ドラマティック

休みが変わって初めての週だった。
そのせいか、力配分がわからず突っ走ってきて、休み1日前の今日が終わってみてドッと疲れがでた感じがする。

そんなわけで、ブログも余力でなんとか書いている。
そこまでして書かなくてもいいのだろうけど、もう日記みたいなものだし、こういう「疲れたから」という理由で、毎日続けている習慣を終わらせたくない。もっとこう、途切れる時はドラマティックな理由がいい(それもできればハッピーな感じの)。

中田英寿がインタビューで「いつでも何かが変わる時はドラマティックな展開」だと言っていて、この考え方は面白いなと思ったことを思い出した。
つまりドラマティックだから物事が変わったのではなく、物事が変わったということに対して、ドラマティックだった、という感想を後から抱くのだ。
ドラマティックなくらいインパクトがないと「変わった」と気づかないのだから、「何かが変わる時はドラマティックな展開」というのは当たり前なのだ。
だけど、言葉になって初めてそのことに気付かされた感じがして、中田英寿はやっぱり物事の捉え方が違うなー、と尊敬する。

自分もここ1か月の間で色々な変化があったが、今考えるとそれもドラマティックな出来事がいくつかあってのことだな、と思い当たる節がある。
後になってわかることもある。つまり後にならないとわからないこともある。

人間万事塞翁が馬

ということなんだな、結局は(いいこと言った感)。

ハードデイズで風邪っぴき

鼻水が止まらなくなってきた。

2、3日前から風邪気味で、弱めの市販薬は飲んでいたけれど、ここにきてその風邪気味さのレベルが一段階あがった感じ。
そんなわけで強めの市販薬に替えてみた。

仕事の環境が変わったのと、休みが不定期だったのも原因だろう(あと寝不足も)。
気持ちでは疲れを押さえていても、身体は正直だなーと思う。

気温も急激に低下してきたので、皆様もお気をつけくださいませ。

『ロスト・ワールド/ジュラシックパーク』

『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』を観た。

『ジュラシック・パーク』の続編として期待されながら、その出来の悪さに酷評された、という触れ込みだったけれど、僕個人の好みとしては前作より面白かった。それは多分、人間たちが恐竜に立ち向かう姿勢が見られるからだろう。基本、大自然の中の生体を見るだけとか、襲われるだけ、みたいなのが好きじゃないのかもしれない。

20年も前の映画だからか、展開が間延びするところも多いが(とくにロープのシーンとかイライラした)、恐竜の怖さ(容赦なさ)をテンポ良く描いたパニックアクションとしては十分面白かった。殺され方も残虐さを直接見せるのではなく“ほのめかす”ような描写なのがスピルバーグっぽいとか思った。

これでこのシリーズで観ていないのは『ジュラシック・パークⅢ』だけになった。
ちゃんとシリーズ全作を観て、色々と書いてみたい。

ドタキャン

沢田研二がコンサートをドタキャンしたことが話題になっている。

自分もイベント主催の端くれとして「集客」という問題に関わる仕事をしているので、色々と思うところはある。
集客って本当に難しいんですよね。特に今の時代は情報が増えすぎてしまって、そこに埋もれてしまう、というのが一番大きな要因だと思うが、それを解消する良い方法も生まれていないのが事実。
結局、口コミ(それはネット上での誘いも含めて)が一番強いんだとは思うんだけれどね。

とはいえ、ジュリーに「友達呼んでください」とか「手売りしてください」とか言えないよね。規模がそういうレベルじゃない。
ジュリーはもう「ジュリー」という看板で売るしかない。そのアベレージがさいたまスーパーアリーナでは7000人だったということだろう。

7000人も集まったんだからやるべきだ、とか、たとえ一人でもやるべきだ、とかいう意見も多いけれど、今回のキャンセルについてはジュリーと主催者の信頼関係がなかったことが原因なんじゃないかなーと思う。
同じ7000人だったとしても、早くから説得したり、これだけ一生懸命やりましたという誠意を示したり、どうしてもジュリーにここでコンサートしてほしい、という熱意があればジュリーはやったんじゃないかなと思うのだ。
今になって考えれば、事務所とか主催者が「ジュリーが人数少ないとライブしたくないと言っています。このままだとピンチです。家族や友達を一人でも多く誘って来てください!」みたいなぶっちゃけツイートでもしておけばよかったんじゃなかろうか。

当日まで9000人いると2000人サバ読んで伝えていたこととか、座席をつぶして満席感を出したりとか、「満席にします」という約束をそういう姑息な手段で逃げ切ってしまったような印象を受ける(ジュリー側の話しか報道されないから、本当はわからない前提で書いてます。実際はジュリーが本当にワガママな人ってオチかもしれない)。

