それぞれのクリスマス 2017

クリスマスとはいえ、僕にとっては、さほど「クリスマスっぽいこと」をする日ではない。

小学校がカトリックの学校だったので、幼少の頃はキリスト教的なクリスマスの印象が強い。クリスマス会で預言者の役をやったのも覚えている(考えてみれば、長台詞の多い難役だった。よく自分がやったものだ)。

そのまんま、サンタクロースが夜中にこっそりきてプレゼントを置いていく家庭で育って、物心ついたらクリスマスは恋人と過ごすものになっていたので、恋人がいた時は一緒に過ごしたし、いない時は(学生時は特に)寂しい想いをしつつ一人もしくは家族とやり過ごしてきた。

それからずいぶん大人になり、今も恋人のいないクリスマスはなんとなく寂しいけれど、バブル期でもないわけだし、それなりに歳を重ねてきたこちらとしては、365分の1の普通の日として過ごしているわけだ。それでも、街にはクリスマスっぽいものが溢れているわけで、それを見かけると、「ああ、クリスマスなんだなー」というのを自覚する。クリスマスというのは今の僕にとってはそういう日なのだ。

日時の関係もあって、このクリスマスの夜にオンライン英会話のレッスンを入れたのだが、顔なじみのフィリピン人の女性(20代)の先生が、開口一番、「Merry Chiristmas!」と挨拶したので、それを聞いて、クリスマスであることを思い出した僕は、つい「メリークリスマス!でも、僕にとっては普通の日だけどね」という反応をしてしまった。

それに対して「Why???(えー、どうしてー?)」と、あまりにも素のリアクションをされてしまい、「あれ?」と思ったわけである。

僕は別にクリぼっち(っていうこの言葉自体どうかと思う)を3000km離れた彼女にアピールしたかったわけではなく、「日本ではクリスマスを別にそんなに特別な日だと思っている人ばっかりじゃないし、なんとなく浮かれるけど普通の日だと思っている人はけっこういて、僕もその一人」という意味であって、そんなような説明もしたのだけれど、上手く伝わらなかったように思う(拙い英語だしね)。

フィリピン人の(そして彼女にとっての)「クリスマス」というのはどういう意味を持つのだろうか。

宗教的な意味合いで、きっちりした祝福の日として捉えていたのなら、失礼な答えだったな、とも思うし、日本のクリスマスのイメージについて、もっと説明できたらよかったな、とも思う。そして、僕にとってのイメージも。

一昔前よりも世の中は画一的なクリスマスの過ごし方から少しはずれてきたように思うから、僕なりのクリスマスの過ごし方をちゃんと言えたら素敵だったな、と思い、もっと英語を勉強しようとも思ったクリスマスの夜。

で、自分にとって、今年のクリスマスがどんな日か、って言うと、会議の多い仕事を終えて、英会話のレッスン受けて、いきなり!ステーキでステーキ300gを食べ、帰ってからWILD TURKEY(バーボン)を飲みながら、Yes,mama ok?の名曲「Wild Turkey」を聴いて歌う、という日でした。

365分の1とかいいながら、それなりに楽しんでんじゃん、俺。

神話としての「エピソード8」

「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」(エピソード8)を観てきた。初代、つまりEP4は劇場で観てはいないけれど、ハン・ソロの吹き替えを松崎しげるがやった例の奴はリアルタイムで観たし、その後も旧3部作は特別編を劇場で観て、DVDセット(ヘイデンが出てるアレだ)も持っていた。マニアを語るほどではないが、十分スターウォーズ好きではある。

そして、僕はEP1が一番好きという、スター・ウォーズファンからしたら多分変わりものだ。なぜ好きか、っていうと、クワイ・ガン・ジンが大好きだから。オビ・ワンと一緒にダース・モールと戦うシーンは何回でも観れる。あと、政治力が低くて立ち回りが下手なあたりも武人っぽくてカッコイイ。
それと新3部作(EP1~EP3)は大人になってからリアルタイムで体験した「スター・ウォーズ」サーガだけあって思い入れが強いのかもしれない。EP4~EP6と合わせ鏡のようになっている物語展開も(元を知っているだけに)感慨深い。

