オフィシャルブログ

ほっこり・しんみり

今日は特になにもない。

でも、仕事でとても感じの良いご夫妻(僕と同い年くらい)と出会って、なんとなくほっこりした。
息子さん連れの、柔らかい物腰の旦那さんを案内した後に、ひとりの女性がやってきて、その方の印象を一目みて、さっきの方の奥さんだなーとわかった(果たしてそうだった)。
なんというか、おんなじ素敵な雰囲気をもっていたからだ。
そういう関係ができるっていいなーと、漠然とだけど思う。

それから、知り合いのイラストレーターさんが、マジシャンである旦那さんのイラストをSNSにアップしていて、素敵だなーと思う。
僕は旦那さんにお会いしたことがないのだけれど、お話しのエピソードを聞くと、お互いの良いところを伸ばして、物足りないところをフォローし合うという、良いパートナーシップを築いているんだろうな、というのがよくわかって、聞いていてこちらもほっこりするのだ。

夫婦の話というと、どちらかといえば、相手の悪口を聞かされるパターンが多い気がするが(それは「照れ」もあるのかもしれないね)、こういうエピソードに触れると、やっぱり素敵な関係って存在するんだなーとしみじみ思う。

僕にはないだけだ。

いやいや、だからといって、まあ焦ったりするわけではないんだけれどね。

俺にはないだけだ(2行ぶり2回目)。

もし、仮にそういう相手がいて、僕はきちんと素敵な関係を築けるか、は疑問だったりする。
まあ、仮定の話しててもしょうがないけどね。

夏だ。
強く生きていこう。

オチはないです。

ぺい

なんちゃらペイというものを使ったことはないし、当分使おうとは思わないが、それにしても7payの問題は結構な衝撃ではあった。

脆弱性がどんなもので、どういう攻撃を受けたのかはわからないが、パスワード再設定の方法が穴で、メールアドレスと電話番号さえわかれば、第三者が簡単に乗っ取れてしまう仕様になっているというのは杜撰すぎる失態だろう。
PayPayのときの「何億キャッシュバック」みたいな(ってあったよね?)、派手なことやってユーザーを囲い込もうとする方法に対して、7payはせいぜい「おにぎりプレゼント」ぐらいで静かなスタートと思ったけど、それすら捨てアカで無限におにぎりがもらえてしまうという悪用もできるらしく、ホント、大グループなのにセキュリティどうなってんの?と不安になったりする。

そもそも「利便性」とか言うけれど、僕にとっては今セブンイレブンで主流の“nanaco”で十分だし、もっといえば現金で不便だと思ったことない。
ペイ系が増えてきて、使い分けている人は、かつての“財布がポイントカードでぱんぱん”状態になっている人もいるんじゃないか。
物理的にぱんぱんにならないのは良いかもしれないけれどね。その都度、使い分けるってけっこう面倒だと思うのですよ。

こういうスマホ決済は、先行者利益が命のビジネスで、よほど利用にメリットがあるものでないと、後発がシェアをとるのは難しいだろうなと、ITジャーナリストじゃない僕だってわかるわけだ。

こういう系は、一度クレジットカードを登録すると、あとは特に認証も必要なくチャージできる、というのがそもそもセキュリティが甘いと思う。
いちいちチャージの際にカード番号入力するのは確かに面倒だし、そのワンクッションを省くことで、使い勝手を良くしてるんだろうけど、せめてクレジットカードからチャージする際に、IDパスとは違うパスワードを求めたり、セキュリティコードを求める仕様は必要だと思う。
IDの乗っ取りって、昔よりも簡単にできるようになってしまったので、その点、安全性を第一に考えるべきだろう。

といいつつ、どれだけセキュリティがあがっても、最初に書いたように、ぼくは一部のデポジットカードは使うけど、当面スマホ決済ものはいいや、と改めて思う。
ただでさえAmazonで買い物するのがクレカだから「実質無料」とポチる回数が増えてしまっているのだ。普段の買い物までそういう状態だったら、ホント、破産しますわ(いや、それ以前にたくさん買い物するほど余裕はないんだけれどね)。

