、「これ一体どうなるの?」という上手いところで「事件編」は終わっていた。ただ、続けて観てしまうと「解決編」はオマケ感(というか3時間にして1日で終わらせていいじゃないという感じ)が強かった。沢村一樹演じる相国寺警部のキャラで持たせてた。あのキャラはこれだけで終わらせるのは惜しいので、またアガサ・クリスティ作品をリメイクする時にでてくるんじゃないかと思う。

(原作と違っている部分はあるだろうけれど)ミステリーとしては、2017年の今、トリック自体はそんなにあっと驚くものではない。誰が犯人かすぐにわかったわけではないが、だいたいの見当はついたし、偶然性に頼った部分があって、そんなに上手くいくかなーという疑問も。でもこの作品が1939年に書かれたことを考えると、その後のミステリー小説に多大な影響を与えたことはわかる。
トリックの古臭さを人間ドラマの面を推すことで、2017年に放送する難点をカバーしたおかげか、一気に見てしまうほど楽しめたのは事実で、重厚感のある映像も雰囲気があった。

そして何より渡瀬恒彦さんの遺作だったのが、録画してまで観ようと思った一番の理由だ。しかも病気をおしてこの役を演じるというのは、ものすごい神経を使ったのではないかと思う。ご本人の意志と演技がキャラクターとリンクして、ドラマを一層心に迫るものにした。それはある意味“ズルい”(渡瀬恒彦に頼ってしまった)部分はあるけれど、なにか運命的なものなのかもしれない。

 

それから、同じ『そして誰もいなくなった』が原作だというシュワルツェネッガー主演の映画『サボタージュ』を観たのだが、どこらへんが原作なのかほぼわからない(先に聞いてなければ全くわからない)映画だった。共通点は一人ずつ死んでいくところぐらい。ミステリー要素がないわけではないが、別段観る側に犯人探しをさせる気がないくらいのさらっとしたテイスト、「ミステリー風味」。血みどろのシーンが多めのごく普通のアクション映画。つまらなくはないという感想。

それにしてもシュワちゃんは老けた。“円熟味が増した”とか“味がでた”ではなく、単純に老けた。

舞台『リトル・ヴォイス』に期待

ご縁があって、舞台『リトル・ヴォイス』の製作発表会に行ってきた。

『リトル・ヴォイス』と言えば、映画版を公開当時劇場で観た。
ハリウッド大作ではなく、イギリス映画だったせいかロードショーをしておらず、銀座だか渋谷まで観に行った覚えがある。

しかしながら、映画の内容はほとんど覚えていない。
というのも、本編が始まる前にユアン・マクレガー主演の5分程度のショートムービー『Desserts』が併映されて、これがまさかのホラー。
ミュージカルドラマを観にきたはずなのに、ホラー映画を見せられるという展開で、本編の印象が完全に消されている(で、逆に『Desserts』についてはよく覚えている)。
当時を考えると「ユアン・マクレガー人気」のおかげで、この映画も話題になった部分が大きいから、ファンサービスとして併映したのだろうけど完全に裏目だったと思う。

さて、それでも「面白かった」という漠然な感想を持っているこの映画を日本で舞台化するという。主演は大原櫻子さん。
制作発表会の中で、役の“リトル・ヴォイス(LV)”として歌唱を行うシーンがあったのだが、彼女が“役”として登場した時に、映画で観たシーンが蘇ってきた。

思い返してみれば、この『リトル・ヴォイス』という作品は、普段は誰ともコミュニケーションをとれない少女が、レコードを聴くうちにその往年の名歌手の見事な歌マネができるようになって、その才能を見出される、といった内容だった。

引きこもりの彼女がステージにたった途端に、スターが乗り移ったように歌い始める。

その彼女が醸し出す、不安と歌うことの幸せが入り混じった感覚が、大原櫻子の演じるLVから強く感じられた。

しかもこの役の難しいところは、歌をしっかり聴かせながらも、歌マネとしても成立させなければならないということ。歌手としては、自分の個性とマネのバランスをとらなければならないのだが、今日、お披露目だったにしては見事なパフォーマンスだった。本番までに磨きをかければ、大原櫻子流の「リトル・ヴォイス像」をつくれると思う。

共演者の方々も、本当に面白い舞台をつくろうという気概が強く感じられた製作発表会だった。期待して観にいこうと思う。

 