そもそもジュリーは、さいたまスーパーアリーナを満席にするポテンシャルが自分にはないとわかっていたんだと思う。だからやりたくなかったんだろう。
それでも「やる」という意欲をジュリーに持たせることができたら、少なくとも興行はできたんだと思う。

結局、最終的には、そういう主催者の熱意だとか、お互いの信頼関係がモノを言うと思っている。
それは自分が今まで担当してきたイベントの経験上ね。

今の世の中、集客って本当に水モノだ。
もちろんビッグネーム、ビッグスター、料金設定など、集客をプラスに見込める要素はあるし、それの積み重ねがベースにはなる。なるんだけど、こればっかりは「絶対に上手くいく」ことはほとんどない。
だからこそ興行は、演者と主催者(裏方)の信頼関係で成り立つのだ。

もちろん今後の自分への風当たりを考えれば(そして関係者の中で責任をとらされて人生が変わる人が実際にいるだろうことを考えれば)、ジュリーは舞台に立つべきだったと思うけれど、そんなことはジュリーだってわかっているはずだ。それでも舞台に立たなかったのは、彼の言う「アーティストとしての意地」だけではないのだろうと、イベント主催者の端くれとしては思うのだ(表に現れない結構な“切った張った”はあったはずだ)。

集客はもちろん大事。客席が満席になることが演者の最大のモチベーションであり、喜びであることは間違いない。でも、それ以外の喜びを、主催者が演者に持ってもらえるにはどうしたらいいだろうか。
そんな課題を考えつつ、この話題を見てしまったりしている。

答えはまだ見つからない。
でも考え続けましょう。

先走った行動

このブログでちょいちょい進行度をほのめかしていた『ピクロジパズル』ですが、このたびクリア制限がかかってしまった。

というのも、このアプリは時間による回数制限がないので、その気になればずーっとやっていることができる(逆に恐ろしいな)のだけれど、ひとつだけ制限のある問題があって、それを「ボスパズル」と呼んでいる。
これだけは1回クリアすると4時間待たないと次の問題がでないのだ。なので、「ボスパズル」については1日に3〜4問ぐらいしか進められない。

僕は、この「ボスパズル」以外の問題を全てクリアしてしまったようだ(コレクションを見ると間違いなさそう)。
なので、あとは「ボス」が出現したら倒す、というだけになってしまった。
オールクリアが見えてきた反面、ずいぶん先走ってノーマル問題をクリアしてきちゃったなーと、配分を間違えたことがちょっと残念。
数えてみたら、ボス問題があと123問残っているので、1日4問クリアするとしても31日かかってしまうのだ。
1度アプリクリアして、最初からやろうかな、とも思うが、まずはオールクリアを見てみたい。

だが。
実は、この1ヵ月以内にiPhoneの買い替えを企んでいるので、結局オールクリアを見ることができないのではないだろうか。なぜなら完全無料アプリのせいか引き継ぎ項目がないのだ。
iPhoneを買い替えたら、また初めからやり直しっぽい。

ノーマル問題を解くのは楽しいから構わないけれど、「ボス」の出現を待たなければいけないのが歯がゆい(単純計算で全問出るまでに40日程度かかるってことだからね)。

それでも、これまで全て理塗りでクリアできたというのは問題が良いということだし、絵柄も楽しかった。良いゲームだし、良いアプリでした。

続編も欲しいし、ナムコやカプコン、セガのゲーム題材でも出してほしいなー。800円落としきりでSwitchで出たらきっとずっとやってる。

そんなわけであとはボスを待つ日々ではあるけれど、早めにiPhone買い替えて、新しい端末でやり直しましょうかね。

映画『クローサー』

『ピクロジパズル』ですが、コレクション率71.6%まで来ました。

ついに難易度が「星5つ」になりましたが、まだ大丈夫、理塗り(勘ではなくて理詰めで塗っていくやり方)で解けています。
インターネッツで検索したら、イラストロジックというものはどんなに難しい問題でも絶対に「理塗り」できる、という意見もあったので、本当かどうか最後まで頑張ってみます。
ただこのレベルになると、僕の実力では塗り間違えをしてやり直すことが多くなってきた。そんなわけでクリアするまでまだまだかかりそうです。

間違えたところを塗ると完成にいたらないという点では恋愛もパズルみたいだなと思ったりします。
そんなわけで恋愛映画『クローサー』を観た(強引)。

主役はジュード・ロウ、共演はナタリー・ポートマン。
ナタリー・ポートマンはこの時本当に可愛い。『レオン』の時の可愛さとはちょっと違うけど、年齢的にも女性の中に幼さを残していて、奔放なところも役柄にあっていた。
それからジュリア・ロバーツとクライブ・オーウェンが共演。
この映画はナタリー・ポートマンがストリッパー役で、それで「だいぶ脱いだ」と話題になったらしいが(本編では全編カット)、観終わってみると、それを話題にするしかネタがなかったかなーという感じのお話。

