韓国映画『LUCK-KEY』

韓国のコメディ映画だけど、原案は邦画の『鍵泥棒のメソッド』らしい。

僕は『鍵泥棒のメソッド』のほうを観たいと思いつつも未見だったので、リメイク版である今作(厳密には原案だけらしいが)を先に観てしまった。
リメイクだと知ったのは観た後なので、事前にそれを知っていたら多分後回しにしたと思う。ただ良質のコメディだったので、観て良かった。

主人公がイカツイおっさんの殺し屋で記憶喪失になって、手にしていた身分証明書などから、自分を売れない役者(しかもだいぶ年若)だと思い込む。
ただ素性が殺し屋なので、包丁を扱えば器用にカリナリーアートみたいなことはできるし、アクション(喧嘩)はお手の物だし、そのあたりの「本当は凄腕なだけに無意識でできちゃう」という点を楽しめるコメディ。
基本的に登場人物がみんなどこか抜けている“いい人”たちなので(悪役まで憎めない感じ)安心して見れるし、基本ハッピーエンドな感じが良い。
こういう「あからさまなコメディ」にはやっぱりハッピーエンドが似合う。

主役を演じるユ ヘジンは脇役として活躍している俳優さんらしく、イケメンではないし普通のおっさん然としているのだが、どことなく愛嬌があり役にぴったりハマっている。
記憶喪失をしたからといって、人間、ピュアになるわけではないだろうが、看護師との不器用な恋愛や、その家族との微笑ましいつながりも、途中から全てにおいて本当に応援したくなる感じ。

漫画的なコメディとして明るい気分になれる作品だった。
次は『鍵泥棒のメソッド』も観てみたい。

タケノコと謎CDと失敗の話

夜中にタケノコを煮た。

すごく詩的な表現だが(そうでもない)別に文学青年を気取っているわけでもなく、本当に昨夜夜遅くに実際にタケノコを煮たのだ。自宅で。
立派なタケノコをいただいたのが週末。料理する機会がなく、このままではダメにしてしまう。さあどうしようと思って、とりあえず煮てみるか、ということになったのだ。

液体だしは絶対に使いきれず、毎度買ったもののちょっと使っては大半捨てているので、実家から粉末の「ほんだし」をもらってきていて、それをベースに煮てみる。
幸い「ほんだし」のパッケージに「野菜の煮物のレシピ」が載っていたので、これをもとにしようと思ったら、今度はウチに計量スプーンがないことに気づく(いかに自炊をしてないかバレる)。ということで、味見しながら目分量で足していくことにする。
途中で日本酒や砂糖を加えるというひらめきを得て(←物は言いよう)、最後に醤油で味を整えたら、結構美味しくしかも狙った味になった。「さ・し・す・せ・そ」の順に味付けするというのを聞きかじっていたのが役にたったようだ。多分二度と同じ味は出せないが、ベースはわかった気がする。

本音を言えば、失敗したらどうしようと思って、タケノコを処分してしまおうとも思ったのだが(夜遅くに帰ってきて、タケノコ煮に失敗したらどんな思いで眠ればいいのだ?)、失敗もまた経験だと割り切ってやってみて、一応それなりの結果を得たので良かった。失敗耐性をつけるためにも色々チャレンジしなければ、と今更思う(春だから?)。

同じ日、カラオケのレパートリーを増やしたいな、というのと、タケノコ煮てる間のBGMにしたいと、最新のJ-POPのヒット曲をコンピレーションしたアルバムを借りてきたら、本人が歌ってないという昔のカラオケテープみたいな仕様はおろか、フルコーラス入ってないという出来で完全に騙されたのだけれど、その失敗もまた勉強なのだ。
カバーでもフルで入ってれば、それはそれでカラオケ練習用として使い道はあるのにね。これが作られたコンセプトって、完全に僕のようなうっかりさん狙いじゃないのか?(わかる人教えて)
なので、JCOMの音楽チャンネルのカラオケヒットみたいな番組を片っ端から予約しといた(こういう時ケーブルテレビは有能)。タケノコが上手くいったのでこの失敗はさほどショックでもなかった。イラッとはしたけどね(CDがそんなで、さらにタケノコ煮に失敗していたら、どんな思いで眠ればいいのか?)。

