欲しいものが売ってない

最近ゲーム熱がまた盛り上がってきたので(普段でもひとよりはゲーム熱高いかもしれないが)、ここらで最新のゲーム情報を収集しておこうと思いたった。

僕のスタンダードハードはSwitchなので、任天堂ハードの情報が載っている「Nintendo Dream」という雑誌を買うことにして発売日2日後ぐらいに本屋に行ってみたけど、置いていなかった。
まあ、そんなこともあるだろうとのんびり構えていたのだが、昨日、今日と7件本屋を周ったけれど売ってない。仕入れが少ないのかなーと思いきや、どうやら売り切れらしい。
付録に「UNDERTALE」というゲームのファンセレクションCDが付いていて、それが大人気らしいのだ。

僕は「UNDERTALE」というゲームをこれまで知らなかったのだけれど、インディーズゲームとして全世界で300万本売れている大人気ゲームらしい(こういうのを知らない、ということで、自分がゲームファンを名乗るのが恥ずかしくなってしまうのだ)。
どこがそんなに人気なのかインターネッツでちょっと検索かけると「ネタバレ注意!」という表記が出ているので、検索もあまりできていない。
唯一わかったのは「プレイヤーが試すこと全てにリアクションをつけているように作り込みがすごい」ということ。
「Nintendo DREAM」の売り切れ具合(そしてAmazonでは倍以上の値段になっているというテンバイヤーの暗躍)を思うと、俄然、本誌ももちろんのこと、このゲーム自体をやってみたくなった。

ただ、僕は今のところ、この「UNDERTALE」には思い入れがないし、最新ゲーム情報を仕入れるなら「Nintendo DREAM」にこだわる必要もないので、縁がなかったと諦めることにする。
ただ、欲しい人に定価で届いてほしいと切に願う。

で、僕が今日、本当に買おうと思っていたのは、昨日発売された「ストリートファイター 30thアニバーサリーコレクション」のSwitch版なのだ。
ちゃんとアーケードコントローラーまで入手して、我が家に迎え入れる準備もしている。

だのに、これがまた売ってない。

いや、探したのがビックカメラ本店一択だったので、他の店には売ってたのかもしれないですけどね。でも「Nintendo DREAM」も色々探してなかったことも頭にあって、他の店に行くのが億劫になったし、「今日はそういう日」という気分になってしまったのだ(ちなみに「UNDERTALE」も売り切れていた)。

そんなわけで、今日は空振りの日。
疲れも溜まっているので、今日は遊ばずに寝ろ、ということなのかもしれない。
明日、出直します。

出世

特濃ミルクの宣伝が好きだ。

ガリットチュウ福島が片岡愛之助のモノマネをして本人と共演している奴。

もとの顔立ちは全然違うのにメイクでだいぶ似せてきているし、並んでもそっくりってわけじゃないけれど、ちゃんと似てる感じがする。
雰囲気を寄せるのが上手いんだろうな。過度にデフォルメするでもなく、顔がそっくりというわけでもなく、でも言われてみれば確かに似ているという「似顔絵」的なモノマネと言っていいかもしれない。だから本人も許せちゃうんじゃないだろうか。
その楽しい雰囲気が伝わってくるのも好きな理由だ。

それにしても、ガリットチュウ福島は本当に出世したと思う。細かすぎて伝わらないモノマネ選手権のレギュラーっぽかったものの、次長課長の河本同様、いじられキャラだった気がする。それが今では、船越英一郎やら日テレの水卜アナやらモノマネを本人に認められて、そしてついにはモノマネ相手と一緒にCM出演するなんて。

この手のCMに出演した人で出世したなーと思うナンバーワンはダンディ坂野だ。マクドナルドでバイトしていた彼が、今やマクドナルドの全国CMに出ているのだから、人生って本当に(他人事ながら)面白い。
何度も言うけど、ダンディは「ゲームWAVE」でちょこっと出ていたときから、つまらないけど大好きな芸人さんだったので、その活躍はとても嬉しい。今も変わらずつまらないけど愚直に売れていてほしい。

