追いかけて仙台 後編

そしていよいよ入場開始。

それまでの模様はこちらで
→「追いかけて仙台 前編

ホールの中に入って気づいたのは、ステージに対して半円を描くような席配置になっているので、僕ら3階席でもステージが近く、また見やすいということ。

僕らがTrySailのライブに行こう、となった時、行き先としてはここ仙台と名古屋を選ぶことができた。
名古屋はこのツアーのファイナルだったので(のちに幕張の追加公演が決まって、幕張が本当のファイナルになったけれど)、江戸川台ルーペは友人から「名古屋にすればよかったのに」と言われたらしい。
確かにそうだ。

トリキで参加会場を決めたときは、そこまで頭が回らなかったのだけれど、ツアーファイナルは演目や盛り上がりも違うのだから、確かに名古屋のほうが良かったのかもなー、という思いがここに来るまで、正直少しあった。
でも、いざこのホールに入って自分の席についた時、「ここを選んで良かった」と確信めいたものを感じた。会場の規模も雰囲気も、ステージと観客が一体になれる予感がしたのだ(もちろん名古屋に行ったら行ったで、それはそれで楽しかっただろうけどね)。
そんなわけで、否が応でも期待が高まり、開演まで40分ぐらいそわそわして待っていた。
左となりの席が女性で、僕が公演中に盛り上がりすぎて邪魔になったら申し訳ないなー、とか、少し距離を保ったほうがいいかなー、とか、そういうのも若干意識してしまった(大丈夫そうでした)。そばにはカップルのファンもいて、改めてTrySailファン層の幅広さについて考えたりしているうちに、ついにライブが始まった。

そして始まってしまえば、時間は一気に過ぎる。

内容は、すでに書いた通り「控えめに言って最高」だった。
ミスやハプニングもあったが、そういう不確定要素も含めてライブの楽しさを満喫できた。

僕の席からは1階席のファンの姿も見られたので、1階席の人たちの動きというか、ブレード(=サイリウム=ペンライト)の振り方とか、ノリ方をチェックしたりした。あとPAブースの位置とか、関係者の動きとかもそれとなく目に入ってしまう。
なんというか、こういうときに「主催者目線」で見てしまうのは、なんだかんだ職業病だと思う。このライブに比べて、自分が関わるイベントは(良くて)10分の1の規模のものではあるが、参考にできることはあるし、なにより、どういう部分をお客さんが一番楽しんでいるんだろう、と気にしつつ鑑賞してしまった(それが僕の良いところでもあり、残念なところ)。

僕らの斜め前に、ライブの大先輩らしきファンの方がいて、その人はブレードを持っておらずに自分の身体全身でノッていて、レベルの違いを感じた。
ファンもレベルがあがると、道具に頼らなくなるんだなと痛感する。
(揶揄する意味でなく)なんというか発光するものを持っていなくても、“存在感”というか、出しているオーラ自体が発光しているような、そういう雰囲気をもっていた。それでいて周りの邪魔にはならずに(節度をもって)楽しんでいるのがわかる。
僕は多分、その域にはなれないと思うが(だってブレード振るの超楽しいんだもん)、ここまで「好きなものがある」というのは素敵なことだし、その想いに一点の曇りもないあたりが本当に素敵だと思った。
対して自分の想いの中途半端さよ(TrySailのことだけではなくて全てにおいてね)。
こういう楽しい場で楽しい時間に身を置きながら、一歩引いてそういうことを考えてしまう自分がいた。
真面目すぎんのかもな。

そんなこんなで約2時間のライブはあっという間に過ぎた。大量のエネルギーに“のぼせて”しまうのではないかと心配していたが、逆にエネルギーをもらえた感じ。
たぶん、うまくエネルギーの波に乗れたということなんだろう。「好き」という思いが同じなら、波長があうのかもしれない。
集中力もトイレもぜんぜん平気で、あと1時間続いても余裕でついていけたと思う。そのぐらい楽しい、あっというまの“祭り”だった。

“最高オブ最高”だった祭りが終わり、江戸川台ルーペは、衛星放送かと思うぐらいに会話が遅延するほど、しばらく放心状態だったりしたが、お互いに「楽しかった」「最高」を連発し、その想いをさらに発散するために駅前の飲み屋で打ち上げ。

たぶん飲みの間、TrySailのことしか話してなかったと思う。

好きなものがあって、それについて語って想いを共有するのもまた楽しい、ということを改めて思う。
そういう意味では、江戸川台ルーペにとって、僕がその“共有できる相手”になるとは(しかも付き合いで話を合わせるのではなく、ちゃんと「話したことを理解できる」相手になるとは)、TrySailのライブに誘った42には考えられなかったことだろうし、僕の変化に一番驚いている人物ではなかろうか。
だって、彼に誘われたとき、僕は「TrySailって何?」「それ誰?」というレベルだったのだから。
それから3カ月(正確には2カ月と20日)で、イントロを聴いてほぼ全ての曲名を言えるほどCDを聴きまくったり、ライブブルーレイでコールするタイミングの予習をしたり、返品してまで「声優アニメディア」を買った経験は、20年来の友人と新たな共通の話題を手に入れられたという意味でも、その甲斐はあったというものだ。

友達だからといって、そう簡単に「共通の好きなもの」ができるわけではない。だから彼としては、僕が「付き合ってくれてる」感がまだあったのかもなー、と旅が終わった今、思ったりする。なんとなく、この旅行中、僕に気を使っていたような感じがしたのはそういう理由からかもしれない。
だけど、僕は自分自身ではかなりガチなTrySailファンになったと思うし、TrySailの存在を教えてくれた江戸川台ルーペには感謝しているのだ(と、この場を借りてお礼しておきます)。
まあ実際は「ミイラ取りがミイラになった」っていう状態ではあるけれど(使い方あってる?)、あの日のトリキで「サイリウム振りたいっす」と言われた時に、「じゃあ行こう!」と応えなければ、僕らがこうして仙台にいなかったことを考えると、未来は本当に予測がつかないし、なんというか「明るい未来」っていうのも、自分次第でいくらでもつかめるんじゃないかと思える(言い過ぎ?)。