舞台『リトル・ヴォイス』は、5/15〜28 天王洲銀河劇場にて上演。
その後、富山・北九州での上演もあり。

風邪、花粉症そして厄除

先週の木曜から、ひどい花粉症が始まってしまった。鼻水がとまらない。箱ティッシュを1日1人で使いきるほどに。歯磨きしてる間、ずっと垂れてるぐらい。
それと同時に、ちょっと喉が痛かったりだるかったりして、風邪の諸症状も。

もう花粉症とは干支が一回りするくらい付き合いがあるので、これが花粉症なのか風邪なのかは判別つくはずなのだが、どうもこれは両方がハイブリッドしているぞ、という空気に。
木曜が花粉症40で風邪60だった感じがしたので、風邪薬中心に対処。金曜は花粉症80で風邪20なので(本当に何の役にもたたない比率だな)、花粉症の鼻炎薬で抑えていた。

そして土曜。鼻水はあいかわらずだが、いわゆる「綺麗な」やつだったので、花粉症だろうと鼻炎薬を飲んで対処したのに一向に収まらない。さらに昼頃になると寒気を感じるように。
いやいや、風邪じゃないよ、と自分に言い聞かせてスマホで、花粉症でも寒気を感じるか確認。すると、「花粉症でも、身体がウイルスと勘違いして寒気を感じることも」と書いてあるサイトをみつけて、やはり花粉症で間違いないと納得。
思い返してみるとなんでそこまで「風邪」であることを嫌がったのか、自分でもよくわからないんだけれども、とにかく「花粉症」でいたかったんだろう。「風邪をひくのは不摂生。花粉症は摂生しててもかかるから仕方ないよね」という自己弁護があったんだろうと思う。

頭痛薬を飲んで寒気は収まったものの、やっぱり鼻は一向に良くならないまま、日曜に車の定期点検があるため、土曜の夜は実家に帰宅。そして風呂に入ろうという時に寒気を超えて悪寒を感じ、ここでようやく、自分が風邪だ、という自覚を持ちました(あー、俺、不摂生。と認めた瞬間だ)。

だが、すでに夜のぶんの花粉症の薬を飲んでしまっていたので、もう薬を飲むことはできない(子どもの頃、間違えて風邪薬2倍飲んで最悪だった)。幸い眠れて、夜の10時くらいから8時まで寝てた。さすがの10時間睡眠でかなり楽になり、さらに自分が市販薬最強と信じて疑わない ハリーエース錠V を飲み始めて、ようやく少し鼻が収まるように(でも花粉症もプラスされてるからか完全には止まらない)。
日曜に1日3食、薬を飲みきったおかげでだいぶ体調は復活した。
はじめから風邪重視で対処していれば、もっと早く収まったのだろう。思い込みって良くない。

そして、翌日の月曜は仕事が午後出社なのを利用して、出勤がてら厄払いに行ってきた。実家に帰った理由の二つ目は、この厄除け祈願をすることだった。
さほど信心深いわけではない僕だが、厄年だけは気をつけなければと思っていて、前厄の年の1年前から大宮の氷川神社で祈祷をしていただいている。誕生日が1月で、暦はいろいろ見方があるので、旧正月を超えた2月中旬に行くのが定番。

(今年は本厄なので、早くいかねば)と、2月半ばから思っていたのだが、引っ越して大宮が遠くなってしまったこともあって、今まで行けず仕舞い。雨、そしてこの寒さ、さらに体調もバッチリではなかったけれど、ここで行くのを諦めるとヘタレだし、神様に申し訳ないし、いつ本厄パワーに襲われてしまうかと、ずっと心配でいるのも辛いので、自分を鼓舞して寒風の中、お参りしてきた。

(本厄だし)と、いつもより少し多めの祈祷料を収めて待合室で待つ。
平日、さらに寒雨のせいか、待っているのは僕ともう1人の男性だけ。待つ間、なにげなく壁にはられたポスターを見ると、そのうちのひとつが「2017年の厄年早見表」。
(そうそう、俺は本厄なんだよねー)と眺めると「昭和50年 後厄」の表示が。ここで自分が初めて“後厄”なことに気づく。
え?なんで?いつから勘違いしてたの?と思って、去年のツイートをみたら、去年の自分はちゃんと「本厄」なことをわかってた。そういえば、なんか「本厄だから気をつけて行動しないと云々」と言ってた気がする。そんな自分の記憶力が信じられない状況ではあったけれど、すでに本厄とは戦い終えていたことにちょっとホッとした(勝った気がしないが)。

