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インスタやってみる?

職場のInstagramプロジェクトのメンバーに選ばれた。

今日キックオフ会議だったのだが、プロジェクトリーダーの言葉を聞くと、どうやら僕がInstagramに精通していると思われているらしい。
完全に勘違いで、インスタはもちろんFacebookもやってないのに、だ。

とはいえ職場のTwitter担当の一人だし、以前はSNSやら情報サイトについて調べたり運用していたりした経歴があるので、その辺がごっちゃになっているのだろう。
そんなわけで、流されるようにとはいえ、インスタ始めないといけない感じ(そういう仕事、好きなほうだしね)。

手始めに超初心者サイトを見て、今日得た知識は「InstagramはFacebook傘下」ということだけ。いや、本当は他にも情報は得ているのだけれど、だいたいSNSって、あとはやってみないとわからない系ですよね。

考えてみたら、曲がりなりにもミラーレス一眼持っているわりには活かせる場所がなかったし、こうやってブログも日々更新しているし、もしかしてInstagram始めたら、あの、世間の羨望の的と言われる「インスタ映え」の才能が発揮されるのでは…⁈

とは、さすがに思っていない。

あ、ダーツは思ってますが。

シーズン終了?

たまたま雨っぽかったからか、はたまたもうピークが過ぎたのか、昨日はあまり花粉の影響を感じなかったのだけれど、念のために昨晩アレジオンを飲んで寝た。
そしたら、今朝から頭がボーッとして宙をフワフワ浮いている感じに。
花粉の影響に対して、薬の力がオーバーしたせいだと思う。

午後いちばんでお取り引き先との打ち合わせがあったのだけれど、若干頭に霞がかかったような状態で話をしてしまって、失礼だなーと思いながら打ち合わせしていた(そういう部分には頭がまわるのだけれど)。

そう考えると、もう花粉シーズンは終了したのだろうか。それともこの頃寒さが戻ってきたように、花粉も復活するのだろうか。
しばらくは様子見の日々が続く。

サロンコンサートの魅力

ピアニスト坂田麻里さんのリサイタルに行ってきた。

石神井公園でサロンコンサートを長く続けている坂田さんが、今回はその拡大版というか特別編という感じで大泉学園のゆめりあホールでコンサートを開いたのだ。
ピアノソロ曲の他、石神井Int’lオーケストラを支えるプロの弦楽奏者たちとの弦楽五重奏での共演も。

ピアノソロの曲目は、シューベルトの即興曲から、アルベニス、ラモーと続き、時代も国も(当然その文化も)違う曲がずらりと並ぶ。
時代や作られた背景によって曲の特徴は大きく異なるが、坂田さんの演奏は、演奏者が同じであっても、それぞれの特徴が強く感じさせる引き出しの多さがあり、またバラエティーに富んだラインナップにも面白さがあった。
そして、ラ・カンパネラのような(どのピアニストでもきっとこの道を通るだろうという)超絶技巧の曲も巧みに弾きこなして実力をみせる。
また、ソロ曲の最後にガーシュインを持ってくることで、現代につながるピアノの歴史を感じられる構成になっていた。

そしてソロの後は、今回のメインイベントともいえる、ピアノと弦楽五重奏によるショパン ピアノ・コンチェルト第一番ホ短調 OP.11。
そもそもはピアノソロとオーケストラの曲ということで、僕はこのオーケストラ版を聴いたことがないのだが、西谷国登さんを中心とした石オケ講師陣の五重奏の演奏は「もし、この曲がオーケストラで奏でられていたら」どういう雰囲気になるのかが想像できるような、迫力と奥行きのある演奏だった。
それぞれのパートがピアノを引き立て、ピアノも弦楽の作り出した音色の上に重なり合うようで、まとまりの良い演奏になっていた。

坂田さんが、気軽に演奏を聴く機会を増やしたい、とプログラムの挨拶で書いていたように、生演奏を肩肘張らずに聴くことができ、これを機会にまた別の演奏会にも行ってみたいという気にさせるコンサートだった。
サロンコンサートの魅力はこういう部分にあるのかもしれない。

ワークアウト再び

2018年になってから、ずっとジムへ行っていなかった。

別の言い方をすれば、今年になってから全く運動していなかった。

当然体重は増え、腹はふくらみ、いわゆる「中年体型」に突入してしまうわけで、これはいかん、と今年初のジムに行ったのが先週のこと。
マシンを使って、特に腹筋が衰えていることに気づく。