さて、このEP8を観る直前に、友人がスマホでEP7をダイジェストで観せてくれたので、前作をさらっとおさらいできたのが良かった。忘れてる部分がかなりあって、改めて「面白かったんだなー」と再認識。しっかりとEP4をトレースして、新たな3部作(今度は未来へとつながる物語だ)のはじまりを上手くスタートしたと思う。主人公がくすぶっている前半の冗長さも含め、これぞ「21世紀のスター・ウォーズ」といった作品に仕上がっていた。レイはルークの、ポーはソロの、カイロ・レンはダース・ベイダーの、そしてフィンはレイアとドロイド達、さらにランド・カルリジアンをミックスしたような役割を与えられ、EP4~6におけるキャラクターの肩代わりをする形で活躍した。

そんなわけだから、今回も、満を持してルークが登場するとはいえ、だいたいは予定調和の中で物語が展開するだろうと思っていたのだが、だいぶ様相が変わっていた。

スター・ウォーズの世界をひとことで言ってしまえば「銀河を巻き込んだ壮大な親子喧嘩」なわけで、今回もその背景は続いている。ただ、アナキンの物語やルークの物語と大きく違うところは、選ばれし者が全てを解決してくれるわけではないところ。
神話の中心には、フォースやジェダイや暗黒卿やら、と選ばれし者たちが出てくるものの、今回の映画の中で描かれる物語は、一般兵士同士の戦いだ。だから失敗もするし、「なんだかんだあったけどフォースの力で一件落着する」ということもない。
物語が進むほど、レイ達主要キャラクターは、それぞれ神話の始まりで与えられた役割から外れていく。言い換えればこの作品で「過去作の代理キャラクター」ではなく、独自のキャラクターとして解放されていくのだ。

今まではこの物語の中心は選ばれし親子だったし、結局は親子が和解することで平和が訪れた。それこそが「スター・ウォーズ的なもの」とするならば、この物語の展開は本当に先が読めない。
ただ「スター・ウォーズ」が現代の神話なのだとしたら、この2010年代後半の世相を描いて後世に伝えるという意味では、たしかに神話の役割を果たしている。
正義の戦争などなくなってしまった現代の戦争の背後にある問題も抱えているし、何より一人のヒーローが戦って勝つのではなく、特別な力を持たざる者達が勇気と知恵をあわせて立ち向かう姿が描かれている。それだけに、持たざる者たちが使えるのは数=命であって、玉砕覚悟の攻撃が多めだったのが痛ましかった(そして、それが報われない場合も多々ある)。

EP7が、衝撃的な展開もありながら、それなりに明るい物語に終始したのに、今回ややダークな展開になったのは、昨年の『ローグ・ワン』の影響もあるのかもしれない(あれはまさしく持たざる者たちの物語だった)。また、それこそがどことなく陰を落としはじめている2017年の世相を映す神話の役割なのかもしれない。

壮大な親子喧嘩を中心としながらも、物語の中心は旧作の殻を破ったキャラクターにゆだねられた。この神話に、最後どうオチをつけるのか。最終章が楽しみになるエピソードであるとともに、この神話がハッピーエンドで終わるためにも、公開が予定されている2019年が明るい兆しを持った年となっていることを願わざるをえない。

アマチュアオケの先にあるもの

石神井インターナショナルオーケストラの第4回定期演奏会に行ってきた。

友人の、ヴァイオリニストで指揮者の西谷国登さんが音楽監督をしている関係で、団員の方々とも親交があり、何かとご縁のある「石オケ」だけれど、客席から演奏をじっくりと聴いたのは、第1回の演奏会以来だった。

メンバーのほとんどが知り合いなので、いわゆる「友達」の演奏会を聴きに行く、という体ではあったのだけれど、その演奏たるや西谷さん(そしてインストラクターの先生方)のお力か、アマチュアオケといえども、きちんと「個性のある」演奏を聴かせる内容だった。