カードの明細が来て青ざめる日々にならないよう、なにごとも節制が大切です。

本業

最近、ブログ頑張ってますね。

と1年ぐらい前に言われたことある。
毎日更新して半年以上がたっていて、毎日更新するっていうのは、まあ「頑張っている」ように“見える”のだろう。

でも、例えばこれが企業のブログで売上や販促につながるとか、著名人のブログで知名度アップに貢献するならば「頑張っている」と言えるかもしれないが、どちらでもない僕にとっては、このブログにかける労力が、そういう目的につながるわけではない。
だから「頑張っている」と言われると、嬉しいけれど、虚しい想いもしたりする。

なんというか「そこまでして何やってんの感」がある。
もちろん、僕の人となりをわかってもらうには良いアウトプットだけれど、逆に「高野さんってこういう人だったんですねー」と言われるリスクもあるわけで。

で、結局何が言いたいのかというと、本業を頑張れってことだ。
それは今、自分の飯のタネになっている仕事もしかり、自分のやりたいこともしかり、だ。
それができてこそ、このブログが生きてくるんだろうなーと思う。

このブログは前にも言ったが、何千年後かにインターネッツの奥底から発掘されて、2020年近辺の、いちおっさんの生態として重宝されればいいと思って書いている。ポンペイの壁画みたいな感じで(世界遺産と比べてみた)。
でも、今、現時点、2019年に生きる“僕”としては「ブログしかないおっさん」と看做されるのは嫌だなーという思いがある。
ちゃんと本業をしっかりやって、こんなブログも書いてます、というのが望む形なのだ。

仕事はまあまあちゃんとやってると思うが、しばらく疎かにしている「やりたいこと」を進めなくてはならない。
このブログを始めて1年半経って、ようやくそのことに気づいたりした。

遅せーよ。
ただ、ずっと気づかずにいるより良いだろう(ポジティブ脳)。

ブログを更新しつつ、ちゃんとやることやる人になるぞ。
それが後半の目標です。

浅いなー(でも何千年後かには重宝されてるはずだ)。

『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

リブートした『スパイダーマン』映画の2作目であり、『アベンジャーズ/エンドゲーム』で一旦ケリのついた物語の後日談でもある。

ネタバレはしていませんが、察してしまう部分もあるのでご了承ください。
事前情報なしで観たい方は、観てから読んでいただけると嬉しいです。

『アベンジャーズ』でめちゃくちゃになってしまった複雑な設定を力技でまとめていて、前作の「明るく楽しい娯楽ヒーロー映画」路線になんとか軌道修正してスタートさせたのがすごい。

ピーター・パーカーがアイアンマンの庇護から離れて一人のヒーローとして成長する過程が、『アイアンマン』第1作をなぞる部分もあってファンとしては嬉しい。
単純な感想としては、MJ役が「ブスかわ枠」になっているのはコミックからなのか、キルスティン・ダンストの影響なのか(いや、キルスティン・ダンストもゼンデイヤも可愛いですよ。でも典型的美人ではなくて。そう考えると、『アメージング・スパイダーマン』でエマ・ストーンが演じた恋人がグウェン・ステイシーだったのは「あえて」のような気もする)とか、新レギュラーのアンガーリー・ライスが可愛いとか、役者としてのジョン・ファブローが生き生きしてて、やっぱりこの人好きだわーと思ったとか、そういうものになるのだが、本筋は、最後までフェイクとリアルの区別がつかない展開で、頭がついていけなくなった。