でも、今回ジムに通い始めたのにはもうひとつ理由があって、ちょうど「運動すると賢くなるよ」と書いてある(超ざっくりなまとめ)『一流の頭脳』という本を読んでいたからで、これによると「心拍数が上がるくらいの有酸素運動」が良いらしいので、主な目的は走ることなのである。
先週は、リハビリがてらの30分 3.5キロくらいのウォーク&ランで済ませたが、今日はちょっと頑張ろうと思って45分で5.5キロ走った。
けっこうヘロヘロだ。帰り道の歩きが覚束ないくらい。

なので、さぞかし体重も減ったことだろうと思ったら、ベスト体重を4キロ近く上回る結果。ここしばらく体重計(買ったのに)乗ってないから、すごーく増えたのが、ここ2週間で減ったのか、それともまだ効果が現れていないのかは不明だが、とにかく頭も良くなるらしいし、続けなければならない。
そして賢くて細マッチョな男になるのだ。

ちなみにワークアウト後に食べた夕食は台湾ラーメンでした。
カロリーはあえて気にしていない。

ダーツ&チキン

ダーツの才能があるはずだった

しかし一度目の結果は凡庸だった

だが、それはまだ能力が覚醒していないからにすぎない(かもしれない)。

前回はダーツの本を買ったものの、こういうものは「習うより慣れろ」で、とにかく投げて投げて投げまくってコツをつかむものだと相場が決まっている。
では、次に何をすればよいか。
とりあえずは「マイダーツ」を買うことだろう。

そんなわけで、マイダーツを買い、さらにダーツの世界を知るためにはダーツショップに行かねばならないと思ったので、会社帰りに池袋のダーツショップへ行ってみた。

で、ダーツショップ、すごいね。
何がすごいって、ドアをあけてすぐわかる「マニアック感」。
決して、初心者お断りという感じではないが、品物の並べ方や店員さんの雰囲気、客層、その全てが“これこそがダーツワールド”という暗黙の了解を共有しているような空間だった。
僕はふと、かつて池袋にあった「イエローサブマリン」を思いだした。

※補足
イエローサブマリンはカードゲームや模型、テレビゲームを扱っていたホビーショップ。今も場所を変えてあるようだけれど、僕が中学、高校の頃に行っていたときは、カードゲームやテーブルトークRPGを扱っていて、そこでTTRPG用の8面体や12面体のダイスとかを買った。

で、僕は「イエローサブマリン」の、“この趣味についていけない人はお断り”な雰囲気がすごく好きだったのだ。最初のうちは違和感があったけれど「この雰囲気に慣れたい!」と思って通っていた気がする(思い出補正のような気もする)。

今回行ったダーツショップも、“ダーツの世界に踏み出せない人お断り”感と、“さあ君もこの世界に踏み込んでごらん”感が詰まった店だった。
ダーツとTTRPGじゃ、ジョックとナードの違いを若干感じるけれどね。

で、どうしたか、というと、雰囲気にいたたまれず、滞在時間約2分で退出。
それでも、店にあるダーツで遊んでいる人の投げ方の上手さだったり、自分で軸とか羽根とか(正式名称わからないあたりがなんとも。)組み合わせてダーツ作れるんだ、とかわかったり、店を出る時の心の中は(俺にはまだこの店は早い)だったけれど、表面上は渡辺篤史ぶりに「わかりましたー」という体に見られたはずだ。

そう、つまり前言撤回。
「次はマイダーツを買う」ではなく、ダーツはハウスダーツでいいから、とにかく投げに行く(この表現で合ってるのか?)のが次のステップだと気付いたのだ。
あと、能力を開花する場合は、だいたい導く師匠がいるはずなので、師匠と出会わないといけない。まずはそれだろう。

俺のダーツ物語はこれで第3話終了だが、なかなか物語が進展しない。
打ち切られないように努力したい。

バタバタと

トラブルが発生して、危機回収のためにいろいろ動く。自分が始めたことを、上手く後任に引き継げなかったことから起きたことだが、結局の原因は自分の力不足に尽きる。

迷惑をかけた相手先には理解してもらえたものの、やっぱり自分が始めたことは責任もって最後まで見守らなくてはいけないと改めて思った。

自分のプロ意識が試されるのだな、と思う。日々懸命に取り組もう。

整理整頓

実家に帰って自分の部屋の片付けをした。

といっても、本を処分することが主な作業。
読んだけれどとっておいた本や、当分読まないであろう積ん読本。それからDVD、CD、ゲームソフトの類いを見繕ってブックオフに行った。
1冊ずつは笑っちゃうような値段でも、塵も積もればで、トータルで結構な値がついたので整理した甲斐はあった。

