ブログのネタがない時は

初対面の人や、近所の人と会ったとき、鉄板の話題は天気の話だ。
それがブログでも通用するかどうかはわからないが、ネタがないので天気について書く。

今日の東京は雨。
梅雨入りの説もあるけど、昼はけっこうな降りで、夜になって梅雨らしいシトシト雨に変わった。

雨の日がとりわけ嫌いというわけではないけれど、良い傘を持っていなかったり、ポケモンGOがやりにくいという理由では、あまり好きではないのかもしれない。
ただ、空気に溜まった湿気がとれるのはなんとなく気持ちがいい。

…ブログにはあまり天気の話題は合わないみたいですね。
次にネタがなかった時の話題を考えておかねばならない(今回は乗り切ったつもりでいる)。

何度めのかたづけか

ひとり暮らしをしてから約2年。
考えてみれば片付けばかりしている気がするし、このブログにも3回ぐらい書いた気がする。しかも、このブログをちゃんと書くようになってから半年ぐらいだから、半年で3回ぐらい片付けの話をしている。

つまりそれは「片付いてないじゃん!」という話になる。

これでも、有名な“こんまり”さんの書いた本や、脳機能科学的な片付け本も読んだりしているのに。
いや、一旦ちょこっとは片付くのだけれど、1週間もたたないうちに、別のもので部屋が満たされる(“散らかる”も言いよう)のだ。
その正体のほとんどは本なんだけれど。

そんなわけで何度めかの本整理をした。
今回のテーマは(毎回テーマがあるのか)「この3ヵ月以内に読む本だけ残す」だ。
だいたい1週間に1冊少し読むとして15冊。
出先で、家にあってまだ読んでいない本を思い出してみると、5〜6冊しか浮かばないのでまあ余裕だろうと思っていたが、いざ蔵書を調べてみたら忘れてた本が山ほど出てきて、しかもそのほとんどが「これは読んどかないとな」と思う本。とても15冊に選びきれない。

なので発想を変えて「この3ヵ月以内に絶対読まない本を捨てる」にテーマを修正。
結果24冊の本を処分することになりました。残ったのは50冊以上はある(それ以上は数えたくない)。

ただ今回ついに気づいたことがある。

「本ってタイトルが見えてないと買ったこと忘れる」

教訓みたいに言ってみたが、僕以外の人には当たり前のことなのかもしれない。
本棚が狭く、入りきらない本を100均の白いフタ付きBOXに入れているので、存在を忘れてしまうのだ。
なので、しばらくは格好悪いが外に積んでおくことにする。目の前にあれば読み進めるし、読んだ本が増えれば処分できるし、処分できれば片付く。
その法則で行くことにする。

3ヵ月後に無事片付いているかはまた次回。

夏の気配

東京は29℃になって、今年最高気温だったようだ。

“真夏だ!”と思うほどの日差しではなかったけれど、タオルにくるんだ保冷剤を首にあてながら出勤したり(これが意外なほど冷却効果あり)、昼、ランチに出た時に普段あまり飲まないアイスコーヒーを頼んだりした。

帰りに近所のスーパーに寄ったら、虫取り網だの、水遊びセットだのが並んでいて、梅雨入り前に早くも夏らしい気分になってくる。これだけ夏気分を盛りあげるものが置いてあったら、こどもはもう夏休みを待ちきれないんじゃないかと思う。
逆に6月の立場がちょっとなくて可愛そうだったりする。

頑張れよ、6月!(余計なお世話)

分岐する未来。『ターミネーター:新起動/ジェニシス』

『ターミネーター:新起動/ジェニシス』を観た。

『ターミネーター』シリーズは『2』をリアルタイムで劇場で観て、『1』はだいぶ後でテレビで観た(地上波の吹替版の奴)。
『2』は本当に面白いし、観た人は誰もがダイソンさんの真似をしたと思うけど(ウソ)、『1』のあらすじぐらいしか知らない僕がいきなり観ても話についていけたし、気にならないほど独立した作品になっていた。

この『ジェニシス』は、その後の『3』と『4』をなかったことにして、一応ちゃんとした『2』の続編として作られたようだ。
初代も『2』も、もう古典といってもいい映画だから、内容を知らない人のほうが少ないだろうけど、この映画は僕が観た時の『2』と違って、ちゃんと前作を観ていないと楽しめない(あらすじだけだと不十分)。
というのも、ほとんどこの映画『ターミネーター』のセルフパロディなのだ。