あとで聞いた話だが、西谷さんは第4回となるこの演奏会を「レベルアップの場」として位置づけていたらしい。
その証拠となる楽曲が2曲目のメンデルスゾーン 弦楽八重奏 変ホ長調 作品20だろう。
本来4パートに別れるところを倍の8パートで演奏するこの曲(コントラバスも入るので実質9パート)。同じ譜面で弾くメンバーが少なくなるし、別の音が多く入ってくる分、個人の力量(責任と言い換えても良いかも)が問われる。一歩間違ると、知り合いじゃなければ「聴くに耐えない」内容になる恐れもあるのだ。

だけれど、この日の演奏は、見事にそんなことを微塵も感じさせない、まとまりのある、そして八重奏ならではの広がりのある演奏をしてみせた。僕は、これをアマチュアオケという立場に甘んじない、市民オケとしての矜持に感じた。

(これは僕が個人的に知っているからだが、)石オケのメンバーひとりひとりはすごく個性的だ。逆説的に言えば、どのオケもきっとひとりひとりは個性的に違いない。ただ、それを「オーケストラとして演奏する」という共同作業に載せたときに、時にはバラバラな個性を発揮したり、ときには窮屈な演奏にまとまったりする。石オケの演奏は、それぞれの個性を感じさせながらも西谷さんの指揮、そして各パートの結束力でそれをひとつの「楽曲」として昇華してみせた。それは決して「知り合いだから」で納得させる演奏ではなく、市民オケとして十分に聴衆を満足させられる演奏だった。

昔の話だが、実業団のアメリカンフットボールの大会を観戦したことがある。それはふとしたきっかけで、そのチーム(ちなみにアサヒ飲料チャレンジャーズ)のファンになったからなのだが、実業団の応援は、ほとんどが、チームメンバーの家族、友人、関係者で、僕はどちらかと言えばちょっとしたきっかけで観戦した人間だったと思う。でも、その試合はとても楽しかったし、充実した時間だった。

石オケの演奏も、きっとそういう、ちょっとしたきっかけで鑑賞した人に充実した時間を与えられたと思う。いや、もちろん全ての演奏がパーフェクトとは言えないだろうし、まだまだできてない部分もあるだろう。
だが、今後、そういういわゆる「いちげんさん」でも楽しめるオケになる可能性を十二分に感じさせる演奏会だった
(もちろん、それは、1曲目のモーツァルト ディベルティメントK.138を、指揮台につくやいなやスタートさせる演出や、八重奏の前に、曲の聴きどころ解説をするという演出が一役買ったという点も記述しておく)。

弦楽八重奏という、テクニカルな(ある意味トリッキーな)演目をこなしたことで、僕はこのオーケストラはフェイズ1を終えたと思っている。
来年はフェイズ2に入り、また新たな挑戦と、より石神井インターナショナルオーケストラならではの個性を発揮した演奏を聴けるのではないか。
そう期待して、今後も応援していきたい。

浅田真央の引退に思う

浅田真央選手が引退した。

さほどフィギュアスケートに詳しくない僕でも、真央ちゃんの試合はジュニアの頃から見ていたし、当時はオリンピックで金メダルを取るものだと思っていた。多分、日本国民のほとんどがそんな感じだったろう。

その才能だけでなく、可愛らしい容姿から「国民的アイドル」的存在でもあった。
選手としては、トリプルアクセルという他の女子選手ができない武器を持ち、そこにこだわるからこそ、なかなか結果(順位)がついてこなかった部分もある。

フィギュアスケートという競技は、他のスポーツのような距離やタイムといった明白な基準だけではなく、スポーツではなく「芸術点」(正しくは「構成点」)という至極あいまいな要素が大きく関わってくる。
ライバルだったキム・ヨナよりも難度の高い技を決めながらも、点数が追いつかないという現象は、バンクーバーオリンピックでの結果と嫌韓のムードも手伝って、ジャッジの買収を疑う者や「本当の点数検証動画」などがネットには出回った。
その流れの中で、浅田真央は「アイドル」本来の意味合いである日本の「偶像」として、重荷を背負わされているようにも思えた(かくいう僕だって、キム・ヨナ選手の得点は高すぎるとは思っていたけれど)。

その重荷はライバルの休養や、他の有力選手が注目される中で薄まり、国民全てが「真央ちゃんに金メダルを取らせたい」という純粋な思いで応援できるようになったソチオリンピックでは、ショートプログラムでまさかの16位。
本人にとって、競技人生で最大にして唯一の目標であっただろう(そして年齢を考えればラストチャンスだった)オリンピックの金メダルが絶望となった時、本人のショックは想像を絶するものだったに違いない。