で、はたと気づいたのだけれど、ガリットチュウ福島と言えば、細かすぎて伝わらないモノマネ選手権のチャンピオンでもあるが、その時のネタは「キャンペーンガール時代の藤原紀香」だ。
つまり、片岡愛之助の現嫁である。しかも、今の愛之助のモノマネよりも多分にカリカチュアされたモノマネだった。それを知って共演したとすれば、片岡愛之助も大した人物だし、臆せず出たガリットチュウ福島も傑物だし、なによりブッキングしたCM製作者の度胸がすごい。

夫婦で同じ人にモノマネをされるというのはどういう心境なんだろうか。
次回はぜひ本物の紀香と偽愛之助で共演してほしい(偽紀香は絶対NGだろうからね)。

愛ちゃん、卓球辞めるってよ

福原愛選手が引退した。

ずいぶん長いこと卓球界を支えてきたなーと思う。
小さい頃「天才」ともてはやされても、大人になると埋もれてしまう人が多い中、日本を代表するアスリートになったのは素晴らしいことだと思う。しかし、あの「愛ちゃん」が29歳だもの、そりゃ歳取るわけだよ。

小さい頃からその一挙手一投足に注目を受け続ける感覚ってどうなんだろう。ものすごいストレスだったと思う。それを乗り越えられるようになったのは、オリンピックでメダルを取った頃ぐらいなんじゃないか。それでも道を踏み外すことなく結果を出した彼女の生き方に頭がさがる。
会見を見ると、やりきった、という感じの顔をしていたので、充実した選手生活だったのだろう。

愛ちゃんがいなければ、卓球という競技はもっと地味な扱いだったろうし、石川選手や伊藤選手のような強いフォロワーも出なかったろうし、「サー」という掛け声も注目されなかっただろう。
ひとつことに集中すると、その周りに貢献できるということも示した。

“愛ちゃん”と言ってしまうのが申し訳ないほど偉大なアスリートだった。

でも、ついつい“愛ちゃん”と言ってしまいたくなるその人柄も彼女の魅力のひとつなんだと思う。

長いこと本当にお疲れ様でした。

無性に卓球がしたくなった。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』

評判が良かったので『アンダー・ザ・シルバーレイク』を見た。

評判通りの面白さ、というわけではなかったけれど、なかなか印象深いアート系の映画だった。
あと、R15+って、結構きわどいんだなぁと思いました。言動がきわどいだけじゃなくて、モザイクかかる感じの映像もあって(それも序盤に)、それからグロいっていうか残虐な感じのところもあるので、その点要注意。

内容は、夢か現実かわからないような展開をしていくんだけれど、明確な答えがでるわけではなくて、すべて見る人の解釈によるみたいなところがあります。

主人公は知り合いになったというか、一目惚れみたいな感じで近づいていい雰囲気になったけど、突然翌日に失踪してしまった女性を探して、謎というか暗号を解いていくんだけれど、なんというかジメジメした空気感の映画でしたね。
嫌いではない(むしろ好きな)タイプの作品だけども、結局何が何だかわからないというか、全てを観客に投げている感じがした。主人公の素性も謎だし(ただちょっとしたほのめかしはある)。
たくさん含まれているというハリウッド映画や芸能界へのオマージュや、舞台となっているシルバーレイクという地域性とか、そういうのがわかって見るならもっと面白いんじゃないかな(「犬殺しに気をつけろ」ってやたら言われてることだとか)。
日本人で、主人公にあんまり共感できない生き方をしてる僕としては、多分この映画の面白さを半分ぐらいしかわからないんだろう(ただ謎解きにNES=アメリカのファミコン が使われてるのとかは共感できたよ)。
フルに楽しむには映画(とくに昔の映画)についての知識がいるのかなと思うような映画ではありました。

主演のアンドリュー・ガーフィールドは角度によってはすごくかっこいいけれども、時々関根勤に見えたりもして、話に集中できなくなったりもした。でも、なかなか味のある役者さんだった。

純文学の小説を読んだみたいに、後でいろいろと思い出す感じの映画。
典型的な娯楽映画ではなくて、ふとした時にあのシーンはどうだったとか、とかこのシーンはこういう意味じゃないか、みたいなことを思い出す映画でした。単館上映系の映画が好きな友人と見たら、色々と解釈をし合えて面白いと思う。