で、23時頃飲み屋を出て、その後ホテル前のミニストップでビールとハイボールとチューハイとワイン、おつまみもろもろを買い込み、部屋で飲みの続きをしながら1stライブの映像に合わせてブレードを振った。
ライブのと、飲み会のと、二重の意味での二次会。
今日のライブでできなかった「ホントだよ」と「センパイ。」のコールもやった(馬鹿)。
結局僕らの“祭り”は朝の3時まで続いた。
こんなに起きてたの久しぶりだし、よく起きていられたな、とも思う。テンションって身体の限界を超えるのかもしれない。

 

翌日は昼の新幹線で帰るので、遅めに起床して、駅でお土産を物色。
僕が実家から要望されたお土産と、江戸川台ルーペが奥さんから要望されたお土産が同じだったのが地味に面白かった(ちなみに支倉焼です)。
お土産を買っても時間は余ったので喫茶店で時間をつぶし、短いけれど仙台滞在は終了。

支倉焼

帰りの車内は、喪失感と疲れからか、二人の会話はほとんどなかった。
黙って二人で同じタイミングで弁当を食べ始め、同じタイミングで食べ終わったのが印象的だった(ちなみに僕が食べた「牛肉どまん中」という山形のお弁当はとても美味しかった)。

これと言った会話はなかったけれど、とにかく「すごい楽しい時間だった」というものは共有していたと思う。
僕は、そういうことを話したら、なにか大切なものがこぼれ落ちてしまうとも思った。

それから僕は仕事に向かったのだが、疲れにも関わらずちゃんと働けたのは「楽しい疲れは後に残らない」という説の実証だろう(でも、ブレードを振った右手が無事だったのは、寝る前に湿布貼りまくっておいたおかげだと思う)。

そんな旅が終わって、また平常の日々が戻った。
実を言うと、飲んでいる時に「幕張の追加公演に行こう」という話もでた。
2dayの初日なら行ける日程だったからだ。飲みの勢いで、申し込みボタンを押す直前まで行った。
ただ、旅行から帰ってきて、結局それはとりやめになった。
初日の演目はファイナル公演ではないので、内容的に今回とあまり違いはないだろうということと、会場のキャパシティが仙台の約2000から7500に膨れ上がるので(ちなみに名古屋は3000)、今回以上のものは得られないだろうということがその理由だ(それでも行ったら絶対楽しいんだけど)。
ツアーファイナルに行けるのだったら、ステージが遠かろうがなんだろうが参加したのだけれど、その日は僕自身が主催のイベントがある(司会もする予定)。さすがに自分の仕事をうっちゃってまでは行けない。
規模は小さいけれど、僕も、僕のイベントを楽しみにしてくれる人たちのために全力を尽くさなければならない。それは末端とはいえ、同じくイベント業に身を置く僕の挟持だし、守るべきものなのだ。
そうやって、自分のできることを積み重ねていけばこそ、次にTrySailのライブに行ったときにも、全力で楽しめるんだと思う。

このライブに参加する前と後で、僕の考えにちょっとした変化があったことも確かだ。
とにかく楽しいことをたくさんやろうと思う。楽しそうなことに積極的に参加していこうと思う。

人生は短い。
ましてや僕は不惑を超えて、折り返し地点を過ぎてしまっているのだ。
後悔するより、悩むより、前に進もう。
そういう思いを強くした二日間だった。

またあの“最高オブ最高”のライブに参加する時に、今よりも(いろんなことに)自信をもって臨めるように頑張りましょうかね。

それはきっと遠くない気がする。

仙台は桃色に染まり、青く燃え、そして黄色い光が射した

TrySail仙台公演。控えめに言って最高だった。

あらかじめライブブルーレイを1st、2ndと3回ずつ観て、さらに最新アルバムを聴きまくって予習をしておいたので、ソロ曲以外は全部口ずさめた。
何事も準備が大切だと改めて思う。
Twitterを見ると、このソロコーナーで歌われた曲はこのツアーで歌うのが初めてのものばかりで、とくに天ちゃんの「VIPER」は本邦初公開。
そういう点で今回の仙台公演は「神セトリ」だったようだ(その辺りが共有できないあたりがまだニワカの証)。

それにしても、ブルーレイのファイナル公演も素晴らしいけれど、それとはまた違った、地方公演ならではのファンサービス的な演出しかり、会場のサンプラザホールのステージを包むような半円形の構造しかりで、ライブ感というか、ステージと客席の一体感は想像以上だった。

僕らは3階席2列目、中央やや左という位置だったが、肉眼でも十分3人が見れた。オペラグラスも持っていって2回ほど覗き込んで表情も見られたけれど、なくても後悔しなかったと思う。
あとチケット確認した時は「1列目が良かったなー」とか思っていたけれど、2列目だったおかげで、前の諸先輩方の“ブレード”(サイリウムね)の振り方が参考になったし、しっかりステージも見れたし、TrySailライブ初参加の僕らにとっては、そういう点でもベストな席位置だった。

これ以上を望むのは罰当たりとは思うが、欲を言えば、掛け合いのある曲をせめてあと1曲は欲しかった(具体的には「センパイ。」か「ホントだよ」のどっちかはやってほしかった)。
アンコールの抽選曲が「Baby My Step」だったから良かったものの、コールアンドレスポンス的な曲をもうちょっと聴きたかった(声出したかった)。

ただ、TrySailのツアーも3年目となり、それぞれのソロ活動の比重が増えてきた今、このユニットを今後どう続けていくかという課題を踏まえると、「聴かせる曲」を多めにしてアーティスト路線を探るという方向性はわかる。ツアー終了後に反応を見てまた来年以降の方向性を考えていくのだろう。
その辺は彼女たちの成長に期待して待とう。

とにかく、仙台公演は3人のやりとり(駄々こね!)や、もちょの誕生日(6/25生まれ)を祝って会場全員でハッピーバースデーを歌うなど、色々な意味で貴重だったし、初参加が仙台で良かったということでも、出だしに書いたように控えめに言って最高オブ最高だった。

このライブに関わった全ての方々、お疲れさまでした!
そしてありがとう!