「もう浅田真央のオリンピックは終わった」と誰もが思ったその状況で、浅田真央は完璧なフリーの演技をみせた。それは、ともすれば「ダンス」や「芝居」のような、エンターテイメントと同様にみなされてしまう「フィギュアスケート」というスポーツが、紛れもなくアスリートの競技であることを僕達にまざまざと見せつけた瞬間だったように思う。
(このソチオリンピックでの演技について、昨年亡くなった竹田圭吾さんが書かれたブログ記事「彼ひとりの夜にとっての浅田真央」は名文なので、ぜひ読んでほしい)

若手が台頭してくる中、思うような成績がでないのは辛かっただろうし、なんとなく休養後の浅田選手には悲壮感が感じられた。女子フィギュアのオリンピック枠が2枠になったことも、引退を決めた要因かもしれない。

それでも、浅田真央は日本だけでなく世界のフィギュアスケート界に大きく貢献した選手であり、真央ちゃんは実力を兼ね備えた稀有なアイドルだった。これからはプロスケーターとして滑る機会があるだろうから、そこで伸び伸びとした演技をみせてほしい。
いや、これは僕が見たいだけかもしれないが、日本国民のほとんどが同じ思いだと予感している。

気軽にGO 近場の温泉

独り暮らしを初めてから、自宅ではシャワーで済ますことが多くなったせいか、スーパー銭湯とか温泉施設に行く機会が増えた(もちろん誘っていただく機会が増えたのもあるけれど)。
そんなわけで自宅近辺で話題になっていた公衆浴場に行ってみた。

まずは豊島園駅にある 豊島園庭の湯
豊島園といえば、子供の頃遊園地「としまえん」の木馬の会(いわゆる年間パスポート)に入っていて、初ジェットコースターも、初お化け屋敷もここだったので、そのそばに温泉施設ができたのを思うと、感慨深いものがある(ブラワーエンジンと西洋おばけ館が好きでした)。
庭の湯は「スパ」を謳う施設なので、リラクゼーションエリアや岩盤浴、幅広いマッサージメニューがあったりと高級路線ではあるが、平日の夜6時以降に行ったので基本料金1,295円でかなりお得だった。
豊島園駅というのが少し不便ではあるけれど、内容と料金を考えると、こういうスパ系ではコストパフォーマンスが高い。月2回ぐらいで通いたい。

で、今日は西武池袋線沿線 桜台駅の久松湯に。
ここは浴場でプロジェクションマッピングが見られるという「オシャレ銭湯」で話題になっている場所で、一度行ってみたいと思っていた。
感想としては、文字通り「オシャレ銭湯」。
お客さんもほとんど地元の人のようだし、地域に密着した施設になっている。露天風呂もあるが、サイズは小さめ。料金も460円と低価格だけれど、タオルレンタル代、ドライヤー使用料、サウナ使用料は別だし、石鹸やシャンプー類も置いていない(ミニサイズのを安価で購入できる)。そのあたりも地元の人がそういうものを持参して入りに来ることを想定しているようだ。日曜だったせいか風呂場は結構な混み具合。こども連れも多くファミリー感が強い。建物も中身も近代的だけれど、銭湯用具を一式入れた桶を小脇にして通うような銭湯を時代に合わせるとこういう形になるんだな、と思った。徒歩圏内にあったら週1で通いたいと思った。

同じ公衆浴場といっても施設によって特色は異なるけれど、行くとリラックスできるし、ちょっと豊かな気分になるのは共通している。これからも色々なところにちょいちょい行ってみたい。

それぞれの『誰もいなくなった』

テレビ朝日でやってた『そして誰もいなくなった』を録画していたので観た。
原作は未読、過去映像化されたものも観てはいないので「密室ミステリーの傑作」と言われるこの作品を予備知識なしで観られた。