マーベル映画は、単純なヒーローものではない。
X-MENは差別の物語だし、キャプテンアメリカでは、国家の正義の欺瞞を描いたり、そういう何かしら考えさせられるものが込められてはいるけれど、今回は「仮想現実による嘘」という、とても身近な脅威を描いている。
僕たちは知らず知らずに深刻な問題に直面していて、同時に信じることの難しさを痛感する。僕らは簡単に騙されてしまう世界にいるのだなー、とこの映画で思う。そこにリアルな映像が入っていたら、まあ大抵のことは信じてしまう。
昔、『バトルランナー』という映画があって、主役のシュワちゃんがニセの映像によって無実の罪を着せられるのが発端なんだけれど、もう、そういうのが現実に起こりうるという世界に僕らは生きている。
ここ数年で(おそらくそれはトランプが大統領になってからだ)「フェイクニュース」という言葉が当たり前に使われるようになった。そして「フェイクニュース」というものが本当に「嘘」なのか、そうでないか、ということも含めて、僕らは判断を迫られる時代になってしまった。
この映画の展開は、そういう社会的なメッセージを持ちながら、作品自体の中でも、観客を惑わすような仕掛けが入っている。

映像技術や編集技術が進むと、悪意をもってそれを使っている人には敵わないよなーという漠然とした恐怖を感じる。
今回の敵は、戦闘能力は皆無なのに、技術と心理戦に長けていて、たとえスパイダーマンであっても苦戦を強いられるというのが面白くもあり、怖くもあるのだ(だって僕らには危機を察知できる「スパイダーセンス」がないんだもの。イチコロだよ)。

さらに、そういう思いを強くさせたのが、恒例のエンドロール後のシークエンス。
いつもは「オマケ」的なものなのに(前作のなんか、本当にひどかった)、今回は作品の根幹に関わる部分を描いていて、その衝撃が全部持っていったからでもある。
さんざん、本当か嘘か、現実が仮想現実か、というのを劇中やってきたのに、さらに追い打ちをかけるように、「え?そういうこと?」と思わされるオチ。
小説で言えば「叙述トリック」のようなことをやっているのだ。
最後まで観終わった後に、「あの場面のアレってどうだったっけ?」と、もう一度確認したくなるように作られている(観なおさなくても、あるキャラのあるセリフに違和感があったのが、これで納得したりした)。

そういうことを考えると、外見は「快活な青春娯楽ヒーロー映画」でありながら、マーベル・シネマティック・ユニバース作品の中でも異例の「ミステリー映画」になっている。心理的にジワジワくるタイプ。
こういうの好きだけど疲れる(でも、確認のため、もう一回観たい)。

信じることの難しさを描くのに、お人好しのピーター・パーカーは最適だったのかもしれないし、敵からも同情されるほどの彼の善人さがよけいに際立ち、応援したくなる。いつまでもピュアな青年でいてほしいと思うし、軽口を叩きながら戦うスタイルを続けてほしい。

そんな「えー、どうなってんの?」的なラストだったので、次の展開がどうなるのか、すぐに観たい。
単独映画は早くて2年後ぐらいだろうが、MCUに組み込まれているから、他の作品で「その後のスパイダーマン」は少し描かれるのかもしれない。単独映画として成立しているのに、続きが気になって仕方がない。
長生きせねば。

やめるのやめた

ブログタイトルを変更する、と言ってみたものの、一旦取りやめました。

なぜかっていうと、一応、念のため、同じタイトルを使っている人がいるかなーと思ってググってみたら、案の定、1件ヒットしてしまったから。
しかも、音楽活動している人のブログみたいで、それとかぶってしまうのはのちのち困りそうだし、実はこの新タイトルって“苦肉の策”で考えついたものなので「絶対これ!」という思い入れがない。だから、今、そのタイトルを使っている人のほうがタイトルに対する熱意があるのだろう。
なので、今回はその人に譲ることにする(偉そう)。

で、じゃあどうしようかな、と考えついたタイトルがもうひとつあって、それはきっとブログとしては誰も使ってないだろうし、かぶらないだろうと思っていたら、それはそれで、海外のネットショップの店名になっていて、使おうかどうしようか悩む。
世界は広いな。そして世界的にみたら、全く新しいタイトル、ってもう考えつかないんじゃなかろうか。