ドラマティック

休みが変わって初めての週だった。
そのせいか、力配分がわからず突っ走ってきて、休み1日前の今日が終わってみてドッと疲れがでた感じがする。

そんなわけで、ブログも余力でなんとか書いている。
そこまでして書かなくてもいいのだろうけど、もう日記みたいなものだし、こういう「疲れたから」という理由で、毎日続けている習慣を終わらせたくない。もっとこう、途切れる時はドラマティックな理由がいい(それもできればハッピーな感じの)。

中田英寿がインタビューで「いつでも何かが変わる時はドラマティックな展開」だと言っていて、この考え方は面白いなと思ったことを思い出した。
つまりドラマティックだから物事が変わったのではなく、物事が変わったということに対して、ドラマティックだった、という感想を後から抱くのだ。
ドラマティックなくらいインパクトがないと「変わった」と気づかないのだから、「何かが変わる時はドラマティックな展開」というのは当たり前なのだ。
だけど、言葉になって初めてそのことに気付かされた感じがして、中田英寿はやっぱり物事の捉え方が違うなー、と尊敬する。

自分もここ1か月の間で色々な変化があったが、今考えるとそれもドラマティックな出来事がいくつかあってのことだな、と思い当たる節がある。
後になってわかることもある。つまり後にならないとわからないこともある。

人間万事塞翁が馬

ということなんだな、結局は(いいこと言った感)。

ハードデイズで風邪っぴき

鼻水が止まらなくなってきた。

2、3日前から風邪気味で、弱めの市販薬は飲んでいたけれど、ここにきてその風邪気味さのレベルが一段階あがった感じ。
そんなわけで強めの市販薬に替えてみた。

仕事の環境が変わったのと、休みが不定期だったのも原因だろう(あと寝不足も)。
気持ちでは疲れを押さえていても、身体は正直だなーと思う。

気温も急激に低下してきたので、皆様もお気をつけくださいませ。

『ロスト・ワールド/ジュラシックパーク』

『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』を観た。

『ジュラシック・パーク』の続編として期待されながら、その出来の悪さに酷評された、という触れ込みだったけれど、僕個人の好みとしては前作より面白かった。それは多分、人間たちが恐竜に立ち向かう姿勢が見られるからだろう。基本、大自然の中の生体を見るだけとか、襲われるだけ、みたいなのが好きじゃないのかもしれない。

20年も前の映画だからか、展開が間延びするところも多いが(とくにロープのシーンとかイライラした)、恐竜の怖さ(容赦なさ)をテンポ良く描いたパニックアクションとしては十分面白かった。殺され方も残虐さを直接見せるのではなく“ほのめかす”ような描写なのがスピルバーグっぽいとか思った。

これでこのシリーズで観ていないのは『ジュラシック・パークⅢ』だけになった。
ちゃんとシリーズ全作を観て、色々と書いてみたい。

ドタキャン

沢田研二がコンサートをドタキャンしたことが話題になっている。

自分もイベント主催の端くれとして「集客」という問題に関わる仕事をしているので、色々と思うところはある。
集客って本当に難しいんですよね。特に今の時代は情報が増えすぎてしまって、そこに埋もれてしまう、というのが一番大きな要因だと思うが、それを解消する良い方法も生まれていないのが事実。
結局、口コミ(それはネット上での誘いも含めて)が一番強いんだとは思うんだけれどね。

とはいえ、ジュリーに「友達呼んでください」とか「手売りしてください」とか言えないよね。規模がそういうレベルじゃない。
ジュリーはもう「ジュリー」という看板で売るしかない。そのアベレージがさいたまスーパーアリーナでは7000人だったということだろう。

7000人も集まったんだからやるべきだ、とか、たとえ一人でもやるべきだ、とかいう意見も多いけれど、今回のキャンセルについてはジュリーと主催者の信頼関係がなかったことが原因なんじゃないかなーと思う。
同じ7000人だったとしても、早くから説得したり、これだけ一生懸命やりましたという誠意を示したり、どうしてもジュリーにここでコンサートしてほしい、という熱意があればジュリーはやったんじゃないかなと思うのだ。
今になって考えれば、事務所とか主催者が「ジュリーが人数少ないとライブしたくないと言っています。このままだとピンチです。家族や友達を一人でも多く誘って来てください!」みたいなぶっちゃけツイートでもしておけばよかったんじゃなかろうか。