第1夜「事件編」と第2夜「解決編」を続けてみたのだけれど、本来ならば一晩待たなければ「解決編」は観られないわけで、「これ一体どうなるの?」という上手いところで「事件編」は終わっていた。ただ、続けて観てしまうと「解決編」はオマケ感(というか3時間にして1日で終わらせていいじゃないという感じ)が強かった。沢村一樹演じる相国寺警部のキャラで持たせてた。あのキャラはこれだけで終わらせるのは惜しいので、またアガサ・クリスティ作品をリメイクする時にでてくるんじゃないかと思う。

(原作と違っている部分はあるだろうけれど)ミステリーとしては、2017年の今、トリック自体はそんなにあっと驚くものではない。誰が犯人かすぐにわかったわけではないが、だいたいの見当はついたし、偶然性に頼った部分があって、そんなに上手くいくかなーという疑問も。でもこの作品が1939年に書かれたことを考えると、その後のミステリー小説に多大な影響を与えたことはわかる。
トリックの古臭さを人間ドラマの面を推すことで、2017年に放送する難点をカバーしたおかげか、一気に見てしまうほど楽しめたのは事実で、重厚感のある映像も雰囲気があった。

そして何より渡瀬恒彦さんの遺作だったのが、録画してまで観ようと思った一番の理由だ。しかも病気をおしてこの役を演じるというのは、ものすごい神経を使ったのではないかと思う。ご本人の意志と演技がキャラクターとリンクして、ドラマを一層心に迫るものにした。それはある意味“ズルい”(渡瀬恒彦に頼ってしまった)部分はあるけれど、なにか運命的なものなのかもしれない。

 

それから、同じ『そして誰もいなくなった』が原作だというシュワルツェネッガー主演の映画『サボタージュ』を観たのだが、どこらへんが原作なのかほぼわからない(先に聞いてなければ全くわからない)映画だった。共通点は一人ずつ死んでいくところぐらい。ミステリー要素がないわけではないが、別段観る側に犯人探しをさせる気がないくらいのさらっとしたテイスト、「ミステリー風味」。血みどろのシーンが多めのごく普通のアクション映画。つまらなくはないという感想。

それにしてもシュワちゃんは老けた。“円熟味が増した”とか“味がでた”ではなく、単純に老けた。

舞台『リトル・ヴォイス』に期待

ご縁があって、舞台『リトル・ヴォイス』の製作発表会に行ってきた。

『リトル・ヴォイス』と言えば、映画版を公開当時劇場で観た。
ハリウッド大作ではなく、イギリス映画だったせいかロードショーをしておらず、銀座だか渋谷まで観に行った覚えがある。

しかしながら、映画の内容はほとんど覚えていない。
というのも、本編が始まる前にユアン・マクレガー主演の5分程度のショートムービー『Desserts』が併映されて、これがまさかのホラー。
ミュージカルドラマを観にきたはずなのに、ホラー映画を見せられるという展開で、本編の印象が完全に消されている(で、逆に『Desserts』についてはよく覚えている)。
当時を考えると「ユアン・マクレガー人気」のおかげで、この映画も話題になった部分が大きいから、ファンサービスとして併映したのだろうけど完全に裏目だったと思う。

さて、それでも「面白かった」という漠然な感想を持っているこの映画を日本で舞台化するという。主演は大原櫻子さん。
制作発表会の中で、役の“リトル・ヴォイス(LV)”として歌唱を行うシーンがあったのだが、彼女が“役”として登場した時に、映画で観たシーンが蘇ってきた。

思い返してみれば、この『リトル・ヴォイス』という作品は、普段は誰ともコミュニケーションをとれない少女が、レコードを聴くうちにその往年の名歌手の見事な歌マネができるようになって、その才能を見出される、といった内容だった。

引きこもりの彼女がステージにたった途端に、スターが乗り移ったように歌い始める。

その彼女が醸し出す、不安と歌うことの幸せが入り混じった感覚が、大原櫻子の演じるLVから強く感じられた。

しかもこの役の難しいところは、歌をしっかり聴かせながらも、歌マネとしても成立させなければならないということ。歌手としては、自分の個性とマネのバランスをとらなければならないのだが、今日、お披露目だったにしては見事なパフォーマンスだった。本番までに磨きをかければ、大原櫻子流の「リトル・ヴォイス像」をつくれると思う。