失敗から学ぶことは(この歳になっても)まだある。

柏の春の宴

柏に行った。
友人と酒を飲むために。

柏(千葉県)にはこの友人と遊んだり飲んだりするために何度か行ったことがあるが、最後に訪れたのがもう5年ほど前になる。
いつも思うが、駅を降りてみると「記憶していたものよりも」デカイのでびっくりする。

約束の時間より1時間以上前についたので、ブックオフがあるか検索して、駅から近いイトーヨーカドーの中のブックオフを見つけて、そこで本を2冊衝動買いした。
それから時間つぶしでマックでコーヒーを飲んだのだが、近くの席の女子高生(中学生?)から「おおたかの森」という“パワーワード”が聞こえてきて、「ああ、オレは今、千葉にいるんだなー」というローカル感覚がグッとあがった。
なんとなく自分がアウェーな気分になる。千葉の人も大宮に来て「コクーンシティがさー」という会話を聞くとアウェーだと思うのだろうな。
そして、入ってから気づいたのだが、そのマックは昔付き合っていた彼女と一緒に来たことがあって(柏在住だった)、「どこでもいっしょ」の通信をしたマックだった。20年たっているので内装は全然違うけれど。そういう僕のセンチメンタルな部分がこの町にはあるんだよなー、と思いだす。

その後、友人と鳥貴族へ。
「ヒトリ貴族」をよくキメているという友人から、一人呑みの時のオススメメニューを中心に頼んで、その嗜み方を伝授してもらった(ビール、貴族焼ムネ塩、モモスパイシー、モモタレ。その後ビール追加、よだれどり、焼鳥丼が鉄板とのこと)。
「よだれどり」というのが中華風のタレで意外だった(美味しかった)。貴族焼は大ぶりの焼き鳥で、これも美味しかった(とくにモモスパイシー)。

20年以上の付き合いのある友人だから、本当に好き勝手しゃべって“バカみたい”に楽しい宴だった。結局4時間ぐらい飲んでた。
柏までは片道1時間くらいかかるが、こういう時間を過ごせるのだったら惜しくない。
柏の町って前述の理由もあってか、僕にとっては少しウエットなイメージで、それは自分のこれまでの人生の道のりを洗い出してくれるような町なのだな、と思う。だから同じ友人とでもこの町で飲むのは特別感慨深い。

飲んでいる途中に、これもまた20年来の友人から、ゴールデンウィークに会おうという誘いが入ったりした。それもまた僥倖。
ここ1週間の間で、そういう過去の人たちと連絡をする機会が多いのだけれど、やっぱりそれは春のもつ「出会いと別れの魔力」みたいなものなのだろうか。単純にみんな人恋しくなるのかもしれない(僕も含めて)。

いろいろなことが超高速で超展開をみせる身の回りで、僕もそのスピードについていく覚悟を持たなければ。
ありがたいことに、待っててくれる人たちがいて、帰るところはあるので、必死でくらいついてみましょう。いろいろな人が助けてくれてる人生なのだから、そこに甘えつつも、自分のやりたいように進めていくことにします。そうでないと恩返しもできないのだから。

で、柏飲み会のオチとしては、6月に二人で“おっかけ”旅行をすることになった。それもまた超展開(詳細はまたいつか)。
面白いと思ったことは全部やろう、と思えるうちに動いておかないとね。

春は攻めるべきた。

令和爆誕。

新元号は「令和」になった。

事前の候補でも取り上げられておらず、多分、誰しもこの元号はノーマークだっただろう。そして、なんだろう、この「ふーん」という感慨のなさは。
うちの職場でも、11時25分頃からネット中継を流し始めて、発表になるまで、みんなそわそわしてたのだけれど、発表になった途端の「それでは解散」感が半端なかった。
まあどんな元号にせよ、決まってしまえば(答えが出てしまえば)それまでのことなのだ。