『2』の強敵T-1000が『1』の時間軸に出てきたり、ターミネーターが先回りしていたり、とにかく元を知らないと、どこをどう崩しているのかが全くわからないので、ただのSFアクションとしか見れない。
物語中盤から、意外な展開をみせるし、意外な敵が現れたりするのも、元を知らないと楽しめない。
で「元を知っていると面白いか」というと、やっぱりパロディとしか思えないのが惜しい。多分「正統派の続編」というよりも「いかに観客の予想を裏切るか」ということに重点をおいてつくられたのだろうと思う。
『3』はアリか、と言われると微妙だが、あれは一応「続編」として成り立っている。『ジェニシス』はそれと比べると「こんな未来もあったかも」というパラレルワールド的な扱いにとどまるのだ。
なので、続編としては期待はずれだし、新作としてはいちげんさんお断り、という消化不良な映画になってしまっている。

それでも、さすがに『ターミネーター』で、それなりには観れる。
『2』を観て面白かった人には、ファンメイド的なノリで「これもまあアリか」という感じで観るぶんには良い作品。

探しものはなんですか

今や検索ひとつでどんな情報でも手に入れられる。

ということを誰もが思うだろうが、そうでもない。
なぜならば、検索するのにも上手い下手があるから。

10年以上前にイタリア語を習っていたことがある。
それを知っていた当時の同僚が「ドイツ留学時代にヨーロッパで超流行っていたから買ってしまった」と、イタリア人歌手 Tiziano Ferroの「Rosso Relativo」というアルバムを貸してくれたのがきっかけで、一時期イタリアンポップスにハマったことがある。
といってもすごく気に入ったのはTiziano Ferroだけで、あとはジャケ買いしたりして何人かの曲をちょいちょい聴いていただけなんだけど、今日、Youtubeで洋楽を聴いているうちに、どうしても聴きたいイタリアンポップスを思い出した。

NHKラジオのイタリア語講座のエンディングでかかっていた曲で、当時、YoutubeでPVを観て、曲もPVも良かったのでCDを探したのだけれどAmazonでも買えず、ituneでダウンロードしようと思っても日本版にはなかったため、そのうち忘れてしまっていたのだ。

あの曲を久々に聴きたい。
でも、歌手名も曲名も曖昧。
唯一「ナポリがセリエAで戦ってたってホントかよ」というような歌詞があったのを覚えていたので(本当にそういう歌詞かは不明)、うろ覚えのイタリア語で“Napoli ha gioca seria a”(文法的に間違ってます)でググってみたけど、当たり前のようにサッカーチームのナポリに関する情報しかでてこない。
いや、確かにそれであってるんだけど、探しているのはそれじゃない。

見つからないと余計に聴きたくなるもの。
確か「conなんちゃら」みたいな曲名で、双子ばかりでてくるPVだったので、Google翻訳で「双子」をイタリア語に変換したら「Gemini」となんの参考にもならない答えがでてくる。
いくつか意味の検討をつけて翻訳してみたが、ピンとくる単語はでてこない。

こうやって一度見つからないとドツボにハマりますね、検索って。

で、冷静に考えて、NHKラジオのイタリア語のエンディングだったのだから、そこから調べれば良いかと、wikiでまず調べたけど、番組についての情報はサラッとで、当然エンディングテーマまでは載っておらず、
「NHK イタリア語 エンディング」
をベースにちょっとずつ変えながら検索を続けた。
そしてついにYahoo知恵袋の過去ログで見つけたのだ!

思い立ってから30分くらいかかった。
自分はそこそこ検索名人だと思っていたが、まだまだ甘いと痛感した出来事でした。

ちなみに探していたのはPier Corteseの「Contraddizioni」という曲。
「Contraddizioni」の日本語訳は「矛盾」だって。

双子関係なかった。

レリゴー

今日は健康診断だった。

同じことを考える人はたくさんいるだろうが、僕は、ひと月前ぐらいからこの日に合わせてダイエットをしたり、節制をしたりする。
今年も例年同様、先月からジムへ通ったり、カロリーチェックアプリを入れたりしていたのだが、ふと10日ぐらい前にダイエットをする気持ちが落っこちてしまった。ようするにダイエットに飽きたのだ。
そうなると自己弁護のため、「逆にありのままの自分で検診受けたほうが良いのだ」という逆張り思考が湧き上がった。