共演者の方々も、本当に面白い舞台をつくろうという気概が強く感じられた製作発表会だった。期待して観にいこうと思う。

 

舞台『リトル・ヴォイス』は、5/15〜28 天王洲銀河劇場にて上演。
その後、富山・北九州での上演もあり。

風邪、花粉症そして厄除

先週の木曜から、ひどい花粉症が始まってしまった。鼻水がとまらない。箱ティッシュを1日1人で使いきるほどに。歯磨きしてる間、ずっと垂れてるぐらい。
それと同時に、ちょっと喉が痛かったりだるかったりして、風邪の諸症状も。

もう花粉症とは干支が一回りするくらい付き合いがあるので、これが花粉症なのか風邪なのかは判別つくはずなのだが、どうもこれは両方がハイブリッドしているぞ、という空気に。
木曜が花粉症40で風邪60だった感じがしたので、風邪薬中心に対処。金曜は花粉症80で風邪20なので(本当に何の役にもたたない比率だな)、花粉症の鼻炎薬で抑えていた。

そして土曜。鼻水はあいかわらずだが、いわゆる「綺麗な」やつだったので、花粉症だろうと鼻炎薬を飲んで対処したのに一向に収まらない。さらに昼頃になると寒気を感じるように。
いやいや、風邪じゃないよ、と自分に言い聞かせてスマホで、花粉症でも寒気を感じるか確認。すると、「花粉症でも、身体がウイルスと勘違いして寒気を感じることも」と書いてあるサイトをみつけて、やはり花粉症で間違いないと納得。
思い返してみるとなんでそこまで「風邪」であることを嫌がったのか、自分でもよくわからないんだけれども、とにかく「花粉症」でいたかったんだろう。「風邪をひくのは不摂生。花粉症は摂生しててもかかるから仕方ないよね」という自己弁護があったんだろうと思う。

頭痛薬を飲んで寒気は収まったものの、やっぱり鼻は一向に良くならないまま、日曜に車の定期点検があるため、土曜の夜は実家に帰宅。そして風呂に入ろうという時に寒気を超えて悪寒を感じ、ここでようやく、自分が風邪だ、という自覚を持ちました(あー、俺、不摂生。と認めた瞬間だ)。

だが、すでに夜のぶんの花粉症の薬を飲んでしまっていたので、もう薬を飲むことはできない(子どもの頃、間違えて風邪薬2倍飲んで最悪だった)。幸い眠れて、夜の10時くらいから8時まで寝てた。さすがの10時間睡眠でかなり楽になり、さらに自分が市販薬最強と信じて疑わない ハリーエース錠V を飲み始めて、ようやく少し鼻が収まるように(でも花粉症もプラスされてるからか完全には止まらない)。
日曜に1日3食、薬を飲みきったおかげでだいぶ体調は復活した。
はじめから風邪重視で対処していれば、もっと早く収まったのだろう。思い込みって良くない。

そして、翌日の月曜は仕事が午後出社なのを利用して、出勤がてら厄払いに行ってきた。実家に帰った理由の二つ目は、この厄除け祈願をすることだった。
さほど信心深いわけではない僕だが、厄年だけは気をつけなければと思っていて、前厄の年の1年前から大宮の氷川神社で祈祷をしていただいている。誕生日が1月で、暦はいろいろ見方があるので、旧正月を超えた2月中旬に行くのが定番。

(今年は本厄なので、早くいかねば)と、2月半ばから思っていたのだが、引っ越して大宮が遠くなってしまったこともあって、今まで行けず仕舞い。雨、そしてこの寒さ、さらに体調もバッチリではなかったけれど、ここで行くのを諦めるとヘタレだし、神様に申し訳ないし、いつ本厄パワーに襲われてしまうかと、ずっと心配でいるのも辛いので、自分を鼓舞して寒風の中、お参りしてきた。

