特別なような普通のような日

ひとつ歳をとった。

かつての上司に偶然会って「結婚はまだしてないのか?」と言われた。
仕事のメールで、少し恩を忘れていたお世話になった方のことを思い出した。
なかなか会えなかった可愛がっている後輩に、ずっと渡せなかったプレゼントを渡せた。
いつも仲良くしてくれる友人達からお祝いメッセージのLINEをいただいた。
金曜日は定例の飲み会があるので、そこで祝っていただいた。
「誕生日だからホッペにチューしてあげようか」という女性からの光栄な申し出を「純情なんで」という理由でお断りした。

誕生日でなくても起こりうることだけれど、誕生日だから何か特別な気づきのようにも思う。

孔子曰く「四十にして惑わず」という。でも僕は40歳をだいぶ超えてもなお、まだまだ惑っている。いや、惑っていたいと思う。だから僕は惑う限りはまだ39歳のままでいたい。
惑って迷って前のめりで生きていこう。

反動

昨日の休日が実に良い休みだったので、今日は仕事に行くのに気が向かなかった。家の鍵をちゃんと掛けたか一度戻ってしまったくらい。
今の仕事が嫌いなわけではないし、特別辛いわけでもないけれど、気張らなきゃいけない部分はあるので、弛緩しきった休日から「仕事モード」への振れ幅の大きさに気持ちがついていかなかった。

などとちょっとセンチメンタルに思っていたのだけれど、実際はうっすら風邪ひいてるっぽい。身体の不調はけっこう正直に出る。そして気持ちも下に引っ張られてしまう。気をつけねば。

まだ幼い自分にできることはなんだろう。

23年前の僕はまだまだ幼かった。
当時は大学2年生。数日前の成人式には参加せず、授業は後期試験時期だった気がする。

震災の被害はテレビで知っていたけれど、関東にいる自分にはあまり関係のないことのように感じられた。被害の実感がなかった。
関西出身の知人から「知り合いが被害にあった」いう話を聞いて、少し自分事にはなったけれども、まだまだ当時は、その被害が身にしみて感じられなかった。もうすでに成人になろうとするのに、まだまだこどもだった。

翌年、僕は傷心旅行も兼ねて、神戸へ一人旅をした。神戸には小学一年生の時に行っていて、震災の状況を見てみたいと単純に思ったからだ。僕が訪れた時はすでに復興は始まっており、街の活気は普通に感じられたが、歩道橋に亀裂が入ったりしていて、震災の爪痕は感じられた。

今思っても、あの時の自分は、あまりにも幼かった。

東日本大震災の時はもっときちんと大人だった。だけれど、そういう災害を前にして、僕は自分の無力を強く感じる。こういう時にこそ尽力できる人でありたいと今は思う。

とにかく今は生きることだろう。生きるということを大切にしていく。それで終わり、ではない。だが、根底にはそういう思いでいる。具体的に何ができるかは、まだ見えない。でも、常にそれは考えていたい。

取り扱い注意

2000万円以上する楽器(ヴィオラ・ダ・ガンバ)を機内預けにしたところ、破損して戻ってきたことに持ち主の音楽家が怒りのSNSを投稿した、というニュースを朝のワイドショーでやっていた。ネットで調べる限りは、ニコニコニュース http://news.nicovideo.jp/watch/nw3206638 にしか記事の掲載がなくてあまり日本では話題になっていないようだ。

昨年、ヴァイオリンを弾く方々と一緒に飛行機に乗ったのだが、その時も機内持ち込みの手続きが様々あって、楽器を飛行機に載せるのって面倒だなー、と思ったものだ。ましてや大型の楽器となると、持ち運びの苦労を考えただけでも疲れてしまう。今回の楽器もどうしたって普通に機内持ち込みするのは不可能なサイズだもんな(ちなみにテレビではヴィオラ・ダ・ガンバの説明が雑だったけど、今回のはその中でも大きい種類のバスガンバでしたね)。