きっとまた行くので、その際はご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

飛躍 「石神井Int’lオーケストラ 第6回定期演奏会」

石神井インターナショナルオーケストラ(石オケ)の定期演奏会に行った。

これで6回目となる演奏会だが、振り返ってみると、練馬区に所属する石オケなのに、これまでの定期演奏会を「ホームグラウンド」の練馬で行ったのは、これで2回目。第2回の演奏会以来だ。
場所は同じ練馬文化センターだが当時は小ホール。今回は大ホールでの公演で、それは堂々の凱旋公演と言えよう。

僕は本公演開演ギリギリで到着したのだが、空席が見当たらないほどの客入りで、1曲目の「ホルベルク組曲 OP.40」(E.グリーグ)は立ち見で聴くことになった。
このホルベルク組曲の第1楽章が本当に良かった。
広い舞台に劣らない音の厚みがあるのは、チェロ、コントラバスという低音弦の充実と共に、団員が舞台の大きさに臆さず堂々と演奏できていたからだろう。

第1楽章が終わったときに、拍手がおこった。
楽章間では拍手をしないのが約束事となっているが、おそらくそれをわかった上でも、拍手を送りたかった人が多くいたからだと思う。
ここで拍手をするのが、当然なぐらい素晴らしい、そしてこれから今日の演奏会への期待をさせる第1楽章だったからだ。

この曲は特に第1ヴァイオリンが素晴らしかった。
ピチカートの部分などは、音も揃っているし、弾く動作もそれぞれ少しずつ個性がありながらも姿が揃っていてとてもカッコよかった。

 

続いて、イリノイ大教授で、5弦ヴィオラの奏者ルドルフ・ハケン氏を迎えての「5弦ヴィオラの為の協奏曲」(ルドルフ・ハケン)。

この曲を理解して弾くのは大変だったろうと思う。
作曲者自らがソリストを務めるので、曲の世界観を教わることは可能だったはずだが、それを理解し、かつ共有するのでは話が変わってくる。
この曲はカントリーっぽいものからジャズっぽいところ、ハリウッド映画の劇伴のような部分など、アメリカ大衆娯楽の歴史を感じる楽しい曲ではあるが、その分、ひとつの曲としてまとまらせるには力の入れ具合、さじ加減、ソリストとの意思の疎通といったものを演奏中に行わなければならないのだ。
それでも、この曲の肝といえる「アメリカ的」な音楽性をきちんと感じさせられ、ソリストのハケン氏とオケの掛け合いのなどのコミカルな部分は聴くこちらも楽しい気分になった。

他の曲と違い、この曲はこの場で初めて聴く人ばかりだったはずだが、事前知識なしでも楽しめる曲だった。

 

休憩をはさんで、ジョン・ケージ「4分33秒」に入る前に、音楽監督の西谷国登さんによるクラシック音楽の歴史(バロックから現代曲まで)のミニレクチャーがあり、プロ奏者4人のアンサンブルも楽しめた。ホルベルク組曲の第5曲でも、安藤梨乃さんと手塚貴子さんのソロがあったように、「アマチュアオケの演奏を聴きにいって、プロの演奏も聴ける」というのは、石オケの強みだと改めて思う。

さて、「4分33秒」。
3楽章全てが休符、つまり無音で演奏される(と言っていいのだろうか)この前衛的な曲は、人の数だけ解釈がある。初めて聴く僕が感じたことは、演奏者にとっての休符とは、己を見つめる時間なのではないか、ということだ。
聴衆を前にしているのに無音、というのは演奏者にとっては恐怖だろうし、ましてや楽器を手にしているのだ。それなのに、曲が始まっても休み続けるという行為はかなりの苦行である。
指揮者も当然、指揮をしたくなるだろうし、演奏者は音を出したくなるだろう。その衝動と戦う葛藤が舞台から感じられた。それは3楽章制であるこの曲の楽章間の「休み」と、演奏中の「休み」が目に見えて違うのがわかったからだ。
演奏者にとっては弾く以上に休むほうが疲労を覚えるのではないかと思うし、弾きたいという欲求を抑え込めるギリギリのラインがこの“4分33秒”という時間なのかもしれない。
その点で、この曲を傑作ととらえるか駄作ととらえるか、考え方が変わってくるのだろう。いずれにせよ(5弦ヴィオラを組み込んだ4分33秒としても)この演奏に立ち会えたことは貴重な経験となった。

 

最後の曲は、チャイコフスキーの「弦楽セレナード ハ長調 OP.48」。
印象的なフレーズ(「オー人事」のアレだ)がいくつも折り重なる壮大な第1楽章に始まり、華やかな第2楽章につながる。後半にいけばいくほど、しっかり弾かないとダレてくる曲で、普段このオケのトップで演奏しているプロ演奏家たちが最後列にまわるという配列で演奏された分、団員は他の曲以上にプレッシャーや不安があっただろう。
第4楽章で、低音部(チェロ、コントラバス)がフレーズを主導する部分があるのだが、最初はその不安さが音に乗ってしまったのがわかった。しかし、その直後のフレーズで他の3パート(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ)がしっかり支えたことで、立て直し、2度目以降の同フレーズはぐんと良くなった。いつもであれば支えてくれている低音部へのエールのように感じられ、こうやって曲の中でオケ同士が励まし合い、支え合う姿に感動したし、プロを後ろに控えさせながらも、そういうフォローができることに成長を感じた。

