いったん戻っての『ジュラシック・パーク』

ついに『ジュラシック・パーク』を観た。

恐竜にもディザスタームービーにも興味のない僕だが、『ジュラシック・ワールド』を観たからには、基本の第1作は観ておきたいと思ったからだ。

なんて書き出してみましたが。
『ジュラシック・パーク』って、さほどディザスタームービーじゃなかったんですね。パーク開演前だから、被害者数としては『〜ワールド』のほうがはるかに多い。それから「ワッ!」っと驚かせるようなシーンも少なかった。
なので、自分が20年間、この映画に対して思い描いていたものは全て間違いだったんだなーと思う。思い込みって怖い。

で、『ジュラシック・ワールド』を観てから『ジュラシック・パーク』を観ると、オマージュというか、ちゃんと『〜ワールド』2作が『〜パーク』をなぞっているのがわかって面白い。
それは恐竜とのかくれんぼの動きとか、狭いところに隠れた子供に恐竜が迫るシーンとか、恐竜同士のとっくみあいとか。
ラプトルが1作目から重要な役目をしていて、それもシリーズ通じてのものなのかと知って、『〜ワールド』はオマージュだらけだなと思う。

当然20年前の映画だから、オーディオアニマトロニクスがしょぼく思えたりするが、CGはハイレベルだし恐竜の“存在感”は『〜ワールド』にもひけをとらない。さらに言えば、『〜ワールド』が若干B級映画っぽいのに、『〜パーク』はちゃんとメジャー映画の雰囲気がある。
その理由のひとつは、『〜ワールド』のほうがノリが軽いからだろう。『〜パーク』は皮肉担当がマルコム博士だけで、全体的には真面目に進む。
『〜ワールド』は、主人公を含めて危機的状況でも冗談をふかすキャラが多く、また恐竜が人間を襲うシーンでもひどすぎて笑えてしまうブラックなものが多かった。
娯楽作としてどっちが好きか、って言われたら僕は『〜ワールド』を選んでしまう。現代っ子なのかもしれない。

と、どうしてもパークとワールドを比較しながら観てしまうので、素直に『ジュラシック・パーク』単体で楽しむ見方はできなかったが、それでもこの映画の凄さはよくわかった。
『ロスト・ワールド』と『Ⅲ』も勢いで観ておこうと思っている。

パーク観ずにワールド語る

『ジュラシック・ワールド/炎の王国』観た。IMAX3D。

なにせ前作を前日に観ていたから、キャラクターの個性から人間関係から、恐竜の特性まではっきりと覚えている状態で続編を観れたということで、3年前にリアルタイムで前作を観た人よりもこの映画を楽しめたに違いない。

『ジュラシック・パーク』を全く観てないので、想像するに『ジュラシック・パーク』はディザスタームービーであって「予想だにしないところから恐竜に情け容赦ない襲われ方をして阿鼻叫喚」という映画だと信じている(違ったらごめんなさい)。単純に言えば同じスピルバーグの『ジョーズ』恐竜版。
だけれど『ジュラシック・ワールド』は、恐竜テーマパークを舞台にしたSFアクションで、人間の欲やエゴを描いた21世紀のハリウッド映画らしい作品。

そんな中、この『炎の王国』は『ワールド』の正統な続編といった印象がある。
恐竜というよりも人間のエゴによる遺伝子操作によって生を得た生物たちが、人間の危機となった存在になった今どう扱うか、という倫理的なテーマを持った映画だ。それでもエンターテイメント映画らしく、恐竜はカッコいいし可愛いし怖いし、展開もコミックっぽい。
そして、2018年のハリウッド映画らしく、完全なる娯楽作品ではなく、前作以上に遺伝子操作の是非、環境問題、死の商人の問題など現代社会への批判を含めていたりして若干骨太な内容。その分、いろいろなメッセージを詰め込みすぎて、ちょっとインテリ映画っぽくなっている感じがする。単純に親子連れやカップルでキャーキャー言える映画ではない。それを期待していくと、違う映画を観せられたという感想になるだろう(古くは『アルマゲドン』、最近だと『ベイマックス』みたいな)。

それでも、ちゃんと面白かったのは、CGやキャラクターだけでなく、設定や世界観を丁寧につくりこんでいるからで、“チャチさ”を感じさせないということは、映画において大事な要素なのだとつくづく思った。