そう思うと今度は気持ちまでリバウンドするもので、普段どおりというよりも、この1週間で5日フライドポテトを食べたり(マック、マック、居酒屋、ロッテリア、ケンタ)、水曜に独りでワイン1本あけたり、と普段以上に体に負担をかけた生活のまま、今日を迎えたわけである。

とはいえ、不摂生をしたからといってあからさまに「ダメ」認定がでるわけでもなく、体重については、バリウムと血液検査があるため、朝食を抜いているので普段測るよりは少し減っていた。

予期せぬ発見があったのは、採血の注射器が良くなっていたこと。
去年まではいわゆる注射器で一旦指して、そこにカートリッジのようにプラスティックの採血瓶を入れて3本ほど取るのだが(調べたら本体を「シリンジ」、採血瓶「スピッツ」というようなので以下それで。)、そのスピッツを抜き差しするときの振動が針まで響いて痛かったのだ。
上手い看護師さんだと大丈夫なのだが、いつも「今日は痛くないか?」と緊張しながら採血されていた。
ところが、今日の注射器は点滴みたいに針から長い管が出ていて、その先にシリンジがついているので、スピッツを抜き差ししても振動が全くこない。
なんて画期的なんだ!と関心してしまった。と、同時に「やっぱり、あの振動痛いよね?」とみんな同じこと考えていたのかと思うと、ちょっと嬉しかった。

で、最後は恒例の「胃部レントゲン」。
昔ブログかツイッターに書いたが、最初に胃部レントゲンを受けた時は、撮影台の上であまりにも回転したり(機械自体も動くが自力回転のほうが多い)、逆さになって息止めたりするので「一種のアトラクションだ」と思ったものだ。
さすがにもう5回目なので、何が起こるかはわかる。わかるけど、やっぱり発泡剤を飲んでからゲップをしてはいけないルールと、技師さんの指示にしたがって、グルグル・ゴロゴロと検査台をまわる姿は想像するとシュールだ。

そんなこんなで年に一度のイベントが終わったわけだが、結果が出るのは少し後。
果たして無事、大きな異常のない結果がでるのだろうか。

節制しなかった分、いつもよりちょっと不安が大きかったりする。

はたち(をだいぶ超えてから)の献血

知り合いと血液型の話をしていて、献血の話になった。
僕も彼女も、自分の血液型を知ったのが献血を受けた時だったからだ。

僕が最初で最後の献血を受けたのは忘れもしない2011年3月9日。つまり東日本大震災の2日前。当時、僕はまだ自分の血液型を(正確には)知らなかった。
両親はB型同士、そして兄も、それどころか父方母方の祖父祖母も全員B。もうこの時点でB型であることはほぼ決まりなのだけれど、周りからは「Oっぽい」とか「Aじゃないの?」と、どちらかといえば「Bはない」説が多かったのだ。

ちょうど、ことあるごとに献血に行っているという若干献血マニアな同僚がいたので、どこの献血ルームが良いか聞いたら、有楽町をオススメされたので、休みだったその日に行ってみたのだ。
当時、言われていたミスドやマックが食べられる、という場所ではなかったが、ジュースは飲み放題だったし、カントリーマアムとかせんべい類が好きなだけ食べられる仕様になっていた。雑誌やマンガも置いてあった気がする(記憶は曖昧)。
こどもの頃は、献血車の前で紙パックのジュースを配っていたのを覚えているので、それに比べればずいぶんサービスが充実しているな、と感じた。

献血する前に問診と、ちょっとした血液検査をしたのだが、その時点で血液型はわかってしまったので「もうこれで失礼します」と言いかけたが、そういうわけにもいかず、きっちりと献血してきた。

その時、献血もたまにはいいじゃん、と思ったのだけれど、震災の混乱があったり、献血をめぐる良くない噂話を読んだりしてしまって、なんとなく足が向かなくなってしまった。
ただ、あの時の僕の血液が誰かの役に立ったのなら、それはそれで良いと思う(血液型もわかったし、ね)。

あ、僕の血液型は安定のBでした。
面白みもなんともない。

抜け落ちた世界で気づくもの 『ロスト・イン・トランスレーション』

この映画は公開された当時から気になっていたけれど、ずっと観ていなかった。

観たかった理由は、日本が舞台、主役がビル・マーレイ、なんとなく好きそうな雰囲気、といったところ。でも結局観なかった理由は、あんまりにもセンチメンタルすぎそうな感じがしたから。