 

そしてアンコールはS.バーバーの「弦楽のためのアダージョ」だが、この曲は今までのアンケートの中で、「弾いてほしい曲」で最もリクエストの多い曲だったそうだ。
今回の演奏は、そのアンケート回答に応えたことになる。

 

「応えること」。

それが市民オケの役割だと思う。

今回多くの客席が埋まったのは、石オケが「みどりの風 区民コンサート」や「練馬ユニバーサルコンサート」など、要望に応えて、地元に密着する舞台で演奏する市民オケとしての道を確実に歩んできたことの証だろう。

石オケの団員が地元の人から愛され、同じ舞台にあがることが音楽愛好家の憧れとなり、聴衆の期待に応える存在になる。

その価値が今のこのオケには十分ある。
舞台にあがるメンバーも観客も顔見知りの多い、いわゆる“おらが”オーケストラから、広く音楽好きの地元人たちから支持される“市民のオーケストラ”として受け入れられたのを感じて、僕は終演後、しばらく動けなかったほどだ。
昨年「市民オーケストラ」のスタートラインにたったばかりに思われた石オケが、1年でここまで辿り着いたことに、正直驚きを感じている。
それは初期から応援してきた自分にとって嬉しく誇らしい反面、自分の知っているオーケストラが手元から離れてしまったような、一抹の寂しさもある。

ただ、これから高いレベルで、そしてより大きな様々な舞台で演奏をし、多くの人から受け入れられるためには、通らなければいけない道でもあるのだろう。

来年の演奏会は再び練馬を離れ、杉並公会堂大ホールが舞台となるそうだ(2020年6月20日)。団員の方々には、今回の地元公演を踏まえ、「練馬区に石神井インターナショナルオーケストラあり」という姿を、他の地域の音楽ファンに届けるチャンスと捉えてほしい。そして聴衆の方々はその日をぜひ楽しみに待っていてほしい。

より多くの人に、石神井Int’lオーケストラの音楽が届くことを願っている。

西谷国登&新納洋介 デュオ・リサイタル

ヴァイオリニスト 西谷 国登とピアニスト 新納 洋介のデュオ・リサイタルが開催された。(at ヤマハ銀座コンサートサロン)

前回の西谷さんのリサイタルでは、新納さんのピアノは伴奏という役割が強かったが、今回のコンサートの趣向はピアノのソロ曲とヴァイオリンのソロ曲を揃えて、交互にソロを弾く、という、いわばダブル主演という形をとるということ。
ヴァイオリンもピアノも楽しめるのは贅沢だが、演奏者(とくにピアニスト)にとっては気の抜けない構成と言える。

1曲目の ファリャ作曲/クライスラー編曲 歌劇「はかなき人生」よりスペイン舞曲 は、ヴァイオリンのテクニックが詰まった曲で、西谷さんの手元の動きと、そこから奏でられる音を聴くことで、ヴァイオリンを弾けない僕にでも「すごいことやってるなー」というのがわかる。舞台が室内楽サイズのため、技術が間近で見え、よりその凄さが感じられた(このあたりは選曲の妙だ)。

続いてピアノのソロ。
次のヴァイオリンソナタへつなぐ意味もあってか、 グリーグ作曲「トロルドハウゲンの婚礼の日」op.65-6 を演奏。
新納さんのピアノソロを初めて聴いたのだが、ヴァイオリンリサイタルで感じた、ていねいさの中に遊び心のある演奏はそのままに、さらに男性ピアニストらしい大胆さと音の厚みがあって、ピアノの性能を120%ひきだすような演奏だった。

そして前半の最後は グリーグ作曲 ヴァイオリンソナタ第3番ハ短調op.45。

今回のコンサートが“ダブル主演”であることを意識したのか、たとえヴァイオリン・ソナタであっても、新納さんが前に出るというか、主張の強い演奏をしているように感じた。
それは「室内楽」というサイズならではなのかもしれないが、ヴァイオリンリサイタルのように裏方に徹して支えるというだけでなく、時には競いながら、時には寄り添いながらといった、ヴァイオリンとピアノの攻防のような印象をもった。
西谷さんも時にそれを受け止め、時にピアノを引き出し、なおもヴァイオリンの音色と混ざり合わせ、曲を昇華させていく。

二人のコンビネーションが2回のリサイタルと2枚のCDで結実してきたからか、あるいは室内楽的な場だからか、ともすれば、ヴァイオリンソナタという形式では「伴奏」として没個性となってしまうピアノ演奏を、新納さんは、ピアニストにしかわからないマニアックな魅力だけでなく、ヴァイオリンと渡り合うことで、この曲におけるピアノ自身の魅力を十分に披露していた。
そして西谷さんのヴァイオリンもそれを承知の上で「ヴァイオリン・ソナタ」という定石を守るようにコントロールしていく。
それは決して主導権を握り合うといった争いではなく、お互いの信頼関係の上で成り立つ、熟練した達人の演舞を見るような感覚だった。

あるベテラン俳優はセリフを脚本通りにせず、内容に沿いながらもほぼアドリブで芝居をするそうだ。それに周りの役者がどう反応するか、どう絡み合って、それでも筋書き通りに話を進めていくのか、といった勝負のような、知的ゲームのような高度なやりとりをしていると聞いたことがある。
音楽は、特にクラシック音楽は楽譜通りに演奏するのが定石で、それを崩してしまっては邪道になる。「定石通りではつまらない、崩しすぎると白けてしまう」というジレンマの中で、西谷さんと新納さんが、お互いの力量を信頼した上で、クラシックから逸脱しないギリギリの丁々発止の演奏が行われた。