そういうわけで「夏休み納涼映画」としての役割はほぼないが、前作を観て面白かったなら、きっと楽しめるし、考えさせられる映画。
逆に、観に行く人は前作は必見。それ次第でこの映画の面白さは半減する。
そういう意味でも正統派な2作目であることは間違いない。

初見で『ジュラシック・ワールド』

『ジュラシック・ワールド』を観た。
最新のじゃなくて、ひとつ前の奴だ(今晩テレビでやるのにね)。

僕は『ジュラシック・パーク』シリーズをひとつも観たことがない。ああいうディザスタームービーが苦手だから好んでみようとは思わないのだ。
でも『ジュラシック・ワールド』はディザスター感が若干抑えめで、SFアクション映画として楽しめた。
主役のクリス・プラットは、僕の中で“A級映画版”のブレンダン・フレイザーっぽくって、多分死なないよねという安心感があり、その辺もリラックスして観れた理由だったりする。

ちゃんと『ジュラシック・パーク』から観てる人なら、あんなオマージュや、こんな懐かしキャラ、など色々と楽しめるんだろうけど、そういうのがわからなくても、「恐竜見世物テーマパークでパニック」という設定さえわかっていれば、全く問題なかった。
あと、ちゃんとシャレが効いているというか、クスリと笑わせるシーン(ブラックジョーク的なものも含め)があるのは、スピルバーグ映画っぽかった。
そういうシーンを見ることで、しばらくスピルバーグの映画を観ていないことに気付く(『レディプレイヤー1』観たかったなー)。

おそらく最初の面白さ(「恐竜の情け容赦のなさに人間阿鼻叫喚」と予想)とは違うんだろうし、キャラクターの描き方がサラッとしすぎだとは思うんだけれど、5作目まで(6作目もやるそうですね)つくられるくらいの人気シリーズなので、きちんと楽しめるようにできていて感心した。
あと、やっぱり最後はアイツだよね。という展開は、恐竜好きじゃない僕でも胸熱だった。そういう「客が求めていることをきちんとやってくれる」という理想的な娯楽映画だ。
こどもは恐竜好きだから「恐竜×パニック」というのは夏休み向け映画として最高の組み合わせなのかもしれないね。

そんなわけで、今日『ジュラシック・ワールド/炎の王国』を観ます。

『ウォルト・ディズニーの約束』

映画『メリー・ポピンズ』は見たことがない。

ただその中の一曲「Supercalifragilisticexpialidocious」はjubeat(音ゲー)でよく遊んでいた曲だった。その曲が流れる場面だけYoutubeで見たりしていたので、ほんの少し馴染みがある。
ミュージカル映画の古典だし、いつか観たいと思っているもののいまだ未見というところ。なにせ『サウンド・オブ・ミュージック』だって観たのは5年くらい前なのだ。

で、この『ウォルト・ディズニーの約束』という映画。その『メリー・ポピンズ』の映画ができるまで…というか、原作者とウォルト・ディズニーの権利を巡っての戦いというか、最終的には心のふれあいを描いているのだが…。
どうもこの原作者P.Lトラヴァースが皮肉屋というかなんにでもケチをつける人で、それは、作家ならではの気難し屋という描き方なんだろうと思ったけど、終始一貫してどうにも好きになれない。愛すべき要素があまりにもないのだ。
ディズニーのことだから、途中で想いが通じあって、心温まるハートフルな展開になるんだろうなーと思いきや、意外と最後までドライな感じ。一応、途中で分かり合える部分はあるけど。
現在パートと過去パートが交互に進行し、原作者の負った心の傷の深さは筋を追えばわかるけれど共感はできないので、そう思ったのだろう。

あと、それはすなわちメリーポピンズの登場人物である、バンクス氏(トラヴァースの父親をモデルにしている)についての物語だったりするので(なにせ原題は『Saving Mr.Banks』。確かに原題のほうが内容に良く物語っている)、ますます『メリー・ポピンズ』を観るか、あるいは原作の『メアリーポピンズ』を読むかしていないと深いところまでわからないのかもしれない。

ディズニーにしては、甘くなりすぎないあたりはかえって斬新かも。
ポール・ジアマッティ演じるハイヤーの運転手とのやりとりがとても良いので、それでまあ良かったかなー、という感想になる映画。

それにしても、アメリカ人にとって原作の『メアリーポピンズ』はどのくらいスタンダードな児童文学なんだろうか。
日本でいうと何に当たるんだろう。

『ズッコケ三人組』?