この出来事の見方は、音楽家側、航空会社側双方色々あるだろうけど、壊れた楽器の画像を見る限り「それにしても壊れすぎだろう!」という感想。
乱暴に扱った、というレベルではなく「プレス機にかけましたか?」という感じに。ケースの形状を見れば楽器とわかるのだから、あとあとのトラブルを考えたら、係員もちょっとぐらいは配慮するだろうから、おそらく荷物受取場に搬送する機械に引っかかって潰れてしまったのだろう。航空会社も超焦ったと思う。
その後の対応の不味さや、もう一席とるように言った言わないの応酬で泥仕合になっている模様だが、「すみません、機械に引っかかりまして。でも弁償は規定の金額しか出せません」では通用しないのかもしれない。

どんなモノでもいつかは壊れるのだ、という達観と、職業柄楽器を常に持っていないといけない音楽家への憐憫がないまぜになるニュースだった。

寒い夜だから

寒波が襲来していて、東京もじわじわと寒さがつのってきた。
新潟だと15時間も電車に閉じ込められたりしているので、それに比べればへいちゃらな寒さなんだろうけれど、それでも寒いものは寒い。
自分は、灯油仕様の暖房機器が禁止なところに住んでいるので、「直火」を使えない分、芯からあったまるということがなかなか難しい。

昔は家に灯油ストーブがあって、餅を焼いたり、やかんが置いてあったりした思い出があるが、最近の家庭は、せいぜい灯油ファンヒーターだろうから、そういう光景をみなくなってきているのかもしれない。若者の餅ばなれが心配だ(嘘)。
今の家は、エアコンがついているが、どうもエアコンの温風がもあっとして苦手なので電気ファンヒーターを導入した。ただ、電気ってそこまで暖かくはならないんですよね。頑張ってはいるけど。

で、今年は実家で使っていたオイルヒーターを譲り受けて使っている。実家にいる時は、これがスグレモノといっていいくらい、暖かかった気がするのだが、今の自分の部屋は6畳のくせになかなか暖まらない(そもそも部屋自体が寒いのかもしれない)。

なんでこんなことをつらつら書いたのか、というと、ネタもないし寒いと考えがまとまらないので、じゃあ寒いってことを書いてしまえ、っていうだけのことです。

まあ寒いので、みなさん、風邪に注意しましょうね。

声域なき社会進出

日本人女性の声は世界一高いという。https://courrier.jp/news/archives/109077/
ドイツで行われた調査のようだけど、その理由は体格が原因でもホルモンが原因でもなく、女性の社会進出の進み具合なんだそうだ。世界一女性の声が低いのはスカンジナビアで、男女平等が進んでいるとのこと。

にわかには信じがたい。

ようは甘える女性は声が高くて、政治家のように責任ある立場の女性は声が低いということらしい。なんとなく説得力がある感じはするが、それは「声の出し方」であって、実際の声域はまた違うんじゃないかと思う(安田大サーカスのクロちゃんが実際あの高さで地声を出すのではないように)。だいたい女性の声が低ければ、男女平等が進んでいるっていうのも暴論というか、それは必要十分条件を満たさないだろう。

音楽でいえば、調律の ピッチはA=440Hzから今や442Hzが主流になってきてるし、ヨーロッパでは444Hzもあるそうだ。このまま男女平等が進むと、ソプラノ受難の時代が来ると思ってしまう。

日本が男女平等の進んでいる国とは思わないが、声の高さうんぬんで社会進出しているかしていないかを決めてほしくはない。声低い人が社会的地位が高くて、高い人が地位が低い、みたいな見方もしたくない。ソプラノボイスの女性社長とか素敵じゃないですか(個人の見解です)。