それにしても「なんでこんな本買ったんだろう」と思うような本もあって、買った時の心情を思い出すのもまた面白かったりした。
実家だけじゃなくて、自分の家もまた本が増えつつあるので、少しずつ読んで処分しなければ。

といいつつ、今日、実家から4冊持ってきてしまったのだが。

他人のメールみてわがメール直せ

営業職ではないけれど、お取り引き先が多いところで働いているので、それなりに名刺交換をする。

で、名刺交換した人の中にご自分のイベントやセミナーの案内メールを届ける人が数人いるのだが、ちょっとスッキリしない。
迷惑、というほどではない。せいぜい3~4人だし、週に1、2回程度。でも微妙に鬱陶しい。
それ以上に、仕事のつきあいで名刺交換したのに、なぜそのアドレスに「宣伝メール」を送るのか?その感覚にモヤモヤするのだ。

たとえば、いただいた名刺に連絡用のアドレスの他に「案内が欲しい方はこちらに登録を」というのがあって、僕がおつきあいで登録したのならわかる。でも、送られてくるのは仕事の連絡用のアドレスだし、当然、案内メール解除の方法もない。
しかも送ってくるのはBccメール。個人的な連絡と一緒に、「実はこんなイベントやるんですけど、よろしかったら・・・」というなら構わないけど、なぜ、僕いつのまにか「顧客」になってるの?という疑問も浮かぶ。
中には「絶対僕のこと覚えてないですよね」という人からくるメールもある。

名刺管理サービスのCMで、「Facebook登録してください、みたいなこと言われても、仕事でつきあってんのになー」とボヤくものがあったが、それはまだ、登録するかしないかをこちらに委ねているからマシだ。
僕の今の状況は、アドレスを渡した人が勝手に送ってくる上に、登録を解除する方法がないからイライラするのだ。(ここまで書いてやっと本音がみつかった)。お取り引き先って対等な立場なはずなのに、主導権を握られてる気もする。

SNSと違って、いかにフリーアドレスが増えたとはいえ、メールはまだまだ個人的なツールだ。だから、もしお誘いがあるなら送る人だけにあてた文章で、内容で、誘うものだろう。それをBccで、どこの誰にでも同じ文面で誘われても気持ちは動かないし、そもそも相手は「その情報ください」と言っていないのだから、押し売りだろう。

つながることが簡単になって、アドレス交換の敷居が低くなったからこういうことが起きているのかもしれない。でもアドレスを教えあう関係って今のご時世だって貴重だろう。大切にしなきゃいけない。

そう思う自分は古い人間なのだろうかと、それもまた悩みのひとつだったりする。

真実とFAKEの間

佐村河内守の名前を知ったのは、当時、まだ現代のベートーヴェンとして注目を浴び始めたばかりの頃だった。

ちょうどその頃、日本コロムビアの人と仕事をしていて、その人が「いやー、ウチの佐村河内守が話題になってましてね」と得意げに話したことを覚えている。
その時に、コンサートだかCDのチラシをいただいてプロフィールを見たら、耳が聞こえないのにすごい曲をつくる天才作曲家ということが書いてあった。もっとも僕が興味をもったのは「鬼武者」の作曲家だったというところだったけれど(鬼武者、「2」しかやってないけれどね)。
その後、僕は例の「交響曲」を聴くこともなく、その名前も忘れていた頃、佐村河内騒動を文春で読んで、「ああ、あの時の!」と驚いたのを覚えている(名前でわかりますよね)。それから、あの「絶対聞こえてるでしょ」的な会見も見たし、影武者だった新垣氏が面白キャラとして各種バラエティーに出たのもいくつか見た。

“佐村河内守”名義でつくられた曲を全く聴いていない身としては、とくに騙されたとも、卑劣だとも思わなかったが、文春で最初に問題になったのは「義手のヴァイオリニスト少女を金目当てに利用した」というものだったはずで、それが本当ならひどいな、と思っていた。
それからメディアの報道としては、佐村河内氏の耳が聞こえるのか聞こえないのか、という点にシフトしていったので、善人のように扱われた新垣さんだけが得をした感じで自体は収束した感じがしていた。

後に、佐村河内守を撮ったドキュメンタリー映画として『FAKE』が公開された。
僕はどうしてか忘れたが、この作品を興味をもって渋谷に観に行ったのが2年前のこと。

前置きが長くなったが、なぜ今さらこの話を書いたかというと、『FAKE』の監督である森達也氏の著作『ニュースの深き欲望』を読んだからだ。
『FAKE』は初めて観たドキュメンタリー映画だったが、すごく面白かった。熱量の高い映画だった。観客が満員だったので驚いたのもよく覚えている(ドキュメンタリー映画でそんなに人が入るとは思わなかったから)。