西谷さん自身もリサイタル直前のブログ

新納さんと演奏することは、特別楽しく熱いです!自由に演奏させてくれるだけではなく、奏者の良さを色々と引き出してくれます。そして、伴奏に徹しているわけではなく、新納さんも色々と仕掛けてくださるので、音楽のキャッチボールが見事に出来てる感じで面白いです。観ている側もそう思ってもらえればと思います。

と書いているように、演奏者達の狙いどおり、聴いているこちらも、心地よい疲れが出るような素晴らしいヴァイオリンソナタだった。

休憩をはさんで、新納さんのソロは ブラームスの6つの小品op.118より第2曲。

演奏前に、新納さんから、もともと予定ではショパンを演奏する予定だったが、ピアニストにとってショパンとリストは特別な曲で、それを弾いてしまうと、その後はもう弾けない、というぐらい神経を使うらしく、この曲に変更したというコメントがあった。
これはとても興味深い。考えてみれば当たり前のことだが、演奏者は、力加減やペース配分を考えて演奏会のプログラムをつくる。
新納さんにとっては、自身のピアノソロと、ヴァイオリンソロの伴奏、ヴァイオリン・ソナタの演奏と、これだけ盛りだくさんの内容に加えて、ここでショパンを組み込んでしまうと、演奏のレベルが保てない、ということだろう。
聴く側はあれもこれも演奏してほしいと思うものの、高いレベルの演奏で楽しませるためにプログラムというものがきちんと決められているんだな、と改めて考えさせられる。

ピアノソロに続いての ブラームス ヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調では、グリーグでの競り合いから少し抑えめに、そのゆったりとした曲調も手伝って正統派にまとめていた。「緩急」で言えば、今回のプログラムの「緩」を担ったヴァイオリン・ソナタらしいまとまった演奏だったと思う。

そのあとに、ラフマニノフの曲を3曲ソロで弾いた新納さんだが、この時はまさに圧巻だった。
最初の 楽興の時op.16より第3番 の時から、曲の世界に浸っているのはわかったが、 前奏曲集op.23より第6番 でさらにエンジンがかかり、続く 第2番 では、鬼気迫る熱演。
新納さんがピアノを弾いて曲を歌っているというよりも、ピアノ自身が歌っているように聴こえる不思議な体験をした。
トークのときは、その人柄か、素朴で控えめに話すのに対して、ピアノでは雄弁に語る、むしろピアノに語らせる、ピアノ自身が歌っているように錯覚させる演奏を初めて聴いた。聴いているこちらにも緊張が走るような熱演。
とても良いものを聴けた。

そしてプログラムの最後を締めくくるのはサラサーテ作曲の カルメンファンタジーop.25。

西谷さんから演奏前に説明があったように、この曲には様々なヴァイオリンのテクニック、それも「超絶技巧」と呼ばれるものが多く使われている難曲。この曲を2時間近くの演奏会の最後にもってくるのだから、二人の力量の凄さとお互いの力量への信頼度がわかる。
その説明どおり、ヴァイオリンという弦楽器ひとつで、これほどの表現が可能なのだ、ということを見せられた(文字通り“視覚的に”)。
実際にヴァイオリンを弾く人は曲を聴いただけで、そこに使われているテクニックがわかるのだろうが、実際に見て、改めてその技術の高さが分かる曲。
西谷さんの左手の動き、弓の動きひとつひとつが演奏者にはお手本となり、聴衆には超絶技巧として楽しめる。
これこそ西谷国登というヴァイオリニストの真骨頂だと感じさせた。

テクニック曲で始まり、それを上回るテクニック曲で終わる。
そういった趣向も含まれたリサイタルだったと思う。

さて、アンコールにもふれておきたい。

本コンサートが、テクニックで魅了して終わったのに対し、アンコールは、西谷氏と新納氏の二人の“競演”のエクストララウンドといった様相だった。

「愛の挨拶」では、新納氏の楽譜が見当たらず、“愛が行方不明になる”というハプニングもあったが(無事、ステージ裏で見つかった)、ここでも最低限の約束事は守りつつ、お互い自由に弾き合うという演奏で、生演奏でしか体験できないものを聴かせてもらった。

その意向をさらに押し出したのは、ダブルアンコールの「好き勝手チャールダッシュ」。
これは、クラシックというよりジャズの感覚に近く(ジャズアレンジという意味ではなく)お互いが、この曲でどれだけ遊べるかにチャレンジした演奏。
プロ同士なら練習中にこういう遊びをするんだろうな、と思うが、それを観客の前で披露して、しかもきちんと楽しませるというところが二人のプロフェッショナリズムなのだろう(もちろんアンコールだからできること、と、チャールダッシュは誰もが聴いたことがあるだろう、ということも計算済みで)。

とにかく2時間、ただ「良い演奏を楽しんだ」という以上に「二人が作る世界に引きずり込まれて参加してきた」といった感じのリサイタルだった。
次回、二人の演奏を聴く際には、聴衆もその世界に引き込まれる覚悟が必要かもしれないなと思える、録音では得られない、まさにライブの楽しさを最大限に感じる圧巻のデュオ・リサイタルだった。

人生の先輩に教わること

ジャズピアニスト 新井栄一さんのプロデュースするシニアジャズバンドのコンサートに行ってきた。
題して「トワイライト(黄昏)コンサート」。

新井さんには大変お世話になっている関係で、シニアバンドとソロの発表会コンサートには何度かお誘いいただいている(前回は自曲を歌わせていただいていたりもする)。

いつも思うことだが、もう還暦はおろか古稀や喜寿を迎えているような方々の演奏である。人生の先輩が演奏している姿はとても素敵だ。しかも一人の人がピアノ、ベース、ドラムと複数の楽器を演奏するのだ。
これは新井さんの教育方針でもあるらしいが、楽器を複数練習することで、曲やセッションに対する理解度を体感で覚えさせる意味があるようだ。