ほとんどのシーンをちゃんと日本でロケしたようで(異文化の国での物語を強調するようにカリカチュアされてはいるものの)、珍しく「間違ってない日本」を描いているのが嬉しい。ソフィア・コッポラは日本に住んでいたことがあるらしいので、その辺のバランスはとれているのだろう。

ビル・マーレイは日本のテレビ番組を観てうんざりした顔をするのだけど(基本、この映画の中ではだいたいうんざりした顔をしているが)、映るのが深夜バラエティだったり、謎の白黒時代劇だったりしてちょっと演出されてる感はある(でも、当時バラエティを見慣れていたはずの自分から観ても「罰ゲームで二人羽織でうどんを食べる」というのをテレビで見て、それって本当に面白いか?という気にはなった)。電車の中で漫画雑誌を読むことや、音ゲーに興じる若者のシーンが挟まれていたけれど、外国人にはその姿が確かに奇異に見えるのかもしれない。
それだけでなく、突然、寺に行って祈祷を見るシーンだの、いけばな教室に迷い込むだの、京都へ行くだの、富士山を正面にしたゴルフ場でゴルフしたりだのがインサートされる。
いけばなのワビサビや、なぜ寺で祈願をしているのか、そのあたりは語られないが、それこそ、タイトルどおり「ロスト・イン・トランスレーション」(訳してしまうと抜け落ちてしまうもの)を起こさせようとしているように思えた。

事柄じたいは間違っていない日本が描かれるが、ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンの主人公二人が繰り出す夜の街は、正しい日本の姿とは思えない。
カラオケ館で歌うシーンはあるが、一緒につるんでいる日本人の若者は、エッジの効きすぎたパリピのようで(裏の世界、とまではいかないが夜の街で生きている感じ)共感はできない。行く店も仲間内のパーティーが行われているクラブだったり、謎のアングラ・セクシーバー(上半身裸で女性が体操みたいなのをするのだ。こういうのはアメリカ的発想だろう)みたいなとこだったり。
さすがに「居酒屋でくだを巻く」というシーンを入れても響かないのだろう。
ただ、こういう“ウサの晴らし方”はできる、できないは別として、誰しもしてみたいことだろうな、とは思う。仲間と一緒にちょっと悪ぶった行動をとってみて、騒いで過ごす。日本人もアメリカ人も寂しい時のウサの晴らし方は案外変わらないのかもしれない。

この映画ではとにかくスカーレット・ヨハンソンが可愛い。垢抜けないけど魅力的。平凡で、でもまだまだ遊びたい、自分の人生これでいいのだろうか、と人生の迷子になっている若い人妻を自然に演じている。
まさか今、スカヨハがあんな「男性を手玉に取る強かな女性」像になるとは、当時この映画を観ていたら思わなかった(これは木村佳乃がまさかあんなキャラになるとは、とほぼ同意です)。

女性監督ならではの感性だな、と感じたのはスカヨハが「女の子はみんな写真に夢中になる。馬を好きになるように。」というところ。
僕は今まで全く気づかなかったが、言われてみれば確かに女性は写真に夢中になるし(男性がカメラに夢中になるのとは違う)、馬が好きだ。

僕には、文化のギャップというのを日本人としてしかみれないから、この映画の意図するものは一生つかめないのかもしれない。
世代間のギャップという意味でも、主人公のように25年間の結婚生活を経験しているわけでもなければ(結婚自体経験がないし!)、ましてや新婚の人妻には一生なれない。

主人公の奥さんから電話がかかってきて、彼は東京の様子を伝える。
それを聞いて奥さんは「東京は楽しそうね」と言う。
主人公は言う。
「楽しくはない。この街は変わっている」

大人になっていろいろなものを抱えるようになると、異世界、異文化の街に来た時、僕らはこういう感情をちょっとだけ持つ。文化の違いに興味を持つけれど、それが楽しいか、と言われるとそうでもない。ただ「違っている」ということを面白がるだけだ。
そしてそういう自分がゆらぐ場所にいる時に、素の自分が何を求めているのか気づく。

だから人は旅をしたいと思うのだろう。

地味な映画だけど、結局これは「おとぎ話」である。
日本で公開された2004年、僕はまだ20代だった。その時見ても、おそらくこの映画には「退屈な映画だった」という感想を持っただろう。
40代になって観たからこそ、この映画は良いな、と思えるのかもしれない(スカヨハの幼い魅力も今だから可愛いと思えるのかもしれない)。
ただ、少し人生の機微がわかるようになった今、「人生ってなんだろう」と見つめ直したり、自分が何を求めているのかを考えさせられる作品ではある。
そういう人は一度観ておいて損はない。