ステイサムズ

「メカニック」と「メカニック ワールドミッション」を観た。
どちらもジェイソン・ステイサム主演のアクション映画だ。

ジェイソン・ステイサムの映画はハードボイルドかつ、ハッピーエンド(因果応報も含めて)ものが多く、安心して楽しめる(「パーカー」とか「セイフ」がオススメです)。
「メカニック」はずいぶん前にスカパーで観たはずだけれど、途中からの筋書きを全く覚えていなかったので、多分、出だしだけナナメ見してたんだと思う。
で、「ワールドミッション」はその続編で、なぜか僕はこれを劇場で観ようと思っていた。多分「パーカー」が面白かったから。

で、「メカニック」と「メカニック ワールドミッション」だけど、ひとことで言ってしまえば、
メカニック:なぜこの映画の続編を作ろうと思ったのか?
ワールドミッション:続編の必要性なくない?
といったところ。

「メカニック」は、なにせ主人公に共感ができない。
組織の命令で友人をターゲットとして殺害した殺し屋が、その友人の息子に同情して弟子として鍛える、という話なので、弟子に対しての複雑な思いや、殺したことがバレたときにどうするのか、という葛藤が描かれるのかと思いきや(いや、多少は描いているが)、結局友人を殺したのは組織に騙されてしまったとわかって、二人で組織のボスを倒すことに。ここまではまあいい。
だが、その後、父親殺しを知った弟子に殺されたと見せかけておいて、実は生きていて、罠をしかけて息子も殺す、という展開にちょっとモヤモヤ。
殺し屋の世界は非情である、ということなのかもしれないが、結局あなたが騙されて友人を殺さなければこうならなかったわけですよね、とツッコミたくなったのだ。「メカニック」という仇名をつけられているほど、用意周到で緻密な殺し屋なのに?!

で、続編の「ワールドミッション」は“凄腕の殺し屋”という設定を引き継いだだけなので、ならば完全新作で良かったのに、と思う。
前作はまだ、殺し方に「仕事人」的な緻密さがあったけれど、今回は銃撃戦が多くて「メカニック」感が全然なかった。映画として面白かったか、というと“まあまあ”。「ステイサム映画」らしく、悲劇になる心配はしなくてもいいけど、その中では凡庸の部類。
なので、余計「なんで続編まで作ったの?」という疑問だけが残った作品。

分岐する未来。『ターミネーター:新起動/ジェニシス』

『ターミネーター:新起動/ジェニシス』を観た。

『ターミネーター』シリーズは『2』をリアルタイムで劇場で観て、『1』はだいぶ後でテレビで観た(地上波の吹替版の奴)。
『2』は本当に面白いし、観た人は誰もがダイソンさんの真似をしたと思うけど(ウソ)、『1』のあらすじぐらいしか知らない僕がいきなり観ても話についていけたし、気にならないほど独立した作品になっていた。

この『ジェニシス』は、その後の『3』と『4』をなかったことにして、一応ちゃんとした『2』の続編として作られたようだ。
初代も『2』も、もう古典といってもいい映画だから、内容を知らない人のほうが少ないだろうけど、この映画は僕が観た時の『2』と違って、ちゃんと前作を観ていないと楽しめない(あらすじだけだと不十分)。
というのも、ほとんどこの映画『ターミネーター』のセルフパロディなのだ。

『2』の強敵T-1000が『1』の時間軸に出てきたり、ターミネーターが先回りしていたり、とにかく元を知らないと、どこをどう崩しているのかが全くわからないので、ただのSFアクションとしか見れない。
物語中盤から、意外な展開をみせるし、意外な敵が現れたりするのも、元を知らないと楽しめない。
で「元を知っていると面白いか」というと、やっぱりパロディとしか思えないのが惜しい。多分「正統派の続編」というよりも「いかに観客の予想を裏切るか」ということに重点をおいてつくられたのだろうと思う。
『3』はアリか、と言われると微妙だが、あれは一応「続編」として成り立っている。『ジェニシス』はそれと比べると「こんな未来もあったかも」というパラレルワールド的な扱いにとどまるのだ。
なので、続編としては期待はずれだし、新作としてはいちげんさんお断り、という消化不良な映画になってしまっている。