そして昨日予想した「新元号×エイプリルフールネタ」がどのくらい当たってたかもしらないぐらい、元号に対する興味は世間でも急速に冷めていったように感じる(テレビもネットもあまり見てないので確実ではないけど)。

「平成」の時はどうだったかなーと思い返すと、小渕官房長官(当時)の「平成」の額を掲げるシーンはよく覚えているが、発表されるまではそれほど、改元について注目はされてなかった気がする。
昭和天皇の崩御というもっと大きな出来事があって、改元はその流れの中のひとつに過ぎなかったからだろう(改元よりも「セフィーロのCMが自粛」とかそういう話題のほうが印象に残っている)。
そんなわけで、改元についてはこの程度の盛り上がりが「正しい」気はする。

ひとつ書いておきたいのは、職場で政府の会見をネットで見ていて、菅官房長官が今まさに新元号の額を掲げる、という直前に、「続・平成かな」と職場の一人がボソッと呟いたのがとても面白かった。
「当てに行ってないけど、もうそれでいいじゃん!」とも思える絶妙なボケ。
独り占めはもったいないので、このブログでシェアしておきます。

新元号とエイプリルフール

新元号発表の日がまさかエイプリルフールと重なるという今日。

発表は11時ぐらいということで、今日のブログは新元号発表後に、その話題で更新しようと思っていたが、エイプリルフールと元号が重なったからこそ起こりうる事態が頭に浮かんだので、予測が当たるかどうか先に書いておきたい。
題して「新元号発表とエイプリルフール重なったらあるある」だ(長いし、今日限定じゃん)。

まず、絶対に「新元号は〇〇です」と、発表直前に嘘をつく人が続出。
すごいわかりやすいアニメキャラとかベタなネタの他、「新元号は〇〇(自分の名前)」をやる人がTwitterで溢れる。
それから企業は、新元号が発表になった後に「当社は今日から〇〇(新元号)に社名変更いたします」とする声明がTwitterに続出。あまりにネタがかぶるので、もとの会社がどこだかわからないという悲劇に。
あと、自分の名前を新元号に変える、もしくはミドルネームに新元号を入れる(「高野 新元号 ザンク」みたいな)という人でTwitterのタイムラインが新元号だらけ、といった様相を呈す。
思いついたのはこんなところだ。
Twitterで起きることしか言ってないあたりが、いかに自分がTwitter脳なのかがわかるな。

それにしても、今日この日が重なるとは運がいいのやら悪いのやら。
4/1が月曜だったから起こったことなんだろうが、なんというか始まる前から「ネタにされるだろう元号」ってどうなんだろう。
それとも、エイプリルフールネタとして見慣れることで、長く親しまれるようになるのだろうか(いろいろ考えると、今日が「改元」でなくて良かったと思う)。

僕としては毎年エイプリルフールって「それ楽しいの?」っていうイベントで、新聞の「今日は嘘のニュースがひとつあります」とか、「ファミリーコンピューターマガジンじゃねえんだから(昔、裏ワザの中にひとつ嘘のワザが入っていたのだ)」と静かにツッコミを入れる次第なので、あまりはしゃぐことなく過ぎていってほしいと思う。自分がうまい嘘をつけないからそう思うのかもしれない。
今日エイプリルフールにのっかる人は、明るい、でも、嘘だと知ってもがっかりしない嘘をついてほしい。

そんな4/1ではありますが、新元号発表を座して待ちましょうかね。

平成最後の日(勘違い)

今日が平成最後の日だと一瞬思ってしまった。

明日には元号が発表されるが、あくまでも発表だけで改元は5月1日からなのだ(だよね?)。
でも、ここ最近、テレビのワイドショー系では、新元号をさかんに取り上げているので、もう今日が平成最後のような気がしてしまった(発表後もこのネタでどれほど引っ張るんだろうか)。
春はただでさえ出会いと別れの時期だというのに、この「平成最後」感が、よりその感情を高めている気がする。