そんなわけで、しばらくブログタイトル変更は保留する。
ペンネームのときもなかなか決められなかったが、こればっかりは一度つけたら、すぐ変えるわけにはいかないからなー(いろいろ悩むわけです)。

とはいえ、このブログは「今日も誰かに会いに行く(仮)」といいながら、結局、たいして「誰か」に「会い」に行ってないのも事実。
もう少し、このグダグダな日常の切り取り、っぽい感じのタイトルを早めに決めます。

で、今日はポッドキャストの収録をして、そのあと『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』をとしまえんのユナイテッド・シネマに観に行ったのだが、練馬から電車を乗り間違えて、中村橋に行ってしまうという失態をおかしてしまう。
時間に余裕があったので間に合いましたが、自分のぼんやりさ加減に焦る。練馬の乗り換えはなかなかわかりにくいけれど、そういう間違え初だった(だいたい歩いて行っちゃうのでね←言い訳)。
それだけじゃなくて、IMAX3Dで鑑賞するために持参した3Dメガネが壊れていることに、上映開始間際で気づいて、慌てて買い直したりした。
そういう意味で、なんかこの映画とは“縁がない”のかなーと開始前にちょっと不安になったが、作品自体は面白かったし、マーベル・シネマティック・ユニバースのフェイズ3のラストを飾るにふさわしかったです。感想はまた。

それからブックオフでまたTrySailのラジオCDを見つけたので(前回はvol.6 で、今度はvol.3)、脊髄反射的に購入する。夏川椎菜のソロアルバムも買ってしまって、しばらくはTrySailがいれば生きていける感じになってきている。
健全な証拠(そうか?)。

TrySailと言えば、一緒にライブに行った江戸川台ルーペが「カクヨム」で近況報告を更新していて、そこで「TrySailを好きと言うと引かれてしまうかもしれないけれど、それをちゃんと言えない世の中は良くない」と書いているが(意訳。実際はそれを、すごい面白おかしく書いてますので、ぜひ読んでみてください)、まったくそのとおりだと最近の僕は思うのだ。

僕はTrySailファンであることを、リアルな知り合いにも(うざくない程度には)公言している。
自分から話題をふることはないが「TrySail好きなの?」とか「TrySailってどういう人たち?」と訊かれたら、迷うことなく「好きです」とか、「もちょかわいい、天ちゃん美人だしアレです、ナンスは気になる子」と正直に答えるようにしている。いや本当言うと、実際にそうはっきり答えたことはないが、答える気構えは常に持っているのだ。

それは最近、

「僕が、好きなもので定義されるのではなく、僕自身で定義されれば、何が好きだって構わないのだ。だから好きなものは好きと貫く。」

ということを心情としたからだろう。
自分の「好き」を否定されると、自分自身が否定されるような気がするけれど、自分というものをちゃんと持っていれば、そんな好き嫌いなんかどうでもいい。好きとか嫌いとか最初に言い出した人にもそれは伝えておきたい(『ときメモ』やったことないのにフレーズだけ使いたいタイプ)。それから、ひとの「好き」も馬鹿にしない。
そういう精神で生きていこうと思っています。

話がずれた。

まあ、なんだかんだと発言が「穿って」取られることが多くなり、言いたいことが言いにくい世の中だけれど、このブログぐらいは正直に書いていたいわけです(言いたいこと、というよりは、好きなことについて、だけれど)。
そういうようなことがわかるタイトルを探そう。

では、また明日。

半分、終い

2019年も半分終わった。

6月自体はイベントが多かったせいか、すごく長く感じたけれど、ここからが一気なんだろうな。
結局、今年初めに考えていたことを達成できなかった、というか、どんなこと考えてたか忘れてしまっている(まあそんなもんです)。

それでも2019年後半を“きちんと”始めようと、初日からジムに行ってきた。
久々なので(そればっか言ってるな)、それから仕事帰りのせいか、ちょっとマシン使って、25分で3.5kmのウォーク&ランしただけでヘロヘロになった。
サウナもいつもより熱く感じて5分いるのが精一杯。ヘタっている。
体重も、運動不足と暴飲暴食したから、当たり前のように、かなり増えてしまっていて、今日から頑張って落としていきます。