人生の大先輩たちが、懸命に演奏する姿はとても素敵だ。
正直、上手い人もいれば下手な人もいる。ただ誰しもさすがに年の功、度胸があるというか、物怖じせずにひたむきに曲に打ち込んでいる。しかもちゃんとバンドメンバーの音を感じて、自分の入りや力配分を考えて弾いている。

「新井栄一と時代屋」というレジェンドクラス揃いのジャズマンたちがサポートしてくれる安心感はあると思うが、音楽と向き合う時、アマチュアもプロも関係なくなるのだな、とつくづく思う。
音楽を前にすれば年齢も性別も経験も関係なくなる。ただ、真摯に向き合っているかどうかは見透かされてしまう。
それはちゃんと自分の人生が音楽に載っているかどうかだ。

その点、このシニアミュージシャンたちは皆が、自分の人生を音楽に載せて奏でていた。ある人は控えめに、ある人は大胆に。
そして聴衆もその音楽に自分の人生を少し重ね合わせている。だから、その場はすごく幸せな空間になるのだ。

僕も音楽を嗜む端くれとして、強い影響を受けたコンサート。
自分も音楽に真摯に向き合わないといけない。

「クニトInt’lユースオーケストラ 第5回定期演奏会」

石神井Int’lオーケストラ定期演奏会と同じ日に、姉妹オケであるクニトInt’lユースオーケストラの定期演奏会も行われた。

聴いた感想をひとことにすれば、
はっきり言ってこれは「子どものオーケストラ」ではない。

団員は小学生以上高校生以下。ほとんどが小中学生であるが、いわゆる「小さな子が頑張って演奏している」演奏会ではないのだ(もちろん、そういう可愛らしさもあるが)。

第1部の「セントポール組曲」と「シンプルシンフォニー」。
合奏曲としてはさほど難しくない曲なのかもしれないが、ただ楽しんで弾くだけでなく、しっかり大人の演奏、つまり指揮者に求められるレベルの音を出そうと、皆が真剣に弾いているのだ。
もちろん石オケからの賛助メンバーやプロ演奏家である講師が音楽的な支えとはなっているのだろうが、その存在に決して甘えることなく自分の演奏に徹する団員たちの姿からは「子ども」と「大人」を区別することはできない。
「ステージに上がった以上はすべての演奏家が対等」というようなことを考えさせられた。

音楽監督・指揮者の西谷国登さんも、演奏前に声がけをしてモチベーションをあげたり、団員の緊張をほぐす間をつくったり、と石オケよりもアプローチの仕方を増やしていたけれども、曲が始まってしまえば遠慮なく指揮をふる。
団員を「子どもとして」ではなく、きちんと「いち演奏家」として扱う姿は、このクニトオケの子どもたちの音楽的成長に大きな影響を与えるだろうと思った。

 

そして世界で活躍するピアニスト、ジャスミン荒川さんと共演できたことも、大きな影響を与えただろう。
曲はリストの「ピアノ協奏曲 第1番」。
3楽章制のアレンジだったが、団員も最後まで集中力を切らさずにジャスミン氏の演奏を支えた。
そして、ジャスミンさんの演奏は圧巻のひとこと!
まさかアマチュアの(しかもユースの)オーケストラでこういう演奏を聴けたというのは、聴衆にとっても嬉しい驚きだったに違いない。

西谷さんが「超一流の腕前」と絶賛するピアニストと一緒に演奏する機会を小さいうちから得られたことは、貴重な財産であり、贅沢な経験だろう。今は、その意味がわからない団員もいるかもしれないが、年齢を重ねて演奏を続けていく中で、この経験が生かされる時が来るはずだ。

 

アンコールの「ホルベルク組曲」まで変わらぬ「大人の顔」をした演奏を続けたクニトInt’lユースオーケストラの団員たち。
このメンバーたちが音楽的に、そして人間的にどう成長するのかも楽しみになってくる。そんな演奏会だった。

次なるステージ 「石神井Int’lオーケストラ 第5回定期演奏会」

第5回目を迎えた、地元、石神井Int’lオーケストラ(石オケ)の定期演奏会。

去年の演奏会を聴いて、4年かけたフェイズ1を終えたと僕は記したが、今年はフェイズ2の第1弾とも言える演奏会となる。果たしてどういう演奏が聴けたのか。
その答えはバロック時代の“合奏協奏曲”と、5弦ヴィオラという異端の楽器との共演、そして20世紀音楽・難曲への挑戦である。

1曲目はバッハの「ブランデンブルク協奏曲 第3番ト長調」。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがそれぞれ3パートずつに分かれ、独奏と合奏の区別のない(いわゆるソリストと伴奏がいる“独奏協奏曲”ではない)協奏曲である。団員たちの息が合い、これぞ弦楽オーケストラといった調和のとれた演奏。
第2楽章は即興演奏で行われるらしく、今回はチェリスト毛利巨塵さんのソロによる演奏が行われたが、オリジナルのソロでありながら、あたかもそこに譜面が存在しているかのような見事な演奏に魅了された。
石オケはヴィオラとチェロの人数が相対的に多い。もちろんヴァイオリンが一番多いのだが、合奏協奏曲を演奏しても違和感のない音のバランスが実現できる。そして毛利さんのようなプロの演奏家がいることで説得力のあるソロも楽しめる。石オケの二つの強みを活かした選曲だったのではないか。

 