(本厄だし)と、いつもより少し多めの祈祷料を収めて待合室で待つ。
平日、さらに寒雨のせいか、待っているのは僕ともう1人の男性だけ。待つ間、なにげなく壁にはられたポスターを見ると、そのうちのひとつが「2017年の厄年早見表」。
(そうそう、俺は本厄なんだよねー)と眺めると「昭和50年 後厄」の表示が。ここで自分が初めて“後厄”なことに気づく。
え?なんで?いつから勘違いしてたの?と思って、去年のツイートをみたら、去年の自分はちゃんと「本厄」なことをわかってた。そういえば、なんか「本厄だから気をつけて行動しないと云々」と言ってた気がする。そんな自分の記憶力が信じられない状況ではあったけれど、すでに本厄とは戦い終えていたことにちょっとホッとした(勝った気がしないが)。

いつもは結構な人数で祈祷するのでやらないのだけど、今回は2人だったので、葉っぱを神様に捧げる儀式(名称がわからないあたりが信心の浅さを感じるな)も自分でやった。

祈願の後、晴れてきたし、気温も春らしくなってきた。厄除け祈願のおかげとは思わないけれど、すべてが収まるべき日に収まったような気がする。

とはいえ、後厄真っただ中なのでいろいろと慎重に進めていこう。
せめて来年の今頃にちゃんと「後厄」だったと覚えているぐらいには。

オルケーストル・ウリープカ 〜1回限りのオーケストラ〜

オルケーストル・ウリープカの演奏会に行ってきた。

語感からわかる人もいるだろうが、演奏会の曲目はすべてロシア(ソビエト)の作曲家の曲。ロシア専門と言われれば、ショスタコーヴィチの曲を専門に演奏する オーケストラ・ダスビダーニャ を連想するが、ウリープカは今回1度限りのオーケストラなのである。
なんでも「ヴァイオリニスト西谷国登氏とともにハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲を演奏するために結成された」そうで、ただその1曲を演奏するがために生まれた、贅沢な、ともすれば酔狂なオーケストラだ。

他にもムソルグスキーのオペラ「ホヴァーンシチナ」から『モスクワ川の夜明け』、ラフマニノフの交響曲第2番を演奏したが、やはりメインは西谷さんがソリストを務めるヴァイオリン協奏曲 ニ短調だ。

西谷さんとは仕事上の付き合いだけでなく、友人を飛び越えて、“Brother”というか“バディ”という感じの関係を築かせていただいているが、その演奏を生で聴く機会は意外と少ない(指揮はけっこう見ているけれど)。
しかもソリストとしての演奏を聴くのは初めてで、オーケストラとともに彼の演奏を聴くことをとても楽しみにしていた。
そして実際、ヴァイオリニスト 西谷国登の凄まじい力量を、あらためて見せつけられた感じがする。

西谷さんの最も凄いところは、曲の世界をきちんと表現しながら、その超絶技巧ぶりも観客に聴かせられるところだと思っている。並の演奏家はもちろん、上手いとされる演奏家でも、高い技術を必要とするいわゆる「難所」にかかったときには、一旦曲の世界から離れてしまう(聴衆を世界から離してしまう)ものだが、西谷さんの演奏は技術の上手さを感じさせたまま、世界につなぎとめてくれる。そしてやはり指導者としての一面を見せるのか、その技術の中には「これはこうやって弾くんだよ」というメッセージも感じられる(アンコールのクライスラー 『レチタティーヴォとスケルツォ』で特にそれを感じた)。
ソリストとしても持ち味を出しつつ、さらにオーケストラをきちんと引っ張っていく「陰の指揮者」ぶりを発揮する。演奏の中で、これだけのことをやってもらえたおかげで、存分に曲に浸ることができた。

オーケストラ自体は、このためだけに集まったとは思えない、まとまりのある演奏を披露した。ヨーロッパ本流とは違うロシアの(というか東欧の)曲らしい“暗さ”と“重さ”(そしてときたま現れる“つきぬけた明るさ”)をよく表現していたし、とくに1時間も続く交響曲第2番を弾ききった楽団員と指揮の三浦領哉さんのスタミナと精神力には敬意を表したい。
このオケならではの個性を発揮するまでは至らなかったが、結成してからの期間的なものを考えるとそれは当然といえば当然のこと。(もしあるとしたら、だけれど)第2回への楽しみにとっておこう。

西谷さんの演奏をオケと一緒に聴けただけでも、値段以上の価値は十二分にあった演奏会だった。