「クニトInt’lユースオーケストラ 第5回定期演奏会」

石神井Int’lオーケストラ定期演奏会と同じ日に、姉妹オケであるクニトInt’lユースオーケストラの定期演奏会も行われた。

聴いた感想をひとことにすれば、
はっきり言ってこれは「子どものオーケストラ」ではない。

団員は小学生以上高校生以下。ほとんどが小中学生であるが、いわゆる「小さな子が頑張って演奏している」演奏会ではないのだ(もちろん、そういう可愛らしさもあるが)。

第1部の「セントポール組曲」と「シンプルシンフォニー」。
合奏曲としてはさほど難しくない曲なのかもしれないが、ただ楽しんで弾くだけでなく、しっかり大人の演奏、つまり指揮者に求められるレベルの音を出そうと、皆が真剣に弾いているのだ。
もちろん石オケからの賛助メンバーやプロ演奏家である講師が音楽的な支えとはなっているのだろうが、その存在に決して甘えることなく自分の演奏に徹する団員たちの姿からは「子ども」と「大人」を区別することはできない。
「ステージに上がった以上はすべての演奏家が対等」というようなことを考えさせられた。

音楽監督・指揮者の西谷国登さんも、演奏前に声がけをしてモチベーションをあげたり、団員の緊張をほぐす間をつくったり、と石オケよりもアプローチの仕方を増やしていたけれども、曲が始まってしまえば遠慮なく指揮をふる。
団員を「子どもとして」ではなく、きちんと「いち演奏家」として扱う姿は、このクニトオケの子どもたちの音楽的成長に大きな影響を与えるだろうと思った。

 

そして世界で活躍するピアニスト、ジャスミン荒川さんと共演できたことも、大きな影響を与えただろう。
曲はリストの「ピアノ協奏曲 第1番」。
3楽章制のアレンジだったが、団員も最後まで集中力を切らさずにジャスミン氏の演奏を支えた。
そして、ジャスミンさんの演奏は圧巻のひとこと!
まさかアマチュアの(しかもユースの)オーケストラでこういう演奏を聴けたというのは、聴衆にとっても嬉しい驚きだったに違いない。

西谷さんが「超一流の腕前」と絶賛するピアニストと一緒に演奏する機会を小さいうちから得られたことは、貴重な財産であり、贅沢な経験だろう。今は、その意味がわからない団員もいるかもしれないが、年齢を重ねて演奏を続けていく中で、この経験が生かされる時が来るはずだ。

 

アンコールの「ホルベルク組曲」まで変わらぬ「大人の顔」をした演奏を続けたクニトInt’lユースオーケストラの団員たち。
このメンバーたちが音楽的に、そして人間的にどう成長するのかも楽しみになってくる。そんな演奏会だった。

次なるステージ 「石神井Int’lオーケストラ 第5回定期演奏会」

第5回目を迎えた、地元、石神井Int’lオーケストラ(石オケ)の定期演奏会。

去年の演奏会を聴いて、4年かけたフェイズ1を終えたと僕は記したが、今年はフェイズ2の第1弾とも言える演奏会となる。果たしてどういう演奏が聴けたのか。
その答えはバロック時代の“合奏協奏曲”と、5弦ヴィオラという異端の楽器との共演、そして20世紀音楽・難曲への挑戦である。

1曲目はバッハの「ブランデンブルク協奏曲 第3番ト長調」。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロがそれぞれ3パートずつに分かれ、独奏と合奏の区別のない(いわゆるソリストと伴奏がいる“独奏協奏曲”ではない)協奏曲である。団員たちの息が合い、これぞ弦楽オーケストラといった調和のとれた演奏。
第2楽章は即興演奏で行われるらしく、今回はチェリスト毛利巨塵さんのソロによる演奏が行われたが、オリジナルのソロでありながら、あたかもそこに譜面が存在しているかのような見事な演奏に魅了された。
石オケはヴィオラとチェロの人数が相対的に多い。もちろんヴァイオリンが一番多いのだが、合奏協奏曲を演奏しても違和感のない音のバランスが実現できる。そして毛利さんのようなプロの演奏家がいることで説得力のあるソロも楽しめる。石オケの二つの強みを活かした選曲だったのではないか。

 