昨日も少し書いたが、今年に入ってから身の回りのことが目まぐるしく動いていて、とりわけ2月3月はその傾向がより強くなった。
その上新元号。だからといって身の回りがどうこうはならないだろうが、世間的には改元のためのツール変更やら、改元セールやら、悪い意味では「改元詐欺」(もう出てるらしいのでご注意を)などで、てんやわんやになりそうで、4月はいったいどうなってしまうのやら。

とにかく準備をすることだろう。
元号が1ヵ月前倒しで発表されるのも、いろいろな準備のためだという。ならば、元号だけじゃなくて、全てのことを先に準備しておくことだ。
そう思いつつ、3月が終わる。なんか全然準備不足だ。準備不足を補いながら動きつつ、次の準備をする。書いているだけで若干しんどいけれど(へぼ)、一生懸命生きなきゃね。

4月は良いことの密度の濃い月でありますように。

スピーダップ

自分は決して動きが遅いほうではないと思っている。

あ、物理的に、ではなく、物事を進めるスピードとして、という意味だ(それはある意味「物理的」だが)。
思い立ったらなるべく早く行動するし(嫌なこと意外)、行動してからの速度も平均的には早いほうだろう。
そんな平均以上には動けていると思っていたのだけれど、最近周りの人達のスピード感が予想以上に速くて焦る。

たとえば僕にとって「今度」といえば、それは早くて来週、だいたい1ヵ月後、社交辞令であれば「気が向いたらいつか」となるのだが(最後のはアテにならないね)、平然と2日後を指定してくる人がいる。
他にも行きたいところがあればその日に行ってしまう人がいたり、気がつけば着々と自分のやりたいことを進めて形にしている人もいる。
それに比べると、自分の時間の使い方はずいぶんとのんびりしているなーと焦ってきたのだ。しかもそういう人たちが「ビジネス雑誌で特集されるデキる経営者」とか、実際どうだかわからない「Twitterで人生の格言みたいなのを話している人」とかじゃなく、ごく身近にいる人で、しかも全員年下なので、なおのこと、自分の時間感覚って凄い遅いんじゃないか?と不安に感じるのだ。けっこう無駄なこと省いているつもりなんだけどなー。ゲームもしてないし(でもインターネッツはしてしまうの。ダメじゃん)。

今年に入ってから、自分の身の回りで、予想外のことが起こり続けている。悲しいことや嬉しいことが突然やってきては去っていく。それが歳をとったということなのかもしれないが、それをオタオタと眺めているだけではどうしようもないじゃないか。そんなわけで、自分も負けじと予定を詰め込んでみた。

昨日は23時まで仕事だったが、今日は8時過ぎに出社。仕事後に一旦帰ってジムでのワークアウトを組み込んでみた。そしてその後地元の飲み会に参加。
正直、身体はキツイけれど(ヘボ)、このぐらいの時間配分で進んでいかないと、あとで後悔しちゃいそうな感じがするからね。

時間を有効に使う、ということは、一生懸命生きる、ということなのかもしれない。

なんて言ってて、3日坊主で終わる可能性も十分ありえる。
まあ「体験」のつもりで(チキン)数日、スピードアップして密度の濃い日々を送ってみよう。

レッツスパ

今月、東久留米にオープンした「スパディアム ジャポン」(略称スパジャポ)に行ってきた。

近未来感の強い外観

友人がどうしても行きたい、ということで、夜に急遽出かけてみた。
温泉だけなら750円とリーズナブル(他、レンタルタオルが300円)だが、30000冊あるというコミックが読める場所は岩盤浴ゾーンにあり、岩盤浴料金650円を追加しないと入れない。
なので、この施設をフルに使うなら1400円(プラスタオルで1700円)が必要となる(ホームページから事前払いで1400円になるらしいです)。
そんなに長居できるわけではないけれど、今回は偵察という意味合いもあって岩盤浴にもトライしてみる。

まずは温泉。
ドデカイ大浴場はないが種類が豊富で、ジェットバスも、強力なものや筋肉を鍛えるもの、威力は同じでもジェットが当たる位置が違うなど、どれひとつ同じものがなくアトラクション感覚で楽しめる。
僕はあまり得意じゃなかったけれど「塩サウナ」というめずらしいサウナもあった。