それでも、さすがに『ターミネーター』で、それなりには観れる。
『2』を観て面白かった人には、ファンメイド的なノリで「これもまあアリか」という感じで観るぶんには良い作品。

抜け落ちた世界で気づくもの 『ロスト・イン・トランスレーション』

この映画は公開された当時から気になっていたけれど、ずっと観ていなかった。

観たかった理由は、日本が舞台、主役がビル・マーレイ、なんとなく好きそうな雰囲気、といったところ。でも結局観なかった理由は、あんまりにもセンチメンタルすぎそうな感じがしたから。

ほとんどのシーンをちゃんと日本でロケしたようで(異文化の国での物語を強調するようにカリカチュアされてはいるものの)、珍しく「間違ってない日本」を描いているのが嬉しい。ソフィア・コッポラは日本に住んでいたことがあるらしいので、その辺のバランスはとれているのだろう。

ビル・マーレイは日本のテレビ番組を観てうんざりした顔をするのだけど(基本、この映画の中ではだいたいうんざりした顔をしているが)、映るのが深夜バラエティだったり、謎の白黒時代劇だったりしてちょっと演出されてる感はある(でも、当時バラエティを見慣れていたはずの自分から観ても「罰ゲームで二人羽織でうどんを食べる」というのをテレビで見て、それって本当に面白いか?という気にはなった)。電車の中で漫画雑誌を読むことや、音ゲーに興じる若者のシーンが挟まれていたけれど、外国人にはその姿が確かに奇異に見えるのかもしれない。
それだけでなく、突然、寺に行って祈祷を見るシーンだの、いけばな教室に迷い込むだの、京都へ行くだの、富士山を正面にしたゴルフ場でゴルフしたりだのがインサートされる。
いけばなのワビサビや、なぜ寺で祈願をしているのか、そのあたりは語られないが、それこそ、タイトルどおり「ロスト・イン・トランスレーション」(訳してしまうと抜け落ちてしまうもの)を起こさせようとしているように思えた。

事柄じたいは間違っていない日本が描かれるが、ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンの主人公二人が繰り出す夜の街は、正しい日本の姿とは思えない。
カラオケ館で歌うシーンはあるが、一緒につるんでいる日本人の若者は、エッジの効きすぎたパリピのようで(裏の世界、とまではいかないが夜の街で生きている感じ)共感はできない。行く店も仲間内のパーティーが行われているクラブだったり、謎のアングラ・セクシーバー(上半身裸で女性が体操みたいなのをするのだ。こういうのはアメリカ的発想だろう)みたいなとこだったり。
さすがに「居酒屋でくだを巻く」というシーンを入れても響かないのだろう。
ただ、こういう“ウサの晴らし方”はできる、できないは別として、誰しもしてみたいことだろうな、とは思う。仲間と一緒にちょっと悪ぶった行動をとってみて、騒いで過ごす。日本人もアメリカ人も寂しい時のウサの晴らし方は案外変わらないのかもしれない。

この映画ではとにかくスカーレット・ヨハンソンが可愛い。垢抜けないけど魅力的。平凡で、でもまだまだ遊びたい、自分の人生これでいいのだろうか、と人生の迷子になっている若い人妻を自然に演じている。
まさか今、スカヨハがあんな「男性を手玉に取る強かな女性」像になるとは、当時この映画を観ていたら思わなかった(これは木村佳乃がまさかあんなキャラになるとは、とほぼ同意です)。

女性監督ならではの感性だな、と感じたのはスカヨハが「女の子はみんな写真に夢中になる。馬を好きになるように。」というところ。
僕は今まで全く気づかなかったが、言われてみれば確かに女性は写真に夢中になるし(男性がカメラに夢中になるのとは違う)、馬が好きだ。

僕には、文化のギャップというのを日本人としてしかみれないから、この映画の意図するものは一生つかめないのかもしれない。
世代間のギャップという意味でも、主人公のように25年間の結婚生活を経験しているわけでもなければ(結婚自体経験がないし!)、ましてや新婚の人妻には一生なれない。

主人公の奥さんから電話がかかってきて、彼は東京の様子を伝える。
それを聞いて奥さんは「東京は楽しそうね」と言う。
主人公は言う。
「楽しくはない。この街は変わっている」