帰宅してカレーうどん作って食べた。
昨日、飲み会でだいぶ飲んだので、今日はノンアルコールの日。
最近は飲み、飲み、休肝、飲み、休肝、飲み、みたいな日々を送って、多少アルコールを控えつつあるが、「飲み」の日の酒量が増えているのであまり意味はないのかもしれない(特に今週は外飲みが多かったのだ)。

で、先月に、ブログをリニューアルすると言ってから何もやってないのですが、明日、タイトルが変わります。
どういうタイトルがいいかなー、とか色々考えたけれど、とりあえず、今のタイトルよりは良いと思います。中身は多分変わらないんだけどね。

そうして2019年後半戦が開始。
前半戦はまずまずだったと思うので、後半戦はこれをさらにアップできるように頑張っていきます。

早起き

ふと心配事があって、3時に目が覚めた。

この頃、夜中に1回は目が覚めることが多く、ただいつもなら水を飲んで、またすぐ眠りにつくのだけれど、今朝は、そのまま心配事が頭を巡ってしまって、なかなか寝付けなかった。

それから1時間ぐらいは微睡んでいたけれど、もうこれは起きてしまおうと一旦起き上がる。その時点で時間は4時5分。
目覚め自体は悪くなかったので、うまくレム睡眠とノンレム睡眠の1セットを2回拾えたのではないかなーと思って(90分1セットらしいです)、快眠度測定アプリをみたら、そうでもなくて快眠度は39%。そして見事に3時〜4時が「覚醒」していた(だからあながちこのアプリがいんちきとは思えないのだ)。

起きてから、しばらくTwitterを見たりしてたけれど、やっぱり、もう1回寝ておくか、と思ったのが5時ぐらい。実際に起床する予定は6時15分だから、あと1時間寝られる。今日は仕事が詰まっている日だから、ちょっとでも睡眠をとっておきたかったのだ。

その1時間もなんとなく微睡んでた感じだけれど、実際にアラームで目覚めた時は、元気ではある。
ただ、睡眠不足って、持続力が落ちる、という感覚があるんだよね。電池切れが早い感覚。
17時ぐらいまで持ってくれれば良いのだけれど、そればかりはやってみるしかないかー。

で、起きてしまった原因の心配事は、当然まだ解決されていないので、これも解決するように動かなければならない。それも早く起きてしまった原因のひとつなのだろう(早起きしたからって解決するようなことではないけれど)。

そんなわけで、朝の7時にこのブログを書いているわけだ。
今日一日、果たして乗り切ることができるのだろうか(「だろうか」って言ってても乗り切るしかないよね)。

とにかく皆さん、よい1日を!(説得力なし)

うらはら

バッドニュースほどではないが、好ましくないニュースをなんというのだろう。
ノーグッドニュース?

そういう感じの話を、週明けに聞いて、そのときは「へぇー」って感じだったのに、日を追うに連れ、その話がじわじわと自分にダメージを与えてきている。
んー、なんだろう、この感覚。

でも、よく振り返ると、こういう感覚は以前にもあった。
なんというか、その時のニュースはいつも、自分の「世間からの乖離」を感じるような話だからだと思う。
それはつまり「世間体」に関する話なのだ(具体的に書けないのに、ブログネタにしていて申し訳ない)。

そういうものを気にせず、自然体に生きる。
あるがままに生きる。

ということを、今までもなんだかんだとモットーとしてきたし、仙台旅行を終えて、その気持ちは一層強まったはずだが、なかなかどうして、それが難しい。
不惑を過ぎても惑ってばかりだ。

そういうふうに平静を装いながら、実はもやもやした思いを抱えてここ数日過ごしているわけではあるが、そういうのを(このブログでは別として)“あえて出さない”というところは、まあ大人らしいと思うことにする。