成人の話

成人式には出なかった。

小学校から私立通いのため、地元に友達がいなかったのが一番の原因。あと早生まれなので、成人式の時点でまだ19歳で、なんだか一層「よそ様の行事」感があったのだろう。ただ、その年の成人の日には雪が降っていたように記憶している(あえて確かめませんが)。

成人年齢が18歳に引き下げられる、という法案が今年提出されるようで、ニュースでもそのあたりを取り上げていた。どのタイミングかわからないけれど、この法案が通って施行された時には、18歳から20歳までの全員が一気に成人になるわけで、その時の20歳の人の、後輩とタメになっちゃった感覚を思うと、ちょっといたたまれない。

社会に出てそこそこ経てば年齢の差などあまり関係なくなってくるが、18歳~20歳ぐらいって、年上年下にこだわる年齢層ではないだろうか。18歳なのに揃って成人になった場合の「年下なのに同学年」という状況にも似た、なんとも言えない感覚が20歳の人にはあるんじゃないか。2年のリードがあっさり奪われてしまうような。

とか考えてみたが、今の20歳以下の人たちはあまり「成人になる」って、そんなにたいそうなことだと思ってないのかもしれない。16歳でもしっかりしている人はいるし、25歳ぐらいになってもこどもみたいな人もいる。「成人」という制度は、あくまでも「目安」なのかもしれない。個人的にはしばらくは「20歳=成人」で良い気がするけど。

ともあれ、成人となった方々に幸多かれ!

年賀状

もう何年も、年賀状を自分から出すことをしていない。会社員としてどうかとも思うが、わりとそういうことに寛容な職場でありがたい(上司や同僚と年賀状のやりとりもしない)。

いただいた年賀状も、個人で送ってくださるのはフリーランスの方ばかりで、あとは取引先の企業からまとめて、という感じ。フリーランスの方にはお返事を書いた。

学生時代は、いかに凝った年賀状を友達に出すか、というのが楽しみで、お互いどれだけ面白いのを書けるかと張り合ったりしたけれど、すっかり文字を書くことすら「面倒くさい」と思うようになってしまった。絵を描くのが好きだったり、友達への「ネタ見せ」だったりしたので、書くテンション高かったのかもしれない。

お世話になった方へ、普段伝えられないお礼の気持ちや、しばらく会ってない友人との残しておきたい繋がり、としての年賀状文化自体は良いことだと思うのだが、いかんせん「義理年賀状」が多くなってしまって、さほど書くことがないのに空白を埋める作業に疲れてしまうからだろう。でも家族がいる方からの年賀状は家族写真をうまくコラージュしてあって、なるほど自分が年賀状に苦労する理由がここに一つあったか、と今さらながら納得してしまった。こんなとこにも独り身格差を感じるとは…ぎゃふん。

来年は(正確には今年末だが)凝った年賀状考えて送ろうかなー、とちょっとだけ思ったのでここに書いておこう。実行できたか否かがわかるのはおよそ350日後(そう考えると、結構な大河ブログだな)。

仕事始め気分

2日3日と休みがあって、今日が本格的な仕事始め。元日が仕事だったのが遠い昔のように感じるのは、いわゆる歳のせいなのか、いつもと違って実家で二日間過ごしたことが長く感じたのか。いずれにせよ2018年も4日目に突入したわけだ。

自分には、さほど「仕事行くの嫌だ」という気はないと思っているものの、朝はブレーカーが落ちたり(単に暖房器具のつけすぎ)、Wi-Fiのクレードルが充電できない(電源に接続しているのは認識しているのだが、充電はしない)トラブルがあって、仕事に行きたくない病に入りかけたけれど、出社してしまえばどうにかなるもので、なんとか一日終えた。
クレードルの充電できない問題はけっこう重く、検索かけたり、説明書読んだり、いざとなったらサポートに連絡する手順を調べたり、帰宅して充電器につなげるまで不安がつのっていた。結局、物理的にリセットボタン押したら直ったのだけれど、リセットボタンが「先の細いもの」で押す仕様なのに、こういう時に限って「先の細いもの」が見当たらずイライラした(こういうのマーフィーの法則であったっけ?)。なんとか見つけたクリップを伸ばして押してリセットできた。
思惑どおり充電できた瞬間、ちょっと小躍りした(いや、それくらい不安解消してスッキリしたのだ)。