大人になっていろいろなものを抱えるようになると、異世界、異文化の街に来た時、僕らはこういう感情をちょっとだけ持つ。文化の違いに興味を持つけれど、それが楽しいか、と言われるとそうでもない。ただ「違っている」ということを面白がるだけだ。
そしてそういう自分がゆらぐ場所にいる時に、素の自分が何を求めているのか気づく。

だから人は旅をしたいと思うのだろう。

地味な映画だけど、結局これは「おとぎ話」である。
日本で公開された2004年、僕はまだ20代だった。その時見ても、おそらくこの映画には「退屈な映画だった」という感想を持っただろう。
40代になって観たからこそ、この映画は良いな、と思えるのかもしれない(スカヨハの幼い魅力も今だから可愛いと思えるのかもしれない)。
ただ、少し人生の機微がわかるようになった今、「人生ってなんだろう」と見つめ直したり、自分が何を求めているのかを考えさせられる作品ではある。
そういう人は一度観ておいて損はない。

ゴーストバスターズ

『ゴーストバスターズ』を1と2続けて観た。

今、考えるとなんでこの映画があそこまで大ヒットしたのかよくわからない。そこそこ面白いけど「誰でも楽しめる」映画じゃない。
主役もさえないおっさん達だし、「サタデー・ナイト・ライブ」の面々が少し派手目なSF映画を作った、という本当にそれだけの内容。

多分、お化け退治のガジェット(レーザー銃と捕獲装置)のデザインとか、ノリの良さ(テーマソングも含めて)がウケたんだろう。
当時、僕はこの映画をスクリーンで観ていないけれど、主人公たちの装備が、現実の延長上にあるガジェットっぽくてカッコイイ、と思っていた。

「2」の評判が良くないのは、逆に「大衆向けの映画」として作ったからのように思った。キレイにまとまっているけど、前作のような“アドリブ感”が少ない。
お蔵入りになった「3」はどんな感じだったのか、脚本だけでも観てみたい。

あと、この映画のビル・マーレイの魅力は、今観ても、僕にはイマイチわからない(キャラも感情移入できない)。
『知らなすぎた男』とか『恋はデジャブ』ではすごい良いのに。

ところで、僕には勝手に『ゴーストバスターズ』の一場面だと思っていたシーンがある。いや、正確に言えば頭では違うとわかっているのに、今回観た際に、そのシーンがでてくるのは『1』だったけか『2』だったけか、と身構えたぐらい。

とある老婆がスーパーに入って、売り物のトマトの品定めをするために、トマトに指を突っ込んでいくのだ。それに気づいた店員に追いかけられる、というシーン。

そう、これは『タンポポ』の1シーンのはずだ。

でも、僕には『ゴーストバスターズ』のシーンのような気がずっとしていた。このシーンがなかったことで「あれ、これ(ケーブルテレビなのに)カットされてんじゃね?」と一瞬思った。
なぜか、僕の頭では『タンポポ』と『ゴーストバスターズ』が一部ごちゃまぜになっているのだ(しかも元は邦画なのに、頭だと外国人で再生される)。
なぜなのか、その謎はいまだ解明されていない。

妖怪のせいかもしれない。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』

来週公開の『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』の予習として『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス』を観た。
前作は飛行機の中で観てなかなか面白かったけれど、続編を映画館で見るほどではないかなー、という感想だったのでDVD待ちになってしまった。

雰囲気としては『マイティ・ソー バトルロイヤル』と同じような、コミカルな掛け合いと勢いで推していく感じ(あれよりも下品な台詞が多い)。
こういう映画と、ハードで重いテーマを持った『キャプテン・アメリカ』シリーズが同じ世界観にあるのは、マーベル映画(MCU)の懐の深さなのか、多様性なのか。
『アイアンマン1・2』ぐらいの「シリアスさの中にどこか能天気な明るさがある」というくらいのテンションが一番好きなのだが、「宇宙」を舞台にしている時点で、突き抜けないといけないのかもしれない(「地球」が舞台の『ドクター・ストレンジ』や『スパイダーマン ホームカミング』はわりとバランス取れている気がする)。