いつもは結構な人数で祈祷するのでやらないのだけど、今回は2人だったので、葉っぱを神様に捧げる儀式(名称がわからないあたりが信心の浅さを感じるな)も自分でやった。

祈願の後、晴れてきたし、気温も春らしくなってきた。厄除け祈願のおかげとは思わないけれど、すべてが収まるべき日に収まったような気がする。

とはいえ、後厄真っただ中なのでいろいろと慎重に進めていこう。
せめて来年の今頃にちゃんと「後厄」だったと覚えているぐらいには。

オルケーストル・ウリープカ 〜1回限りのオーケストラ〜

オルケーストル・ウリープカの演奏会に行ってきた。

語感からわかる人もいるだろうが、演奏会の曲目はすべてロシア(ソビエト)の作曲家の曲。ロシア専門と言われれば、ショスタコーヴィチの曲を専門に演奏する オーケストラ・ダスビダーニャ を連想するが、ウリープカは今回1度限りのオーケストラなのである。
なんでも「ヴァイオリニスト西谷国登氏とともにハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲を演奏するために結成された」そうで、ただその1曲を演奏するがために生まれた、贅沢な、ともすれば酔狂なオーケストラだ。

他にもムソルグスキーのオペラ「ホヴァーンシチナ」から『モスクワ川の夜明け』、ラフマニノフの交響曲第2番を演奏したが、やはりメインは西谷さんがソリストを務めるヴァイオリン協奏曲 ニ短調だ。

西谷さんとは仕事上の付き合いだけでなく、友人を飛び越えて、“Brother”というか“バディ”という感じの関係を築かせていただいているが、その演奏を生で聴く機会は意外と少ない(指揮はけっこう見ているけれど)。
しかもソリストとしての演奏を聴くのは初めてで、オーケストラとともに彼の演奏を聴くことをとても楽しみにしていた。
そして実際、ヴァイオリニスト 西谷国登の凄まじい力量を、あらためて見せつけられた感じがする。

西谷さんの最も凄いところは、曲の世界をきちんと表現しながら、その超絶技巧ぶりも観客に聴かせられるところだと思っている。並の演奏家はもちろん、上手いとされる演奏家でも、高い技術を必要とするいわゆる「難所」にかかったときには、一旦曲の世界から離れてしまう(聴衆を世界から離してしまう)ものだが、西谷さんの演奏は技術の上手さを感じさせたまま、世界につなぎとめてくれる。そしてやはり指導者としての一面を見せるのか、その技術の中には「これはこうやって弾くんだよ」というメッセージも感じられる(アンコールのクライスラー 『レチタティーヴォとスケルツォ』で特にそれを感じた)。
ソリストとしても持ち味を出しつつ、さらにオーケストラをきちんと引っ張っていく「陰の指揮者」ぶりを発揮する。演奏の中で、これだけのことをやってもらえたおかげで、存分に曲に浸ることができた。

オーケストラ自体は、このためだけに集まったとは思えない、まとまりのある演奏を披露した。ヨーロッパ本流とは違うロシアの(というか東欧の)曲らしい“暗さ”と“重さ”(そしてときたま現れる“つきぬけた明るさ”)をよく表現していたし、とくに1時間も続く交響曲第2番を弾ききった楽団員と指揮の三浦領哉さんのスタミナと精神力には敬意を表したい。
このオケならではの個性を発揮するまでは至らなかったが、結成してからの期間的なものを考えるとそれは当然といえば当然のこと。(もしあるとしたら、だけれど)第2回への楽しみにとっておこう。

西谷さんの演奏をオケと一緒に聴けただけでも、値段以上の価値は十二分にあった演奏会だった。

Twitterから離れて

毎日必ずTwitterをチェックしているわけだが、昨日、どういうわけか1度も開かなかったので、今の今まで、24時間超えでチェックせずにいる。
海外に行っている時もかかさずチェックしていたのに、見ないとなったら見ないで済むものだ。