そして2曲目はモーツァルト「クラリネット協奏曲イ長調(5弦ヴィオラ編)」。
5弦ヴィオラ奏者であるルドルフ・ハケン氏との共演である。

実は石オケは2年前もハケンさんと共演しているが、その時演奏したのは彼の作曲した「5弦ヴィオラの協奏曲」。作曲者自らが演奏するので、曲の解釈、聴かせどころはハケン氏に任せて、しっかり伴奏に徹すれば、聴かせられるレベルの演奏をすることはできる。
だが、今回はモーツァルトの「クラリネット協奏曲」という、聴衆にも知られているし、曲自体を知らなくても“モーツァルトらしさ”を期待される楽曲なのだ。クラリネットパートが5弦ヴィオラの演奏になっているというだけでも、その音色、雰囲気はだいぶ変わる上に、モーツァルトらしく弾かないと観客の満足度は下がってしまう。同じソリストとの共演といってもオケに求められるものが2年前とは比べられないくらい重い。

いざ演奏が始まると出だしからモーツァルトらしい軽やかな旋律が奏でられ、きちんと曲の世界を表現できているように思えた。
そしてクラリネットパートを弾く5弦ヴィオラのソロが合わさると、5弦ヴィオラという楽器の特殊性によるのかハケン氏の音楽性によるのか、どこかアメリカンな雰囲気が加わった。

だが、それは紛れもなくモーツァルトの曲だった。オーケストラが素直にヨーロッパのモーツァルトを表現し、ハケン氏が奏でる新大陸に渡ったモーツァルトと共演しているようにも思え、なんともいえない独特の世界を生み出していた。弾いている団員にとっても、貴重な楽しい経験だったに違いない。

 

そして団員がもっとも苦しんだという難曲、20世紀に活躍した作曲家バルトークの「弦楽のためのディベルティメント」である。
この曲、奏者泣かせだけでなく、聴者泣かせでもあるらしく、聴く側にもある程度理解がないと「不快になるかも」ということで演奏前に簡単な曲解説が入る。ここで、各章のさわりが披露され、聴く側も「これは難解そうだな」と予習はできたのだが全体像はわからない。かえって予習ができた分、一体どんな曲なのかどんな演奏がされるのか、期待が(そして不安も)高まる。

曲が始まってみると、解説で感じた以上に、次々とめまぐるしく曲が展開する。聴く側はなんとか展開をつかめるが、弾く立場となると確かについていくのもしんどいだろう。ただ、団員の努力の甲斐もあって、第1楽章の変拍子も破綻することなく、第2・3楽章の劇伴のようなフレーズとともに、この楽曲の不思議な世界を楽しめた。これは、各パートにサポートのプロ演奏家がいるから可能だったという面もあると思うが、団員一人ひとりが真剣に曲と向き合い、それぞれ今できる演奏を精一杯した賜物だろう。
奇しくもNHK-BSに出演した際、石オケ音楽監督・指揮者の西谷国登さんが「アマチュアオーケストラは雰囲気をつくったり、どうやったら自分たちが楽しめるのかということを表現するのに長けている」と言っていたように、しっかりと曲の雰囲気、そして“石オケの楽しさ”を曲に乗せていた。

 

去年よりももう1ステップ上のステージを目指したと感じられた石オケだが、それを実現するためには、音楽監督が乗りこえられるギリギリの課題を与え、団員がそれに食らいついてクリアする。その課題のレベル設定の見事さは、ヴァイオリン指導者としても活躍する西谷さんならではなのではないか。

レベルをあげながらも、新しく入ってくる団員も迎え入れなければいけない。そう考えてみれば、アマチュアオーケストラとは決して完成せずに形を変え続けていくものなのかもしれない。しかし決して完成しないが、ベースのレベルをアップしていかなければ毎年聴衆を楽しませることはできないし、このオケに至っては、その名を表すように「インターナショナル」に羽ばたくことを目指すなら、いつまでも同じ場所に留まることはできない。
だからこそ選曲はこのオケの生命線なのだ。

今年から参加したメンバーもいる中で、音楽監督が出した課題を乗り越えてきた団員たちの真剣な演奏。それこそがここ1年の成長であり、そんなことが当たり前のように、団員を信じ、遠慮することなく指揮をふる音楽監督からお互いの信頼関係も伺える演奏だった。
アマチュアオケ、地域オケとはこうあるべきという姿をみた気がする。

未だ成長の途にある石神井Int’lオーケストラ。
来年の演奏会も楽しみに待ちたい。

「大塚京子 ソプラノ・リサイタル クルト・ヴァイルの世界」

ソプラノ 大塚京子さんのリサイタルに行ってきた。

今回は、ドイツの作曲家クルト・ヴァイルの生涯を、「ドイツ ベルリン時代」、「フランス パリ時代」、「アメリカ ニューヨーク時代」と、その曲の変遷と合わせて紹介しながら歌っていく構成になっていた。

惜しくも僕は用事で開演に間に合わず、「パリ時代」から聴くことになったのだが、パリとニューヨークの曲を聴き分けるだけでも、その曲のスタイルの変化と、それでも根っこでは同じ作曲家の曲だと感じられ、楽曲って、その時代や風土とつながっているのだな、と改めて思った。

2年前のリサイタルでも感じたように、大塚京子さんの良さはその天真爛漫な明るさと、いつまでも少女(乙女)のような可愛らしさだろう。とくにニューヨーク編で取り上げたミュージカル「ヴィーナスの恋」の曲は、心をもったヴィーナス像が歌うという設定らしく、彼女のキャラクターと相まってとても魅力的だった。「愚かな心」はその天真爛漫さが良く出ていて、そこに細かく確かなテクニックを入れてくるところにプロの技もみえて聴き応えがあった。

それから、今回感じたのは、歌っているときの滑舌の良さ。
先に書いた「ヴィーナスの恋」の英語の明瞭さもそうだが、アンコールでも歌った「ユーカリ」(パリ編の曲)など、フランス語がわからない僕でも、意味が伝わってくるような、はっきりとした歌い方をするのが耳に心地よい(ご本人いわく「フランス語が全くできない」そうだが)。

