次なるステージ 「石神井Int’lオーケストラ 第5回定期演奏会」

第5回目を迎えた、地元、石神井Int’lオーケストラ(石オケ)の定期演奏会。

去年の演奏会を聴いて、4年かけたフェイズ1を終えたと僕は記したが、今年はフェイズ2の第1弾とも言える演奏会となる。果たしてどういう演奏が聴けたのか。
その答えはバロック時代の“合奏協奏曲”と、5弦ヴィオラという異端の楽器との共演、そして20世紀音楽・難曲への挑戦である。

1曲目はバッハの「ブランデンブルク協奏曲 第3番ト長調」。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがそれぞれ3パートずつに分かれ、独奏と合奏の区別のない(いわゆるソリストと伴奏がいる“独奏協奏曲”ではない)協奏曲である。団員たちの息が合い、これぞ弦楽オーケストラといった調和のとれた演奏。
第2楽章は即興演奏で行われるらしく、今回はチェリスト毛利巨塵さんのソロによる演奏が行われたが、オリジナルのソロでありながら、あたかもそこに譜面が存在しているかのような見事な演奏に魅了された。
石オケはヴィオラとチェロの人数が相対的に多い。もちろんヴァイオリンが一番多いのだが、合奏協奏曲を演奏しても違和感のない音のバランスが実現できる。そして毛利さんのようなプロの演奏家がいることで説得力のあるソロも楽しめる。石オケの二つの強みを活かした選曲だったのではないか。

 

そして2曲目はモーツァルト「クラリネット協奏曲イ長調(5弦ヴィオラ編)」。
5弦ヴィオラ奏者であるルドルフ・ハケン氏との共演である。

実は石オケは2年前もハケンさんと共演しているが、その時演奏したのは彼の作曲した「5弦ヴィオラの協奏曲」。作曲者自らが演奏するので、曲の解釈、聴かせどころはハケン氏に任せて、しっかり伴奏に徹すれば、聴かせられるレベルの演奏をすることはできる。
だが、今回はモーツァルトの「クラリネット協奏曲」という、聴衆にも知られているし、曲自体を知らなくても“モーツァルトらしさ”を期待される楽曲なのだ。クラリネットパートが5弦ヴィオラの演奏になっているというだけでも、その音色、雰囲気はだいぶ変わる上に、モーツァルトらしく弾かないと観客の満足度は下がってしまう。同じソリストとの共演といってもオケに求められるものが2年前とは比べられないくらい重い。

いざ演奏が始まると出だしからモーツァルトらしい軽やかな旋律が奏でられ、きちんと曲の世界を表現できているように思えた。
そしてクラリネットパートを弾く5弦ヴィオラのソロが合わさると、5弦ヴィオラという楽器の特殊性によるのかハケン氏の音楽性によるのか、どこかアメリカンな雰囲気が加わった。

だが、それは紛れもなくモーツァルトの曲だった。オーケストラが素直にヨーロッパのモーツァルトを表現し、ハケン氏が奏でる新大陸に渡ったモーツァルトと共演しているようにも思え、なんともいえない独特の世界を生み出していた。弾いている団員にとっても、貴重な楽しい経験だったに違いない。

 

そして団員がもっとも苦しんだという難曲、20世紀に活躍した作曲家バルトークの「弦楽のためのディベルティメント」である。
この曲、奏者泣かせだけでなく、聴者泣かせでもあるらしく、聴く側にもある程度理解がないと「不快になるかも」ということで演奏前に簡単な曲解説が入る。ここで、各章のさわりが披露され、聴く側も「これは難解そうだな」と予習はできたのだが全体像はわからない。かえって予習ができた分、一体どんな曲なのかどんな演奏がされるのか、期待が(そして不安も)高まる。

曲が始まってみると、解説で感じた以上に、次々とめまぐるしく曲が展開する。聴く側はなんとか展開をつかめるが、弾く立場となると確かについていくのもしんどいだろう。ただ、団員の努力の甲斐もあって、第1楽章の変拍子も破綻することなく、第2・3楽章の劇伴のようなフレーズとともに、この楽曲の不思議な世界を楽しめた。これは、各パートにサポートのプロ演奏家がいるから可能だったという面もあると思うが、団員一人ひとりが真剣に曲と向き合い、それぞれ今できる演奏を精一杯した賜物だろう。
奇しくもNHK-BSに出演した際、石オケ音楽監督・指揮者の西谷国登さんが「アマチュアオーケストラは雰囲気をつくったり、どうやったら自分たちが楽しめるのかということを表現するのに長けている」と言っていたように、しっかりと曲の雰囲気、そして“石オケの楽しさ”を曲に乗せていた。

 