そんなわけで、頑張っている僕えらい、ということで明日も乗り切っていこう。

戻ってきた日常

台風の様子が心配で、朝、久しぶりにテレビをつけた。

関東の様子でも、けっこう激しい雨風の映像が流れていたが、出勤時には雨は止んでいた(電車は遅れてたが)。激しいところでも被害が少ないことを祈っております。

さて、旅行から帰って日常に戻りつつある。
とはいえ、休みの関係で、出勤日がやっと3日目となったところだから、まだ仕事は本調子ではないけれど。

英語クイズゲームアプリ『ココロセカイ』をチマチマと進めていたが、わりと早めに無課金だと超えられない壁が見えてきた。いや、まだタダで有力なガチャをほぼやっていないから、ガチャを回せるだけ回しきってから考えればいいのだろうけれど、クイズに正解しても、敵との火力差が圧倒的に違って萎える。早い話やや飽きてきた。
それでも、英語の単語、熟語が身近になったと思う。
「Easy come easy go」の和訳が「悪銭身につかず」だったり(ググったら厳密には違うようです。そうだよね。同じだったらB’zの同名曲がなんだか説教臭くなる)、「天井知らず」は英語だと「The sky’s the limit」になって、限界のない日本語の慣用句と違い、一応、空という限界はあるんじゃん、と、そのニュアンスの違いが、文化の違いだなーと面白かったりする。
そういう熟語にふれるのは楽しいので、攻略するとかじゃなくて、英語に「慣れる」ツールとして使っていこう。

あと、久しぶりに小説を読んでいる。
『最後のトリック』という、話題になっているミステリー小説だけれど(友人に勧められた)、なかなか前に進まない。
生粋のミステリー好きでないからだろうか。
思えば、意外なトリックの代名詞となっている『占星術殺人事件』もそうとう時間かかって読んだ。『占星術~』は、内容としてあまり好きな感じではなかったのだけど、『最後のトリック』は今のところ、面白く読んでいる。
ただ、読み進まないだけ。これもちまちまと読み進めてみよう。

気がつくと6月も間もなく終わる。
よく言われることだが、これで2019年も半分終わり。

いろいろとやることやらなければね。

追いかけて仙台 後編

そしていよいよ入場開始。

それまでの模様はこちらで
→「追いかけて仙台 前編

ホールの中に入って気づいたのは、ステージに対して半円を描くような席配置になっているので、僕ら3階席でもステージが近く、また見やすいということ。

僕らがTrySailのライブに行こう、となった時、行き先としてはここ仙台と名古屋を選ぶことができた。
名古屋はこのツアーのファイナルだったので(のちに幕張の追加公演が決まって、幕張が本当のファイナルになったけれど)、江戸川台ルーペは友人から「名古屋にすればよかったのに」と言われたらしい。
確かにそうだ。

トリキで参加会場を決めたときは、そこまで頭が回らなかったのだけれど、ツアーファイナルは演目や盛り上がりも違うのだから、確かに名古屋のほうが良かったのかもなー、という思いがここに来るまで、正直少しあった。
でも、いざこのホールに入って自分の席についた時、「ここを選んで良かった」と確信めいたものを感じた。会場の規模も雰囲気も、ステージと観客が一体になれる予感がしたのだ(もちろん名古屋に行ったら行ったで、それはそれで楽しかっただろうけどね)。
そんなわけで、否が応でも期待が高まり、開演まで40分ぐらいそわそわして待っていた。
左となりの席が女性で、僕が公演中に盛り上がりすぎて邪魔になったら申し訳ないなー、とか、少し距離を保ったほうがいいかなー、とか、そういうのも若干意識してしまった(大丈夫そうでした)。そばにはカップルのファンもいて、改めてTrySailファン層の幅広さについて考えたりしているうちに、ついにライブが始まった。