そして2曲目はモーツァルト「クラリネット協奏曲イ長調(5弦ヴィオラ編)」。
5弦ヴィオラ奏者であるルドルフ・ハケン氏との共演である。

実は石オケは2年前もハケンさんと共演しているが、その時演奏したのは彼の作曲した「5弦ヴィオラの協奏曲」。作曲者自らが演奏するので、曲の解釈、聴かせどころはハケン氏に任せて、しっかり伴奏に徹すれば、聴かせられるレベルの演奏をすることはできる。
だが、今回はモーツァルトの「クラリネット協奏曲」という、聴衆にも知られているし、曲自体を知らなくても“モーツァルトらしさ”を期待される楽曲なのだ。クラリネットパートが5弦ヴィオラの演奏になっているというだけでも、その音色、雰囲気はだいぶ変わる上に、モーツァルトらしく弾かないと観客の満足度は下がってしまう。同じソリストとの共演といってもオケに求められるものが2年前とは比べられないくらい重い。

いざ演奏が始まると出だしからモーツァルトらしい軽やかな旋律が奏でられ、きちんと曲の世界を表現できているように思えた。
そしてクラリネットパートを弾く5弦ヴィオラのソロが合わさると、5弦ヴィオラという楽器の特殊性によるのかハケン氏の音楽性によるのか、どこかアメリカンな雰囲気が加わった。

だが、それは紛れもなくモーツァルトの曲だった。オーケストラが素直にヨーロッパのモーツァルトを表現し、ハケン氏が奏でる新大陸に渡ったモーツァルトと共演しているようにも思え、なんともいえない独特の世界を生み出していた。弾いている団員にとっても、貴重な楽しい経験だったに違いない。

 

そして団員がもっとも苦しんだという難曲、20世紀に活躍した作曲家バルトークの「弦楽のためのディベルティメント」である。
この曲、奏者泣かせだけでなく、聴者泣かせでもあるらしく、聴く側にもある程度理解がないと「不快になるかも」ということで演奏前に簡単な曲解説が入る。ここで、各章のさわりが披露され、聴く側も「これは難解そうだな」と予習はできたのだが全体像はわからない。かえって予習ができた分、一体どんな曲なのかどんな演奏がされるのか、期待が(そして不安も)高まる。

曲が始まってみると、解説で感じた以上に、次々とめまぐるしく曲が展開する。聴く側はなんとか展開をつかめるが、弾く立場となると確かについていくのもしんどいだろう。ただ、団員の努力の甲斐もあって、第1楽章の変拍子も破綻することなく、第2・3楽章の劇伴のようなフレーズとともに、この楽曲の不思議な世界を楽しめた。これは、各パートにサポートのプロ演奏家がいるから可能だったという面もあると思うが、団員一人ひとりが真剣に曲と向き合い、それぞれ今できる演奏を精一杯した賜物だろう。
奇しくもNHK-BSに出演した際、石オケ音楽監督・指揮者の西谷国登さんが「アマチュアオーケストラは雰囲気をつくったり、どうやったら自分たちが楽しめるのかということを表現するのに長けている」と言っていたように、しっかりと曲の雰囲気、そして“石オケの楽しさ”を曲に乗せていた。

 

去年よりももう1ステップ上のステージを目指したと感じられた石オケだが、それを実現するためには、音楽監督が乗りこえられるギリギリの課題を与え、団員がそれに食らいついてクリアする。その課題のレベル設定の見事さは、ヴァイオリン指導者としても活躍する西谷さんならではなのではないか。

レベルをあげながらも、新しく入ってくる団員も迎え入れなければいけない。そう考えてみれば、アマチュアオーケストラとは決して完成せずに形を変え続けていくものなのかもしれない。しかし決して完成しないが、ベースのレベルをアップしていかなければ毎年聴衆を楽しませることはできないし、このオケに至っては、その名を表すように「インターナショナル」に羽ばたくことを目指すなら、いつまでも同じ場所に留まることはできない。
だからこそ選曲はこのオケの生命線なのだ。

今年から参加したメンバーもいる中で、音楽監督が出した課題を乗り越えてきた団員たちの真剣な演奏。それこそがここ1年の成長であり、そんなことが当たり前のように、団員を信じ、遠慮することなく指揮をふる音楽監督からお互いの信頼関係も伺える演奏だった。
アマチュアオケ、地域オケとはこうあるべきという姿をみた気がする。

未だ成長の途にある石神井Int’lオーケストラ。
来年の演奏会も楽しみに待ちたい。