当日まで9000人いると2000人サバ読んで伝えていたこととか、座席をつぶして満席感を出したりとか、「満席にします」という約束をそういう姑息な手段で逃げ切ってしまったような印象を受ける(ジュリー側の話しか報道されないから、本当はわからない前提で書いてます。実際はジュリーが本当にワガママな人ってオチかもしれない)。

そもそもジュリーは、さいたまスーパーアリーナを満席にするポテンシャルが自分にはないとわかっていたんだと思う。だからやりたくなかったんだろう。
それでも「やる」という意欲をジュリーに持たせることができたら、少なくとも興行はできたんだと思う。

結局、最終的には、そういう主催者の熱意だとか、お互いの信頼関係がモノを言うと思っている。
それは自分が今まで担当してきたイベントの経験上ね。

今の世の中、集客って本当に水モノだ。
もちろんビッグネーム、ビッグスター、料金設定など、集客をプラスに見込める要素はあるし、それの積み重ねがベースにはなる。なるんだけど、こればっかりは「絶対に上手くいく」ことはほとんどない。
だからこそ興行は、演者と主催者(裏方)の信頼関係で成り立つのだ。

もちろん今後の自分への風当たりを考えれば(そして関係者の中で責任をとらされて人生が変わる人が実際にいるだろうことを考えれば)、ジュリーは舞台に立つべきだったと思うけれど、そんなことはジュリーだってわかっているはずだ。それでも舞台に立たなかったのは、彼の言う「アーティストとしての意地」だけではないのだろうと、イベント主催者の端くれとしては思うのだ(表に現れない結構な“切った張った”はあったはずだ)。

集客はもちろん大事。客席が満席になることが演者の最大のモチベーションであり、喜びであることは間違いない。でも、それ以外の喜びを、主催者が演者に持ってもらえるにはどうしたらいいだろうか。
そんな課題を考えつつ、この話題を見てしまったりしている。

答えはまだ見つからない。
でも考え続けましょう。

先走った行動

このブログでちょいちょい進行度をほのめかしていた『ピクロジパズル』ですが、このたびクリア制限がかかってしまった。

というのも、このアプリは時間による回数制限がないので、その気になればずーっとやっていることができる(逆に恐ろしいな)のだけれど、ひとつだけ制限のある問題があって、それを「ボスパズル」と呼んでいる。
これだけは1回クリアすると4時間待たないと次の問題がでないのだ。なので、「ボスパズル」については1日に3〜4問ぐらいしか進められない。

僕は、この「ボスパズル」以外の問題を全てクリアしてしまったようだ(コレクションを見ると間違いなさそう)。
なので、あとは「ボス」が出現したら倒す、というだけになってしまった。
オールクリアが見えてきた反面、ずいぶん先走ってノーマル問題をクリアしてきちゃったなーと、配分を間違えたことがちょっと残念。
数えてみたら、ボス問題があと123問残っているので、1日4問クリアするとしても31日かかってしまうのだ。
1度アプリクリアして、最初からやろうかな、とも思うが、まずはオールクリアを見てみたい。

だが。
実は、この1ヵ月以内にiPhoneの買い替えを企んでいるので、結局オールクリアを見ることができないのではないだろうか。なぜなら完全無料アプリのせいか引き継ぎ項目がないのだ。
iPhoneを買い替えたら、また初めからやり直しっぽい。