去年よりももう1ステップ上のステージを目指したと感じられた石オケだが、それを実現するためには、音楽監督が乗りこえられるギリギリの課題を与え、団員がそれに食らいついてクリアする。その課題のレベル設定の見事さは、ヴァイオリン指導者としても活躍する西谷さんならではなのではないか。

レベルをあげながらも、新しく入ってくる団員も迎え入れなければいけない。そう考えてみれば、アマチュアオーケストラとは決して完成せずに形を変え続けていくものなのかもしれない。しかし決して完成しないが、ベースのレベルをアップしていかなければ毎年聴衆を楽しませることはできないし、このオケに至っては、その名を表すように「インターナショナル」に羽ばたくことを目指すなら、いつまでも同じ場所に留まることはできない。
だからこそ選曲はこのオケの生命線なのだ。

今年から参加したメンバーもいる中で、音楽監督が出した課題を乗り越えてきた団員たちの真剣な演奏。それこそがここ1年の成長であり、そんなことが当たり前のように、団員を信じ、遠慮することなく指揮をふる音楽監督からお互いの信頼関係も伺える演奏だった。
アマチュアオケ、地域オケとはこうあるべきという姿をみた気がする。

未だ成長の途にある石神井Int’lオーケストラ。
来年の演奏会も楽しみに待ちたい。

「大塚京子 ソプラノ・リサイタル クルト・ヴァイルの世界」

ソプラノ 大塚京子さんのリサイタルに行ってきた。

今回は、ドイツの作曲家クルト・ヴァイルの生涯を、「ドイツ ベルリン時代」、「フランス パリ時代」、「アメリカ ニューヨーク時代」と、その曲の変遷と合わせて紹介しながら歌っていく構成になっていた。

惜しくも僕は用事で開演に間に合わず、「パリ時代」から聴くことになったのだが、パリとニューヨークの曲を聴き分けるだけでも、その曲のスタイルの変化と、それでも根っこでは同じ作曲家の曲だと感じられ、楽曲って、その時代や風土とつながっているのだな、と改めて思った。

2年前のリサイタルでも感じたように、大塚京子さんの良さはその天真爛漫な明るさと、いつまでも少女(乙女)のような可愛らしさだろう。とくにニューヨーク編で取り上げたミュージカル「ヴィーナスの恋」の曲は、心をもったヴィーナス像が歌うという設定らしく、彼女のキャラクターと相まってとても魅力的だった。「愚かな心」はその天真爛漫さが良く出ていて、そこに細かく確かなテクニックを入れてくるところにプロの技もみえて聴き応えがあった。

それから、今回感じたのは、歌っているときの滑舌の良さ。
先に書いた「ヴィーナスの恋」の英語の明瞭さもそうだが、アンコールでも歌った「ユーカリ」(パリ編の曲)など、フランス語がわからない僕でも、意味が伝わってくるような、はっきりとした歌い方をするのが耳に心地よい(ご本人いわく「フランス語が全くできない」そうだが)。

それと同じくアンコールで歌った「マック・ザ・ナイフ」(ベルリン編で歌った「メッキメッサーのモリタート」という曲がアメリカでジャズとなって流行した曲)。
僕は、ボビー・ダーリンが歌ったバージョンのこの曲が大好きで、今回のリサイタルでぜひ聴きたかったので、アンコールで聴けて本当に嬉しかった。
恐らくやろうと思えばもっと崩せるのだろうが、クラシックの良さを活かして、さらにマイクなしといったギリギリのところのアレンジの、新鮮な「マック・ザ・ナイフ」が聴けた(「メッキメッサーのモリタート」と聴き比べたかったが…残念!)。

そして山田武彦さんのピアノは「ピアノって、曲によって音色まで変えられるんだ」ということを実感する心に残るピアノだった。

きちんと実力のある歌い手が、ひとりの(しかも近現代の)作曲家を、その作品と時代とともにとりあげるというコンセプトでリサイタルを開いている、というのはとても意義のあることだと思う。知らない作曲家なら、その曲と時代背景を知ることができるし、知っているなら、より深く曲について学ぶことができる。そしてなによりリサイタル中、とても楽しかった。
次回のリサイタルではどんな作曲家とどんな曲がとりあげられるのか、楽しみにしている。

ぶらりと途中下車

金曜とはいえ、明日は普通に仕事(そして夜、外出)、明後日も用事があるので、体調管理のためにとっとと帰る…

つもりではあったが、それもちょっとつまらないので(なにせプレミアムフライデーなんだよ!忘れてたけど)、練馬のブックオフを物色しようと途中下車。
目当ての本はなかったものの、気になった本を3冊買って、そのまま近くのマクドナルドで読書しながら夕食。
昨日もマクドナルドだったので、ちょっと「スーパーサイズミー」的な気分になったりはする。来週、健康診断なのに。