つづいて岩盤浴ゾーンに行ってみる。
岩盤浴も効能や室温が違うものが5種類ぐらいあるのだが、ひとつ問題なのは、床が熱くて歩くのが大変ということ。石の床なので熱がこもっているのだ。思わずガニ股で足を上げて小走りというマンガみたいな歩き方をする羽目になった。他のお客さんをみていると普通なので僕の足裏が弱いのか、みんな見えないソールを履いているのか(SF)普通に歩けるのが不思議だ。友人も熱がっていたのでとりあえず僕だけじゃないみたいだけどね。
ただ岩盤浴自体はとても良さそう。石の上にバスタオルを敷いて寝てみると、思った以上にリラックスできる。自分の身体の重みで石をジャストフィット(言いたいだけ)の位置にできるので、寝心地が良い。疲れている時にはしっかり眠ってしまいそうだ(若干、脱水の心配があるけど、そのへんはどうしてるんだろう。素朴な疑問)。

その後ヘッドマッサージを50分受けて、今回の滞在は2時間半ぐらいだったのだけど、感想としては、ここは「岩盤浴込みで、一日かけて遊ぶところだな」ということ。
次回は休みの日に朝から晩まで居座る感じで行ってみたい。今回のように夜だけなら温泉だけで良いかも。食事もフードコートなどが温泉ゾーンにあるので困らない。ただ休憩スペースは小さく岩盤浴ゾーンのほうに充実しているので、「お風呂だけサッと入って帰る人」と「朝から一日のんびりする人」と完全に棲み分けしているのかもしれない。料金から考えると、一日利用するつもりでくるほうがお得だと思う。
改めて考えてみれば、温泉ってのんびりするところだしね。

そんなわけでオープンしたばかりの「スパジャポ」。
施設もできたばかりで綺麗。食事メニューも美味しそうなものが多いので、近場の方はぜひレッススパしてみては?(ブログみたいな終わり方だな)

干支一周40000km

愛車「RX-8」の点検日だった。

これで丸12年乗ったことになる。干支一周、亥から亥まで、長いような短いような感覚。
買った当時は自動車通勤だったので、年間15000キロぐらい走ったものの、約1年で電車通勤になると、途端に週1回程度近所に買い物するだけになり、一人暮らしになった今、実家に置いてある愛車は月に1、2度乗るだけで、12年でわずか40000キロしか走っていない。
とはいえ、車があることで結構遠出をしたり、コストコで買い出ししたり(限定的だな)と役にたつことは多く、手放す気にはならない(それにしても維持費はバカにならないけどね)。

それでも、もうちょっと乗りたいなー、乗ってやらなきゃなー、と半年ごとの点検時にいつも思う。思うけど実行されない。
一番良い手は、実家から今の自宅に持ってきてしまうことだが、実家付近と自宅付近では、駐車場代が3倍くらい違うのがネックなのと、移動したからといってそうそう乗る機会が増えるわけではないだろうと思うからだ。

目的のないドライブが好き、という人もいるだろうが、僕はやっぱり目的がないと運転しないタイプだ。行った先でのパーキング探しも悩むので、都内なら電車のほうが良い。
ただ、自分にとっては大切な資産だし、当時悩みに悩んで(清水の舞台から飛び降りて)買ったものだし、思い出のつまった車だし、なにせまだガンガン動くのだから、有効活用することを今後とも探っていきたい。

とりあえず関東ドライブの本買うところから始めましょうかね(考えが浅い)。

西谷国登&新納洋介 デュオ・リサイタル

ヴァイオリニスト 西谷 国登とピアニスト 新納 洋介のデュオ・リサイタルが開催された。(at ヤマハ銀座コンサートサロン)

前回の西谷さんのリサイタルでは、新納さんのピアノは伴奏という役割が強かったが、今回のコンサートの趣向はピアノのソロ曲とヴァイオリンのソロ曲を揃えて、交互にソロを弾く、という、いわばダブル主演という形をとるということ。
ヴァイオリンもピアノも楽しめるのは贅沢だが、演奏者(とくにピアニスト)にとっては気の抜けない構成と言える。