世界的にヒットした舞台劇を映画化したらしいのだが、舞台の話をそのまま映画の世界に持ってきた感じがして(脚本が同じ人らしい)、そのせいか映画の物語としては破綻している。

というのは、ほぼ登場人物4人だけの関係で描かれる恋愛ドラマなんだけれど、舞台なら4人だけで進行するのもアリだし、そういう芝居はたくさんあるが、映画になるとすべての関係がこの4人の中だけで完結する、4人の中で話が進みすぎることにものすごい違和感がある。

恋愛映画というよりは、なんていうか、全員が「性欲の塊」みたいな印象を受ける。やたら哲学的な感じで恋愛を語るんだけれど、結局は小理屈、屁理屈みたいなことで、セックスしたか、しないか、みたいなところを重要視しているように思える台詞回しだったり、そういうことを重視した恋愛関係に見えてしまった。
ただただ「美女美男美女が集まったから、お互いにくっついたり離れたりしたよ」という話の印象しか残ってない。

それと、時間がやたらと飛ぶのも気になった。
次のシーンになるともう半年後とか1年後とか、その間に描かれなかった展開が(しかも結構な大進展が)あったことになっていて、その展開の仕方が「えっ?なんでそんなことになってるの?」と説得力がなくて、めまいみたいなものを起こした。端折りすぎだろう、と。

一番の元凶はクライブ・オーウェン演じるラリーで、この人の性格が問題だからすべてこじれたような気もするが、なんで、そんな人とジュリア・ロバーツが恋愛関係になったのか、彼にどういう魅力があったのか、というのがすっ飛ばされてるのでわからないまま(この役、すごい損な気がしたけど、ゴールデングローブ賞の助演男優賞取ってるので評価はされたんですね)。

結局、「愛」は移ろいやすいし、人の心って簡単に変わっちゃうってことなんだろうか。いろいろ求めすぎてはいけないのだろうか。嘘も秘密も含めてその人を受け入れろということなんだろうか。
男は迷いやすい。それは同意できるんだけど。最終的に寝たが寝てないかみたいなところに話が行くのがなんだかよくわからない。

多分舞台だと、恋愛関係を哲学的に解釈して、もってまわった口状でやるのもアリでしょうけど、広いロンドンを舞台にしているのに(他にもたくさん恋愛するきっかけがあるだろうに)4人だけで込み入った関係をやってる違和感だけが残った。舞台を観た人の感想をインターネットで見るとだいぶ舞台版は違うらしいんですけどもね。そういう意味では舞台版を観てみたい気もします。映画版は残念な感じでした。

ただこの映画のジュード・ロウは本当にカッコイイ!
だから髪型っていうか、はっきり言えば髪の量って大事だな、と本当に思った(あのジュード・ロウですら!)

「髪って大事だな」っていうことがわかる映画。

以上です。

ワークアウトアゲイン

久しぶりにジムへ行った。

いろいろ調べてみるとまるまる3ヵ月は行ってなかった。
そりゃあ、アレだよね(太るわけだよね)。

前に行ったときも「リハビリ」と称して、軽いワークアウトで済ませた感じだったが、今回もまた「リハビリ」的なものにしておいた(リハビリしかしてないな)。

数台のマシントレーニングと、30分のラン&ウォークをしてサウナとシャワーで終了。
久しぶりに体を動かすと、気持ちいい……まではいかないけれど、なんとなく健康的になった気がする。
意を決して(これまた3ヵ月ぶりに)体重計に乗ってみて、現実を突きつけられてみたりもしたが、今日をスタートとしてシェイプアップしようと心に決めたのだ。

帰ってきてからチョコレートがやたら食べたくて袋で食べてしまっているけれど、きっと大丈夫。
初めからストイックだと長続きしないって言うしね。

アイルビーバック

色々あって古巣の職場に復帰。

でも立場が変わったのと、もう“出来上がっている”場所に戻ったので「絶対にこれをやらなければならない」ということがまだ定まらず。
これから少しづつ自分でやること見つけないといけないと思う。それはそれで難しいことだけれど、やりがいがあるとも言える。

今後は自分の好きなようにやろう、とも思っているので、まずは自分のデスクまわりに個性を出してみた。写真立てを買ってきて好きな作家さんの絵(ポストカード)を飾ってみたり、マイ文房具を揃えたり、飴ちゃんを用意したり。
そんなことをしながら、まだ前に置いてきた仕事などをしていたらあっという間に一日が過ぎた。そして想像以上に疲れた(多分気疲れ)。