年末年始飲み過ぎたので、今日は休肝日にしようと思っていたのに、トラブルを脱したのでお祝いに飲んでしまうほど。安いお祝いだが、こういう自分を労るのが大事だと思っている。というか、まだまだお正月気分が消えてないのかもしれない。街も休みの人っぽい人たちで賑わっていたし、それで良いだろう(良いのか?)。
といいながら、こうやって正月気分をひきずっていると、あっというまに1月が終わってしまうだろうから、気を引き締め直さないと。色々なことが「日常」に落ち着いた今日、ようやく2018年のスタートと思って、これから進んでいこう。

インスタ映え って本当か?

年越しの渋谷がすごい人混みだった、とワイドショーでやっていた。その時のテロップが「インスタ映え狙い、若者渋谷に集合」となっていて若干の違和感。
いや、別にインスタ映え狙ったからって渋谷に集まるわけじゃないだろう。結果的にインスタ映えになる、ってだけで、初めからそのためにわざわざ自分の行動を変える人って極少数なんじゃないかと思う。そこに行く目的が「美味しいものがある」、「見たい場所がある」が先にあって、結果「インスタ映えにもなるし、ね」という思考をするのが当然の流れだろう。

日経新聞でも若者の消費離れな記事があって、レンタル友達を使ってSNSのいいねを狙う女性のことが書いてあったが、月に50件くらいあるというレンタル友達のサービス、Facebookのアカウント数は2800万、インスタグラム2000万(17年11月Gaiaxサイトより https://gaiax-socialmedialab.jp/post-30833/)あるのに対して、50件では「流行っている」とは決して言えないだろう(むしろこのサービスを利用する主な顧客は、SNS映えを狙うひとたちよりも、複雑な事情で家族や親戚あるいは会社の上司向けに仮のパートナーを用意しなければならない人たちのように思う)。それだけで「今の人の大多数はSNS映えを意識して生活している」とは言い切れない。

スヌーピーのグッズ販売会「ありがと祭」(そごう大宮)に行ってきた。実際にスヌーピーが来て写真撮影ができる日だったので、開店と同時に結構な数のファンが撮影会の整理券を求めて売り場に集まっていた(僕もそのひとりですが)。親子連れが多いのかな、と思っていたが、大人のファンも多く、本格的な一眼レフカメラを手にしている若い女性が来ていたりもした。会場も、撮影スポットがいくつか用意されていて、それこそ「インスタ映え」を意識したつくりに。でも会場に集っているのは単純にスヌーピーが好きな人たち。その中で、自分がここに来た記録と記憶を残そうとしているだけで、スヌーピーにまったく興味のない人がSNS映えがするからとわざわざ集まってきているわけではない。

渋谷で年越ししようと思った人たちも、ただ単に楽しいから、仲間がいるから、渋谷に集まっただけだろう。それを「インスタ映え狙い」としてくくってしまう伝え方に僕は違和感を持ってしまった。それは物事の根本を見誤る可能性が高いから。
そのズレは、ものづくりだったり、流行だったりに良くない影響を与えてしまうと思うのだ。おおげさに言えば、物事の本質を、そしてその良し悪しを正しくつかむことができなくなってしまう可能性が高い。

2017年の流行語にもなった「インスタ映え」を主軸にしたい気もわからないではないが、それを使わずとも渋谷の年越しの騒々しさは伝えられる。そしてSNSを意識しなくても、良いものは自然とSNSで広まる。という前提を(特に物事を生み出す人たちは)忘れないでほしいと思った新年だった。