ずーっと毎日ログインしていたスマホゲーム(たとえば「パズドラ」とか「ケリ姫」とかだ)も、ある日、一日ログインし損ねた(まあ、飽きていたというのもあるだろう)のをきっかけに卒業したのと同様、これを機にTwitter卒業もいいかなーと思いつつある。
とはいえ、ゲームと違って、Twitterは気になる情報が拾えたり、生身の人間のやりとりを楽しむものなので、明日あたり覗いてみようと思う。
なにせ、1日離れたことがなかったので、なんだか復帰するのにこそばゆい感じもする。何か大きく変わっていることはないのだろうけど、今はそういう気持ちを楽しもうと思う。

肩書き言ったもん勝ち

今朝、ワイドショー的なテレビ番組を観ていたら、「イケメン評論家」なる肩書きの女性がでていた。

「イケメン評論家」って。

それも、WBCのイケメンを紹介する、という、なんていうか、(ああ中継するから、見てくれる層を増やしたいのね)な企画で出てきて、どんな“評論”するのかと思ったら、単純に「この選手がイケメン(顔がいい)」ということだけ言ってた。横顔が可愛いとか、誰々に似てるとか言ってたけど、それを評論と言うのだろうか。

まあ、テレビを観て、その内容を書いただけの記事がYahooニュースに載っている時代だから、どういう肩書きを名乗ろうが、ユルい評論しようが、ニーズがあるならそれでいいとは思うが、ただ単にWBCのイケメン紹介するなら、この人いらなかったはずなので、「誰のお気に入りだよ」というテレビ業界人の黒い部分が感じられて、朝からモヤっとした気分になってしまった(いや、この人、他ではちゃんと評論してるのかもしれないけど。その必要性がないコーナーだったのだ)。

個人的に言えば、もともと「イケメン」って「イケ面」じゃなくて「イケてるメンズ」という意味だったはずだから、昨日の時点で真のイケメンは中田翔のはずなんですがね。

でも、もう肩書きは名乗ったもん勝ちだな、としみじみ思った。
とはいえ、名乗る肩書き見つからないけど。

『ラ・ラ・ランド』の可愛らしい魅力

ミュージカルは好きだけれども、なんとなく「好き」と公言するのは憚られる。
なんだか、こそばゆい感じがするのだ(まあ好きって言ったって、まともに観たの『レ・ミゼラブル』ぐらいなんだけど)。
それでも、『ラ・ラ・ランド』は前評判がとても良かったし、なにより予告編が楽しそうで「これは好きなタイプの映画だ」という直感も働いたので、公開してすぐに観に行った。

オスカーを6つもとったけれど「ハリウッド大作」というより、インディーズ・レーベルの単館上映のような小品。だから作品賞を取れなかったのもさもありなん、という思いがある。「そんな重荷、背負わせないであげてよ」という思いだ。でも期待どおりの、とても僕の好きな作品だった。

エマ・ストーンはベストアクトではないと思うが、いまいち垢抜けない「女優の卵」を活き活きと演じていた。全体的にキュートな魅力をふりまいていて、彼女のための映画になっている。ちょっと癖のある二枚目といったライアン・ゴズリングも、陰のあるキャラクターを違和感なく演じていた。

物語の鍵を握る人物をR&B歌手のジョン・レジェンドが演じているのだが、劇中の曲は、物語の中では「邪道」のような扱いを得るのだけれど、彼の歌声はそのほかの曲の歌手とは比べ物にならないくらい上手い。惹きつけられてしまう(ジョン・レジェンドのアルバムを思わず買ってしまったほど!)。ちょっと皮肉めいた演出なのかもしれない。

ミュージカル映画というものは、なんとなく肩肘張ってみなければ、という気になってしまう。対してこの映画の良いところは、何度も気軽にみたくなるところ。可愛らしい一本。
可愛らしさからいったら、ウディ・アレンの映画を観ている感覚になる(だからこの映画のヒロインがウディ・アレン映画で2本続けてヒロインを演じたエマ・ストーンなのがすごくしっくりきた)。

予告編と違うのは、そこで感じるような、ウキウキしてハッピーな映画ではない。きちんとハリウッドで今起きているだろう現実を描いている。描かれなかった部分とあったはずの理想の未来。映画の行間にまで思いを寄せずにはいられない。
それでも人は夢を追いかけるし、夢をかなえる。得たものと失ったものははかりにかけられない。どちらも飲み込んで我々は生きていくのだなあと思ったりした。

大画面と大音量で、多くの観客と共有しながら観たくもなるけれど、手元において、いつでも気が向いた時に観たい作品でもある。