1曲目の ファリャ作曲/クライスラー編曲 歌劇「はかなき人生」よりスペイン舞曲 は、ヴァイオリンのテクニックが詰まった曲で、西谷さんの手元の動きと、そこから奏でられる音を聴くことで、ヴァイオリンを弾けない僕にでも「すごいことやってるなー」というのがわかる。舞台が室内楽サイズのため、技術が間近で見え、よりその凄さが感じられた(このあたりは選曲の妙だ)。

続いてピアノのソロ。
次のヴァイオリンソナタへつなぐ意味もあってか、 グリーグ作曲「トロルドハウゲンの婚礼の日」op.65-6 を演奏。
新納さんのピアノソロを初めて聴いたのだが、ヴァイオリンリサイタルで感じた、ていねいさの中に遊び心のある演奏はそのままに、さらに男性ピアニストらしい大胆さと音の厚みがあって、ピアノの性能を120%ひきだすような演奏だった。

そして前半の最後は グリーグ作曲 ヴァイオリンソナタ第3番ハ短調op.45。

今回のコンサートが“ダブル主演”であることを意識したのか、たとえヴァイオリン・ソナタであっても、新納さんが前に出るというか、主張の強い演奏をしているように感じた。
それは「室内楽」というサイズならではなのかもしれないが、ヴァイオリンリサイタルのように裏方に徹して支えるというだけでなく、時には競いながら、時には寄り添いながらといった、ヴァイオリンとピアノの攻防のような印象をもった。
西谷さんも時にそれを受け止め、時にピアノを引き出し、なおもヴァイオリンの音色と混ざり合わせ、曲を昇華させていく。

二人のコンビネーションが2回のリサイタルと2枚のCDで結実してきたからか、あるいは室内楽的な場だからか、ともすれば、ヴァイオリンソナタという形式では「伴奏」として没個性となってしまうピアノ演奏を、新納さんは、ピアニストにしかわからないマニアックな魅力だけでなく、ヴァイオリンと渡り合うことで、この曲におけるピアノ自身の魅力を十分に披露していた。
そして西谷さんのヴァイオリンもそれを承知の上で「ヴァイオリン・ソナタ」という定石を守るようにコントロールしていく。
それは決して主導権を握り合うといった争いではなく、お互いの信頼関係の上で成り立つ、熟練した達人の演舞を見るような感覚だった。

あるベテラン俳優はセリフを脚本通りにせず、内容に沿いながらもほぼアドリブで芝居をするそうだ。それに周りの役者がどう反応するか、どう絡み合って、それでも筋書き通りに話を進めていくのか、といった勝負のような、知的ゲームのような高度なやりとりをしていると聞いたことがある。
音楽は、特にクラシック音楽は楽譜通りに演奏するのが定石で、それを崩してしまっては邪道になる。「定石通りではつまらない、崩しすぎると白けてしまう」というジレンマの中で、西谷さんと新納さんが、お互いの力量を信頼した上で、クラシックから逸脱しないギリギリの丁々発止の演奏が行われた。

西谷さん自身もリサイタル直前のブログ

新納さんと演奏することは、特別楽しく熱いです!自由に演奏させてくれるだけではなく、奏者の良さを色々と引き出してくれます。そして、伴奏に徹しているわけではなく、新納さんも色々と仕掛けてくださるので、音楽のキャッチボールが見事に出来てる感じで面白いです。観ている側もそう思ってもらえればと思います。

と書いているように、演奏者達の狙いどおり、聴いているこちらも、心地よい疲れが出るような素晴らしいヴァイオリンソナタだった。

休憩をはさんで、新納さんのソロは ブラームスの6つの小品op.118より第2曲。

演奏前に、新納さんから、もともと予定ではショパンを演奏する予定だったが、ピアニストにとってショパンとリストは特別な曲で、それを弾いてしまうと、その後はもう弾けない、というぐらい神経を使うらしく、この曲に変更したというコメントがあった。
これはとても興味深い。考えてみれば当たり前のことだが、演奏者は、力加減やペース配分を考えて演奏会のプログラムをつくる。
新納さんにとっては、自身のピアノソロと、ヴァイオリンソロの伴奏、ヴァイオリン・ソナタの演奏と、これだけ盛りだくさんの内容に加えて、ここでショパンを組み込んでしまうと、演奏のレベルが保てない、ということだろう。
聴く側はあれもこれも演奏してほしいと思うものの、高いレベルの演奏で楽しませるためにプログラムというものがきちんと決められているんだな、と改めて考えさせられる。