古巣復帰を喜んでくれる人が想像よりも多くて嬉しかったりもする。
あとは期待に応えられるように頑張っていこう。

『ピクセル』

『ピクロジパズル』ですが、コレクション率59.2%まで来ました。

難易度が「星4つ」というものになってきましたが、今のところノーヒントで、また勘に頼るのではなくきちんとロジックで解けているので楽しいです。
風呂場のタイルを塗りつぶしたくなるくらいに頭から離れなくなってきていて、ほとんど小学生の時にファミコンばっかやってたみたいな状況になっております。
前にも書いたけど、ドット絵とイラストロジックの相性はとても良いのだ。

さて、そんなわけで映画『ピクセル』を観た。
これもまあ、3Dドット絵みたいな形で描かれた宇宙人と、元天才ゲーマーがゲーム対決するというSFアクションコメディです(無理矢理なつなげ方)。

もちろんゲーム好きが作った映画なんだろうし、ところどころに小ネタが入るけれど、ゲームという対象に対する愛は『シュガー・ラッシュ』ほどではないなあという感想。その小ネタみたいなものがゲームファンにとっては面白いんだけれも、そもそもこれってゲームをネタにしながら「ゲームファン向けか」と言われるとそうでもないように感じた。
ナード(オタク)な主人公たちが、優秀な軍人たちを差し置いて世界(どころか地球の)平和を守る、という図式は痛快だけれど他の映画にも見られるし、そのオタクの愛の対象がこの映画では「ゲーム」という設定。
ただ、アダム・サンドラー主演という、アメリカとしては普通にA級ハリウッド娯楽作品かもしれないけど、日本ではB級コメディとしてビデオスルーで扱われてしまいそうな作品なのに、普通に劇場公開されたのは、やはり日本生まれのゲームを題材にしているからだろう(それにしてもアメリカのアダム・サンドラー好き、ウィル・フィレル好きは理解できないんだよなー。ベン・スティラーの魅力はなんとなくわかってきた)。CGのレベルも高いし、お金かかってる感じはするけれど、どことなくマイナーな雰囲気なのは、いわゆる日本にやってくる「大作」よりは少し格が落ちるからだと思う。

宇宙人が「ギャラガ」で攻めてきて、「アルカノイド」で追撃されるのはわかるけど、その次の攻め方(最初の対決)が「センチピード」という日本人では決して流行ったと言えないゲームなあたりが、アメリカで人気のあったビデオゲームなのかな、と文化の違いを考えると面白い。「パックマン」や「ドンキーコング」がきちんと対決に入っているのは良いですな。
そして想像した通り、絶対にQバートが出る!
アメリカ人はゲームといったら「Qバート」なんだろうか。

話としては面白かったし、思い返すと、その「面白かった」にはゲームネタが面白かった、というのも多分に含んでいる。オープニングの自転車で疾走するシーンなんかはもう「ペーパーボーイ」のオマージュだろうと想像したり(後半、敵で出てくるしね)、“あの犬”が登場したり、そういう小ネタを探しながら見るとより面白い。
そうじゃなくても、元のゲームのルールさえ知っていれば(知らない人のために劇中でなんとなく説明しながらやっている)、単純明快で楽しめる健全なファミリー娯楽映画。
軽ーい感じで楽しい気分になりたい時に観るのがオススメ(レンタルDVDでね)。

区切り

この1年、本当に色々あった。

人生において、もっとも「ダメだー」と思った日もあった。
周りの人には大変ご迷惑をおかけしました。
そんな日々が、今日、ひと区切りついた。

こういうことは、なかなか簡単には終わらないようになっていて(それはそれで人生ってドラマチックだなーと思うが)、ラスト3日で想定外のトラブルが立て続けに発生したりもした。でも、それもなんとかこなして、今日という日を終えた。

そして僕はひとつ役割を終えた。

明日一日休んで、明後日からは新しい役割を持つことになる。
それをやりきる自信はまだないけれど、やろうと思う気持ちはある。
非常に抽象的で、僕にしかわからないブログだけれど、毎日更新しているのだ。たまには備忘録的なものがあってもいいだろう(ほぼ備忘録のような気もするが)。

これからは幾分、好きなように、大胆にやろうと思っている。
そういうのがこのブログでも出てくれば、まあ、この1年も意義があったと思えるだろう。

そんなわけで、今後とも、このブログをよろしくお願いいたします。
当面はゲームばっかりやってるんでやっつけ更新になりそうだけどね(結局それかよ)。