練馬は、ひとりぐらしをしようと思った時に候補にあげた街である(結局、今、練馬区民だけど)。駅前の大通りに多くの飲食店があるし、道も広くて住みやすそう。散策するのに良い駅だと改めて思った(今日まだ3回目だけどさ)。

きちゃう

イニエスタがヴィッセル神戸加入って、すごい時代になった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180524-00000015-goal-socc

世界中の現役選手の中で一番好きなプレイヤーが日本でプレイするのだから、必ず観に行かないといけない。予定をたてよう。

イニエスタのどこが好きか、というと、チャンスメイカーにもフィニッシャーにもなれるところと、やっぱりヌメるようなドリブルだろう。そのプレイを生で見たい。

ちなみに歴代の選手も入れると一番好きな選手はロベルト・バッジョ。
結局、速くてテクニックのある選手が好きなのだ。

フェルナンド・トーレスも鳥栖に来る(なぜ鳥栖?と思ったけど)という報道もあったが(結局アメリカに行くようだ)、かつてのJリーグバブルの時の「一昔前の大物」ではなくて、ピークは過ぎたとはいえ現役のワールドクラスが移籍してくるのは、日本にもサッカーが根づいた証拠なのかもしれない(ここ数年まともにサッカーを観ていない僕には断言はできないが)。

楽天は「パンダフル」しか好きじゃないが、今回については良い仕事しました。
お金って大事だ(それ結論?)。

ニュー祈願パラダイス

5月はどうも上手くいっていない。

4月もイマイチだったような気がするけれど、GWはボーッとしているうちに終わってしまったし、その後もうまく自分のペースをつかめないでいる。

そんな時、ふと部屋の一角にある御札に目が止まった。

僕はここ4年ほど、いつも初詣に行く大宮の氷川神社でご祈願をしてもらっている。厄年の間だけはお賽銭だけでなく、強めのご祈願(お祓い)をしていただいたほうが良いと思っていたからだ。
で、早生まれのため厄年が始まるのが数えなのか満年齢なのかがわからず、一番最初に行った時にまだ前厄ではなかったため「災難除け」になり、そこから去年後厄が終わるまでの4年間、ご祈願していたのだ。
もう厄年は過ぎたので、今年はもういいかなーと思っていたのだが、「余裕があればしてもらっておいたほうが良いかもな」という気持ちと、今月感じていた良くない流れをどうにかしたい思いが重なり、ご祈願に行ってきた。

4年間はひとりで行っていたのだが、今年は母と出かける用事が重なったので、母と一緒に行くことに。僕は自分の災難除け、母は家内安全をお願いする。

僕は神様に対しては「良いことは自分でなんとか切り開いていくので、悪いことから守ってください」というスタンスでいる。
ラッキーなのも嬉しいけれど、良いことは「自分でやった」感が欲しいし、そこまで神様に頼るのは贅沢な気がするからだ。でも、理不尽なことや、なるべく嫌なことからは守ってほしい(それもまあ十分贅沢だけれど)。
なので、厄除けや災難除けはまさに神頼みをしておきたいと思う。

いつもは僕の他に4〜5組のご祈願をする人や団体がいるのだが、今年は、僕と母の二人だけ。神様へのお願いをウチだけで独占してしまい、ありがたいような恐れ多いような気持ちになる。
そのせいか神主さんの祈祷も良く響いたし、言葉も良く聞こえた。
「オオカミがうんぬん…」という言葉が聞こえたので、「ああ、この神社の守り神は狼なのか」と、狼の群れが僕の周りに現れて災難に向かって吠えて守ってくれている絵面が頭に浮かんだのだが、後々考えたら「大神」だと気づき、複雑な気分になった。
まあ、名作ゲーム『大神』が好きだから、その主人公アマテラスを想像したと思えばそれもまた良しだ(あれは犬だけれど)。

ご祈願を済ませて、少しだけど運気が持ち直した気もするので、5月後半から頑張っていきたい。

ノスタルジック通り

昨日の送別会が行われた会場のある通りは、僕が中学、高校時代によく通ったゲームセンターのある通りだった。通りを挟んで大小2件のゲーセンがあったが、今はもうどちらもない。

まだ、対戦格闘ゲームが流行る前だったので、友人と繰り出しては、思い思い好きなゲームに興じていた。

そのゲームセンターには、高校1年の時によく行っていたはずだ(なぜならば一緒に行ってたのが高1のクラスメートだと覚えているから)。

大きい店のほうに行くのが主流で、プレイした覚えがあるのは、「ハードパンチャー」、「パロディウスだ!」、「マーベルランド」、「エイリアンストーム」とか。プレイはしなかったけど、向かいの小さなゲーセンに「ピストル大名の冒険」と、「ウイニングラン」が入っていたのをよく覚えている。