ノーマル問題を解くのは楽しいから構わないけれど、「ボス」の出現を待たなければいけないのが歯がゆい(単純計算で全問出るまでに40日程度かかるってことだからね)。

それでも、これまで全て理塗りでクリアできたというのは問題が良いということだし、絵柄も楽しかった。良いゲームだし、良いアプリでした。

続編も欲しいし、ナムコやカプコン、セガのゲーム題材でも出してほしいなー。800円落としきりでSwitchで出たらきっとずっとやってる。

そんなわけであとはボスを待つ日々ではあるけれど、早めにiPhone買い替えて、新しい端末でやり直しましょうかね。

映画『クローサー』

『ピクロジパズル』ですが、コレクション率71.6%まで来ました。

ついに難易度が「星5つ」になりましたが、まだ大丈夫、理塗り(勘ではなくて理詰めで塗っていくやり方)で解けています。
インターネッツで検索したら、イラストロジックというものはどんなに難しい問題でも絶対に「理塗り」できる、という意見もあったので、本当かどうか最後まで頑張ってみます。
ただこのレベルになると、僕の実力では塗り間違えをしてやり直すことが多くなってきた。そんなわけでクリアするまでまだまだかかりそうです。

間違えたところを塗ると完成にいたらないという点では恋愛もパズルみたいだなと思ったりします。
そんなわけで恋愛映画『クローサー』を観た(強引)。

主役はジュード・ロウ、共演はナタリー・ポートマン。
ナタリー・ポートマンはこの時本当に可愛い。『レオン』の時の可愛さとはちょっと違うけど、年齢的にも女性の中に幼さを残していて、奔放なところも役柄にあっていた。
それからジュリア・ロバーツとクライブ・オーウェンが共演。
この映画はナタリー・ポートマンがストリッパー役で、それで「だいぶ脱いだ」と話題になったらしいが(本編では全編カット)、観終わってみると、それを話題にするしかネタがなかったかなーという感じのお話。

世界的にヒットした舞台劇を映画化したらしいのだが、舞台の話をそのまま映画の世界に持ってきた感じがして(脚本が同じ人らしい)、そのせいか映画の物語としては破綻している。

というのは、ほぼ登場人物4人だけの関係で描かれる恋愛ドラマなんだけれど、舞台なら4人だけで進行するのもアリだし、そういう芝居はたくさんあるが、映画になるとすべての関係がこの4人の中だけで完結する、4人の中で話が進みすぎることにものすごい違和感がある。

恋愛映画というよりは、なんていうか、全員が「性欲の塊」みたいな印象を受ける。やたら哲学的な感じで恋愛を語るんだけれど、結局は小理屈、屁理屈みたいなことで、セックスしたか、しないか、みたいなところを重要視しているように思える台詞回しだったり、そういうことを重視した恋愛関係に見えてしまった。
ただただ「美女美男美女が集まったから、お互いにくっついたり離れたりしたよ」という話の印象しか残ってない。

それと、時間がやたらと飛ぶのも気になった。
次のシーンになるともう半年後とか1年後とか、その間に描かれなかった展開が(しかも結構な大進展が)あったことになっていて、その展開の仕方が「えっ?なんでそんなことになってるの?」と説得力がなくて、めまいみたいなものを起こした。端折りすぎだろう、と。

一番の元凶はクライブ・オーウェン演じるラリーで、この人の性格が問題だからすべてこじれたような気もするが、なんで、そんな人とジュリア・ロバーツが恋愛関係になったのか、彼にどういう魅力があったのか、というのがすっ飛ばされてるのでわからないまま(この役、すごい損な気がしたけど、ゴールデングローブ賞の助演男優賞取ってるので評価はされたんですね)。

結局、「愛」は移ろいやすいし、人の心って簡単に変わっちゃうってことなんだろうか。いろいろ求めすぎてはいけないのだろうか。嘘も秘密も含めてその人を受け入れろということなんだろうか。
男は迷いやすい。それは同意できるんだけど。最終的に寝たが寝てないかみたいなところに話が行くのがなんだかよくわからない。

多分舞台だと、恋愛関係を哲学的に解釈して、もってまわった口状でやるのもアリでしょうけど、広いロンドンを舞台にしているのに(他にもたくさん恋愛するきっかけがあるだろうに)4人だけで込み入った関係をやってる違和感だけが残った。舞台を観た人の感想をインターネットで見るとだいぶ舞台版は違うらしいんですけどもね。そういう意味では舞台版を観てみたい気もします。映画版は残念な感じでした。

ただこの映画のジュード・ロウは本当にカッコイイ!
だから髪型っていうか、はっきり言えば髪の量って大事だな、と本当に思った(あのジュード・ロウですら!)

「髪って大事だな」っていうことがわかる映画。

以上です。