そして始まってしまえば、時間は一気に過ぎる。

内容は、すでに書いた通り「控えめに言って最高」だった。
ミスやハプニングもあったが、そういう不確定要素も含めてライブの楽しさを満喫できた。

僕の席からは1階席のファンの姿も見られたので、1階席の人たちの動きというか、ブレード(=サイリウム=ペンライト)の振り方とか、ノリ方をチェックしたりした。あとPAブースの位置とか、関係者の動きとかもそれとなく目に入ってしまう。
なんというか、こういうときに「主催者目線」で見てしまうのは、なんだかんだ職業病だと思う。このライブに比べて、自分が関わるイベントは(良くて)10分の1の規模のものではあるが、参考にできることはあるし、なにより、どういう部分をお客さんが一番楽しんでいるんだろう、と気にしつつ鑑賞してしまった(それが僕の良いところでもあり、残念なところ)。

僕らの斜め前に、ライブの大先輩らしきファンの方がいて、その人はブレードを持っておらずに自分の身体全身でノッていて、レベルの違いを感じた。
ファンもレベルがあがると、道具に頼らなくなるんだなと痛感する。
(揶揄する意味でなく)なんというか発光するものを持っていなくても、“存在感”というか、出しているオーラ自体が発光しているような、そういう雰囲気をもっていた。それでいて周りの邪魔にはならずに(節度をもって)楽しんでいるのがわかる。
僕は多分、その域にはなれないと思うが(だってブレード振るの超楽しいんだもん)、ここまで「好きなものがある」というのは素敵なことだし、その想いに一点の曇りもないあたりが本当に素敵だと思った。
対して自分の想いの中途半端さよ(TrySailのことだけではなくて全てにおいてね)。
こういう楽しい場で楽しい時間に身を置きながら、一歩引いてそういうことを考えてしまう自分がいた。
真面目すぎんのかもな。

そんなこんなで約2時間のライブはあっという間に過ぎた。大量のエネルギーに“のぼせて”しまうのではないかと心配していたが、逆にエネルギーをもらえた感じ。
たぶん、うまくエネルギーの波に乗れたということなんだろう。「好き」という思いが同じなら、波長があうのかもしれない。
集中力もトイレもぜんぜん平気で、あと1時間続いても余裕でついていけたと思う。そのぐらい楽しい、あっというまの“祭り”だった。

“最高オブ最高”だった祭りが終わり、江戸川台ルーペは、衛星放送かと思うぐらいに会話が遅延するほど、しばらく放心状態だったりしたが、お互いに「楽しかった」「最高」を連発し、その想いをさらに発散するために駅前の飲み屋で打ち上げ。

たぶん飲みの間、TrySailのことしか話してなかったと思う。

好きなものがあって、それについて語って想いを共有するのもまた楽しい、ということを改めて思う。
そういう意味では、江戸川台ルーペにとって、僕がその“共有できる相手”になるとは(しかも付き合いで話を合わせるのではなく、ちゃんと「話したことを理解できる」相手になるとは)、TrySailのライブに誘った42には考えられなかったことだろうし、僕の変化に一番驚いている人物ではなかろうか。
だって、彼に誘われたとき、僕は「TrySailって何?」「それ誰?」というレベルだったのだから。
それから3カ月(正確には2カ月と20日)で、イントロを聴いてほぼ全ての曲名を言えるほどCDを聴きまくったり、ライブブルーレイでコールするタイミングの予習をしたり、返品してまで「声優アニメディア」を買った経験は、20年来の友人と新たな共通の話題を手に入れられたという意味でも、その甲斐はあったというものだ。

友達だからといって、そう簡単に「共通の好きなもの」ができるわけではない。だから彼としては、僕が「付き合ってくれてる」感がまだあったのかもなー、と旅が終わった今、思ったりする。なんとなく、この旅行中、僕に気を使っていたような感じがしたのはそういう理由からかもしれない。
だけど、僕は自分自身ではかなりガチなTrySailファンになったと思うし、TrySailの存在を教えてくれた江戸川台ルーペには感謝しているのだ(と、この場を借りてお礼しておきます)。
まあ実際は「ミイラ取りがミイラになった」っていう状態ではあるけれど(使い方あってる?)、あの日のトリキで「サイリウム振りたいっす」と言われた時に、「じゃあ行こう!」と応えなければ、僕らがこうして仙台にいなかったことを考えると、未来は本当に予測がつかないし、なんというか「明るい未来」っていうのも、自分次第でいくらでもつかめるんじゃないかと思える(言い過ぎ?)。