あと、造作の甘い動物のぬいぐるみが景品だった頃のUFOキャッチャーも結構やった。今よりも設定が甘くて取りやすかったのだ。

大きいゲーセンはコンビニになり、小さいほうは居酒屋になっている。

それでも、その通りに行くと、あの時の無邪気さと若さが蘇ってくるのは不思議だ。

おっさんになっただけかもしれない。

個性的な送別会

時期的に珍しいが、会社で退職される方がいて、その人の送別会だった。

定年退職に近い感じなので、湿っぽい感じではなく「卒業します」的なノリだったんだけれど、送られる人の要望がたくさん盛り込まれていて個性的な楽しい会だった。

僕の世代は「好きなように生きる」ということができなかった世代だ。
バブルの頃はまだ学生だったし、社会人になる直前に超氷河期となったので、大人になって(つまりひとりだちして)から、イケイケドンドンなことをしたことがない。
いや、僕の世代でもそういう人はいないわけではなかろうが、それは広告代理店だのテレビ局など華やかな企業に就職した一握りの人たちだと思う。
あの界隈はけっこう長いことバブルを引きずることができていた。

今回、送られた人は世代的に言って、資本主義経済の、というか日本の高度経済成長の良い時代を体感した人なはずだ。
日本自体が浮かれに浮かれて、消費することが正しい、みたいな時代も経験してきただろう。
それを羨ましいとかは思わないのだけれど、じゃあ、僕があと20年たって、いったい何を“経験”として個性をだせばいいのだろう、と真剣に考える。
もっと言えば、僕の世代では「世代」で語れる「個性」なんてないはずなのだ。

だから、自分は、自分である、という個性を、自分で主張していかなければいけない。今はそういうシビアな時代なのだと思う。逆に言えばひとりひとりが個性をだせる、大きなチャンスの時代なのかもしれない。

自分が何者で、何が好きで、何ができるのか。

まずはそれを主張するべきだろうと、送られる人を見て、そう思った。
あるいは、ただ酔っ払ってるからかもしれない。

ディレクション

毎日ブログを書くという行為はいったいどういうことなんだろうか。

他の人の事情はわからないが、僕の場合は誰かに脅されているわけでもないし(「毎日ブログを更新しないと髪の毛を一本ずつ抜いていくぞ」とか)、1年書き続けたら賞金がもらえる賭けをしているわけでもない。
知り合いの「芸事」で生きている人が毎日ブログを更新しているけれど、そういう「販促活動」みたいなものでもない。

ただ、なんとなく、だ。

ただ、なんとなく、をかれこれ5ヵ月続けている(と、振り返ってみて、ずいぶん続けてきちゃったな、おい。と自分にツッコミを入れてます)。

それなりにネタを探して書いているつもりだが、毎日となると、どうにもこうにもネタがない時期がある。
以前ブログを1年毎日更新した時も、やっぱりネタがなくて、

疲れた。明日頑張る。

みたいなので終えた日もあった気がする。

包み隠さずなんでも書いてしまえばいいのかもしれないけれど、日記と違うから、あまりにもパーソナルなことは書かない(パーソナルなこと全開なときもあるけど、それでもひとに見せる体で書いているんですよ)。
僕のブログは、1000年後ぐらいに発掘されて「2018年に日本という国で生きていた中年男性の日常」みたいな扱いをされれば、それでいいと思っているのだが(ポンペイの落書きのように)、ありがたいことに現時点でこのブログをチェックしてくださっている方も数人いるので、ダラダラと文章を垂れ流すだけではなく、ちゃんと方向性をつけないといけないな、と思い始めている。

好きなことだけ書いていればいいのか、社会問題について取り上げればいいのか、全然はっきりしていないけれど、しばらく迷走しつつ、方向づけしていくつもりだ。

とりあえず毎日更新は続けようと思う。

10日ほどの健康志向

あと10日ほどで健康診断。
そんなわけで体調管理に余念がない。

とまでは言わないが、少しづつ節制したりしている。
食事と運動。

今週2度目のジムへ行って筋トレとランニングしてきた。
ジムで体重を測ると思ったより低い数字がでて「おっ!」と喜ぶが、翌日自宅で測るとだいたい増えている。なんだろう。手品?

食事のほうはなかなか上手くいかず、ついついカロリーオーバーしてしまうわけだが、体重を減らすには「食事9割、運動1割」という話を同僚から聞いたので、それが本当なら9割のほうをなんとかしないといけないのだ。
ラーメンとかフライドチキンとか、ましてやフライドポテトとか、しばらく厳禁だ。

美味しいものはカロリーが高いのはなぜなんでしょうね。