80年代のアメリカのエンタメ文化が主人公のバックグラウンドにあるせいか、カート・ラッセルとかシルベスター・スタローンといった、あの時代の人たちがキャスティングされているのは多分、狙っているんだろうな。
あと、デビッド・ハッセルホフ(言わずと知れた『ナイトライダー』の主役)も本人として出てくるんだけど、『テッド』でも『フラッシュ・ゴードン』の話に主人公たちがやたらテンション高くしたり、ゴードン役だったサム・ジョーンズが本人役で出てきたり、最近のアメリカ映画は80年代懐古主義みたいになっているんだろうか。自分はそこにあまり思い入れがないので、いまいち楽しみ方がわからないのだけれど(あ、考えてみたら『テッド』はクマが、こっちの映画はアライグマが、どちらも口汚いセリフを吐くという共通点があった)。

とはいえ、派手なアクションと個性的なキャラクターに、きちんと家族の物語を描いていて、単体のSF映画として面白かった。
「地球」組のヒーローと比べると、なんでもアリの強さなので、どう整合性を取るのかも含めて『アベンジャーズ』は楽しみ。

真実とFAKEの間

佐村河内守の名前を知ったのは、当時、まだ現代のベートーヴェンとして注目を浴び始めたばかりの頃だった。

ちょうどその頃、日本コロムビアの人と仕事をしていて、その人が「いやー、ウチの佐村河内守が話題になってましてね」と得意げに話したことを覚えている。
その時に、コンサートだかCDのチラシをいただいてプロフィールを見たら、耳が聞こえないのにすごい曲をつくる天才作曲家ということが書いてあった。もっとも僕が興味をもったのは「鬼武者」の作曲家だったというところだったけれど(鬼武者、「2」しかやってないけれどね)。
その後、僕は例の「交響曲」を聴くこともなく、その名前も忘れていた頃、佐村河内騒動を文春で読んで、「ああ、あの時の!」と驚いたのを覚えている(名前でわかりますよね)。それから、あの「絶対聞こえてるでしょ」的な会見も見たし、影武者だった新垣氏が面白キャラとして各種バラエティーに出たのもいくつか見た。

“佐村河内守”名義でつくられた曲を全く聴いていない身としては、とくに騙されたとも、卑劣だとも思わなかったが、文春で最初に問題になったのは「義手のヴァイオリニスト少女を金目当てに利用した」というものだったはずで、それが本当ならひどいな、と思っていた。
それからメディアの報道としては、佐村河内氏の耳が聞こえるのか聞こえないのか、という点にシフトしていったので、善人のように扱われた新垣さんだけが得をした感じで自体は収束した感じがしていた。

後に、佐村河内守を撮ったドキュメンタリー映画として『FAKE』が公開された。
僕はどうしてか忘れたが、この作品を興味をもって渋谷に観に行ったのが2年前のこと。

前置きが長くなったが、なぜ今さらこの話を書いたかというと、『FAKE』の監督である森達也氏の著作『ニュースの深き欲望』を読んだからだ。
『FAKE』は初めて観たドキュメンタリー映画だったが、すごく面白かった。熱量の高い映画だった。観客が満員だったので驚いたのもよく覚えている(ドキュメンタリー映画でそんなに人が入るとは思わなかったから)。

ネタバレってあるのかわからないけれど、この映画の中で佐村河内氏は森氏に薦められて自ら作曲を行う。僕はその出来栄えに「自力で結構作れるんじゃん!」という感想をもったが、それすらも「FAKE」である可能性を感じさせる演出もあり、結局、佐村河内守は稀代の悪党なのか、新垣さんばかりが善玉なのか、そのあたりが映画を観たことでより一層曖昧になった。
ただ、この一連の問題について、より考えるようになったのも確かだった。

森監督は『ニュースの深き欲望』の中でこう述べている。

情報にはそもそもフェイクな領域がある。ただしこのフェイクを、単純に「=(イコール)嘘」と訳してほしくない。(中略)
世界はグレイゾーンで成り立っている。1か0かではない。多重的で多面的で多層的だ。どのようで見るかで変わる。絶対的な真実など存在しない。

結局はそれに尽きるのだろう。僕らは情報を善悪で考えたりするけれど、それは見方によってあるいは立場によって変わるのだ。客観性を持とうと思っても最終的には主観になってしまう。ただ、それを意識しているか否かで、世界の見方、もっといえば世界への接し方は大きく変わるのだ。

自分は情報にきちんと向き合う姿勢をもっているだろうか。考える姿勢をもっているだろうかと想像する。

森監督の著作はそういうことを意識させる。今の「情報」を考えるのに良い一冊だった。