ピアノソロに続いての ブラームス ヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調では、グリーグでの競り合いから少し抑えめに、そのゆったりとした曲調も手伝って正統派にまとめていた。「緩急」で言えば、今回のプログラムの「緩」を担ったヴァイオリン・ソナタらしいまとまった演奏だったと思う。

そのあとに、ラフマニノフの曲を3曲ソロで弾いた新納さんだが、この時はまさに圧巻だった。
最初の 楽興の時op.16より第3番 の時から、曲の世界に浸っているのはわかったが、 前奏曲集op.23より第6番 でさらにエンジンがかかり、続く 第2番 では、鬼気迫る熱演。
新納さんがピアノを弾いて曲を歌っているというよりも、ピアノ自身が歌っているように聴こえる不思議な体験をした。
トークのときは、その人柄か、素朴で控えめに話すのに対して、ピアノでは雄弁に語る、むしろピアノに語らせる、ピアノ自身が歌っているように錯覚させる演奏を初めて聴いた。聴いているこちらにも緊張が走るような熱演。
とても良いものを聴けた。

そしてプログラムの最後を締めくくるのはサラサーテ作曲の カルメンファンタジーop.25。

西谷さんから演奏前に説明があったように、この曲には様々なヴァイオリンのテクニック、それも「超絶技巧」と呼ばれるものが多く使われている難曲。この曲を2時間近くの演奏会の最後にもってくるのだから、二人の力量の凄さとお互いの力量への信頼度がわかる。
その説明どおり、ヴァイオリンという弦楽器ひとつで、これほどの表現が可能なのだ、ということを見せられた(文字通り“視覚的に”)。
実際にヴァイオリンを弾く人は曲を聴いただけで、そこに使われているテクニックがわかるのだろうが、実際に見て、改めてその技術の高さが分かる曲。
西谷さんの左手の動き、弓の動きひとつひとつが演奏者にはお手本となり、聴衆には超絶技巧として楽しめる。
これこそ西谷国登というヴァイオリニストの真骨頂だと感じさせた。

テクニック曲で始まり、それを上回るテクニック曲で終わる。
そういった趣向も含まれたリサイタルだったと思う。

さて、アンコールにもふれておきたい。

本コンサートが、テクニックで魅了して終わったのに対し、アンコールは、西谷氏と新納氏の二人の“競演”のエクストララウンドといった様相だった。

「愛の挨拶」では、新納氏の楽譜が見当たらず、“愛が行方不明になる”というハプニングもあったが(無事、ステージ裏で見つかった)、ここでも最低限の約束事は守りつつ、お互い自由に弾き合うという演奏で、生演奏でしか体験できないものを聴かせてもらった。

その意向をさらに押し出したのは、ダブルアンコールの「好き勝手チャールダッシュ」。
これは、クラシックというよりジャズの感覚に近く(ジャズアレンジという意味ではなく)お互いが、この曲でどれだけ遊べるかにチャレンジした演奏。
プロ同士なら練習中にこういう遊びをするんだろうな、と思うが、それを観客の前で披露して、しかもきちんと楽しませるというところが二人のプロフェッショナリズムなのだろう(もちろんアンコールだからできること、と、チャールダッシュは誰もが聴いたことがあるだろう、ということも計算済みで)。

とにかく2時間、ただ「良い演奏を楽しんだ」という以上に「二人が作る世界に引きずり込まれて参加してきた」といった感じのリサイタルだった。
次回、二人の演奏を聴く際には、聴衆もその世界に引き込まれる覚悟が必要かもしれないなと思える、録音では得られない、まさにライブの楽しさを最大限に感じる圧巻のデュオ・リサイタルだった。