それと同じくアンコールで歌った「マック・ザ・ナイフ」(ベルリン編で歌った「メッキメッサーのモリタート」という曲がアメリカでジャズとなって流行した曲)。
僕は、ボビー・ダーリンが歌ったバージョンのこの曲が大好きで、今回のリサイタルでぜひ聴きたかったので、アンコールで聴けて本当に嬉しかった。
恐らくやろうと思えばもっと崩せるのだろうが、クラシックの良さを活かして、さらにマイクなしといったギリギリのところのアレンジの、新鮮な「マック・ザ・ナイフ」が聴けた(「メッキメッサーのモリタート」と聴き比べたかったが…残念!)。

そして山田武彦さんのピアノは「ピアノって、曲によって音色まで変えられるんだ」ということを実感する心に残るピアノだった。

きちんと実力のある歌い手が、ひとりの(しかも近現代の)作曲家を、その作品と時代とともにとりあげるというコンセプトでリサイタルを開いている、というのはとても意義のあることだと思う。知らない作曲家なら、その曲と時代背景を知ることができるし、知っているなら、より深く曲について学ぶことができる。そしてなによりリサイタル中、とても楽しかった。
次回のリサイタルではどんな作曲家とどんな曲がとりあげられるのか、楽しみにしている。

サロンコンサートの魅力

ピアニスト坂田麻里さんのリサイタルに行ってきた。

石神井公園でサロンコンサートを長く続けている坂田さんが、今回はその拡大版というか特別編という感じで大泉学園のゆめりあホールでコンサートを開いたのだ。
ピアノソロ曲の他、石神井Int’lオーケストラを支えるプロの弦楽奏者たちとの弦楽五重奏での共演も。

ピアノソロの曲目は、シューベルトの即興曲から、アルベニス、ラモーと続き、時代も国も(当然その文化も)違う曲がずらりと並ぶ。
時代や作られた背景によって曲の特徴は大きく異なるが、坂田さんの演奏は、演奏者が同じであっても、それぞれの特徴が強く感じさせる引き出しの多さがあり、またバラエティーに富んだラインナップにも面白さがあった。
そして、ラ・カンパネラのような(どのピアニストでもきっとこの道を通るだろうという)超絶技巧の曲も巧みに弾きこなして実力をみせる。
また、ソロ曲の最後にガーシュインを持ってくることで、現代につながるピアノの歴史を感じられる構成になっていた。

そしてソロの後は、今回のメインイベントともいえる、ピアノと弦楽五重奏によるショパン ピアノ・コンチェルト第一番ホ短調 OP.11。
そもそもはピアノソロとオーケストラの曲ということで、僕はこのオーケストラ版を聴いたことがないのだが、西谷国登さんを中心とした石オケ講師陣の五重奏の演奏は「もし、この曲がオーケストラで奏でられていたら」どういう雰囲気になるのかが想像できるような、迫力と奥行きのある演奏だった。
それぞれのパートがピアノを引き立て、ピアノも弦楽の作り出した音色の上に重なり合うようで、まとまりの良い演奏になっていた。

坂田さんが、気軽に演奏を聴く機会を増やしたい、とプログラムの挨拶で書いていたように、生演奏を肩肘張らずに聴くことができ、これを機会にまた別の演奏会にも行ってみたいという気にさせるコンサートだった。
サロンコンサートの魅力はこういう部分にあるのかもしれない。

テノール大進撃

いつもお世話になっているヴァイオリニストの伊東佑樹さんが出るというので「テノールまみれのニューイヤーコンサート」に行ってきた。

昨年好評につき、今回はvol.2ということで、舞台にあがるのが歌い手も演奏家も全て男性という趣向。逆に観客は女性が多いのか、とも思ったが男女比としては他のクラシックコンサートと変わらない感じで、出演者達の客層の広さに期待が高まる。
ハーモニーは色々な音域があってこそ映える部分が大きいのて、「テノールのみ」という制約の中で、どれだけのことができるのかを考えるのはさぞかし難題だったと思うが、正統派のアリア独唱から、コスプレ合戦やモノマネという変化球まで、とにかくやれるだけのことやって観客を楽しませようという、その意気やよし。
主にクラシックを主戦場とする出演者たちのようだが、会場が一体となるグルーヴを作り出して、こちらも参加している気分が高まった。

同じテノールでも、それぞれ個性が違うというのも強く感じられたのも面白い発見だった。
隠岐速人さんは、リーダー格で愉快なMCとクラシック、ポピュラーともバランスのとれた歌唱力を発揮して、器用な人だな、という印象。
吉田連さんは、二期会期待のホープだけのことはあり、安定感と今後の伸びしろを感じさせた。
持木悠さんは、ポピュラー心を持ち、ミュージカルの舞台で活躍しているのが納得。
澤崎一了さんは、テノールとは思えない体格の良さだが、それをうまく活かした迫力の歌唱(アンコールで見せた、ロングトーンからの失神ボケは実力がないとできない)。
高柳圭さんは、歌詞の言葉が明瞭で聴きやすく、曲の途中から気持ちがどんどん乗っていくタイプに見えた。アリアだけでなく、オペラでの芝居が見たいと思った。

伴奏を務めた演奏家たちも、伴奏では歌手を載せる正確で歌いやすい演奏を、インストでのメインを張るときは、大胆で魅せる演奏をしていてプロの技を実感。伊東さんのソロを聴くのは久しぶりで2回目だったが、カッコ良かった。

男くささをマイルドにするためか、みんながそういうキャラクターなのか笑いを入れるシーンが多く、全体的に「コメディ要素」の強いコンサートだったが、新年の雰囲気にはもってこいの内容で、楽しい2時間だった。
来年の開催もすでに決まっているそうで、2019年1月4日の夜に行われるとのこと。お屠蘇気分で聴いたらより楽しめるように思えるので、テノールの声と愉快なステージが観たい方にオススメです。