で、23時頃飲み屋を出て、その後ホテル前のミニストップでビールとハイボールとチューハイとワイン、おつまみもろもろを買い込み、部屋で飲みの続きをしながら1stライブの映像に合わせてブレードを振った。
ライブのと、飲み会のと、二重の意味での二次会。
今日のライブでできなかった「ホントだよ」と「センパイ。」のコールもやった(馬鹿)。
結局僕らの“祭り”は朝の3時まで続いた。
こんなに起きてたの久しぶりだし、よく起きていられたな、とも思う。テンションって身体の限界を超えるのかもしれない。

 

翌日は昼の新幹線で帰るので、遅めに起床して、駅でお土産を物色。
僕が実家から要望されたお土産と、江戸川台ルーペが奥さんから要望されたお土産が同じだったのが地味に面白かった(ちなみに支倉焼です)。
お土産を買っても時間は余ったので喫茶店で時間をつぶし、短いけれど仙台滞在は終了。

支倉焼

帰りの車内は、喪失感と疲れからか、二人の会話はほとんどなかった。
黙って二人で同じタイミングで弁当を食べ始め、同じタイミングで食べ終わったのが印象的だった(ちなみに僕が食べた「牛肉どまん中」という山形のお弁当はとても美味しかった)。

これと言った会話はなかったけれど、とにかく「すごい楽しい時間だった」というものは共有していたと思う。
僕は、そういうことを話したら、なにか大切なものがこぼれ落ちてしまうとも思った。

それから僕は仕事に向かったのだが、疲れにも関わらずちゃんと働けたのは「楽しい疲れは後に残らない」という説の実証だろう(でも、ブレードを振った右手が無事だったのは、寝る前に湿布貼りまくっておいたおかげだと思う)。

そんな旅が終わって、また平常の日々が戻った。
実を言うと、飲んでいる時に「幕張の追加公演に行こう」という話もでた。
2dayの初日なら行ける日程だったからだ。飲みの勢いで、申し込みボタンを押す直前まで行った。
ただ、旅行から帰ってきて、結局それはとりやめになった。
初日の演目はファイナル公演ではないので、内容的に今回とあまり違いはないだろうということと、会場のキャパシティが仙台の約2000から7500に膨れ上がるので(ちなみに名古屋は3000)、今回以上のものは得られないだろうということがその理由だ(それでも行ったら絶対楽しいんだけど)。
ツアーファイナルに行けるのだったら、ステージが遠かろうがなんだろうが参加したのだけれど、その日は僕自身が主催のイベントがある(司会もする予定)。さすがに自分の仕事をうっちゃってまでは行けない。
規模は小さいけれど、僕も、僕のイベントを楽しみにしてくれる人たちのために全力を尽くさなければならない。それは末端とはいえ、同じくイベント業に身を置く僕の挟持だし、守るべきものなのだ。
そうやって、自分のできることを積み重ねていけばこそ、次にTrySailのライブに行ったときにも、全力で楽しめるんだと思う。

このライブに参加する前と後で、僕の考えにちょっとした変化があったことも確かだ。
とにかく楽しいことをたくさんやろうと思う。楽しそうなことに積極的に参加していこうと思う。

人生は短い。
ましてや僕は不惑を超えて、折り返し地点を過ぎてしまっているのだ。
後悔するより、悩むより、前に進もう。
そういう思いを強くした二日間だった。

またあの“最高オブ最高”のライブに参加する時に、今よりも(いろんなことに)自信をもって臨めるように頑張りましょうかね。

それはきっと遠くない気がする。