ネタバレってあるのかわからないけれど、この映画の中で佐村河内氏は森氏に薦められて自ら作曲を行う。僕はその出来栄えに「自力で結構作れるんじゃん!」という感想をもったが、それすらも「FAKE」である可能性を感じさせる演出もあり、結局、佐村河内守は稀代の悪党なのか、新垣さんばかりが善玉なのか、そのあたりが映画を観たことでより一層曖昧になった。
ただ、この一連の問題について、より考えるようになったのも確かだった。

森監督は『ニュースの深き欲望』の中でこう述べている。

情報にはそもそもフェイクな領域がある。ただしこのフェイクを、単純に「=(イコール)嘘」と訳してほしくない。(中略)
世界はグレイゾーンで成り立っている。1か0かではない。多重的で多面的で多層的だ。どのようで見るかで変わる。絶対的な真実など存在しない。

結局はそれに尽きるのだろう。僕らは情報を善悪で考えたりするけれど、それは見方によってあるいは立場によって変わるのだ。客観性を持とうと思っても最終的には主観になってしまう。ただ、それを意識しているか否かで、世界の見方、もっといえば世界への接し方は大きく変わるのだ。

自分は情報にきちんと向き合う姿勢をもっているだろうか。考える姿勢をもっているだろうかと想像する。

森監督の著作はそういうことを意識させる。今の「情報」を考えるのに良い一冊だった。

三十一音に思いを込めて

以前、少しばかり俳句をかじったことがある。

句会形式のワークショップのようなものに参加したのだが、その時の宿題でつくった俳句が、先生から特選(優秀賞みたいなもの)に選んでいただいて、それがまた(柄にもなく)甘酸っぱい恋愛の句だったことから「恋愛についての俳句を作ろう」なんてことを思ってしまい、それが結局は自分の首をしめて、僕の俳人人生は1年半で幕を閉じる。

ちなみにその時の俳句は「夏めくや彼女の袖の傷見えて」。

俳句よりも短歌のほうが恋愛向き、と知ったのはそれからだいぶたってから。とはいえまだ短歌には手をだしていない。
ただ短歌にも興味があって、何かとっつきやすい本がないかと思っていた時に書店で見つけたのが『短歌は最強アイテム』という本だ。作者は千葉聡さん。歌人であり、現役の高校教師(しかも担任をされている)そうだ。
ご自身の高校担任生活における学生とのあれやこれやを描いたエッセイである。

「岩波ジュニア新書」だから、きっと読者対象は高校生以下なんだろうけど、作者が描く高校生たちの青春ぶりは、大人が読んでもキラキラして楽しい気分になる。しかも、この“ちばさと先生”は非常に行動的。
教員の部屋入口に置いてある小さな黒板の使用目的がわからない(訊いてもノーリアクションだった)ことから自由に使えると思って、毎朝おすすめ短歌を書いてアピールを始めたり、合唱コンクールで他クラスの伴奏者がインフルエンザで出られないと聞いてピアノ伴奏を立候補したり、部活の副顧問を掛け持ちしたり…。しかも歌人としての活動もしているわけで、そのバイタリティがすごい。

学生とのエピソードの途中に関連性のある短歌が挿入されるのがこの本の特徴。
著者の作だけでなく、場面にピッタリくるものをセレクションしているが、そのセレクトが絶妙で、文章に軽やかなリズムが生まれてとても読みやすい。
そして各エピソードも、学生と真剣に(でも熱血すぎるというわけでなく)向き合うからこそ体験できた出来事が多く、共感もするし、この先生もそして学生たちも応援したくなってくる。

後半、お母様との生活の話は泣けたし、そういう等身大の話も人柄が感じられた。
脚色はあるだろうが、こういう先生が「現実にいる」ということはとても素敵なことだと思うし、ちばさと先生の血肉になっているものが短歌の影響からだと思うと、もっと短歌について知りたくなる。
それだけ短歌の魅力、奥深さ、そして軽やかさ、楽しさがよく伝わる物語(エッセイだけどあえてそう言ってみます)だ。

短歌、俳句、もしくは詩でもいい。何かと向き合って心を動かされた時は、短い文章にしておくことが良いのかもしれない。

何に良いかって?

はっきりとはわからないけど、単純に思いを言葉に込めるということが「素敵だ」ってことだろう。