走る原因

東京大学が、合奏の際になぜ意図せずにテンポが速くなる(業界用語で「走る」)のか、その原因を解明したらしい。
https://clarinet-labo.com/run/

合奏は確かに走りがちだ。僕も合唱時代に経験している。ちゃんと指揮の先生がいるのに走ってしまう(ちゃんと指揮を見ていないだけかもしれないが)。
この研究結果を簡単に言えば「速い人にテンポを合わせるから」という理由。
納得いくようないかないような、それでいてだからどう解決すれば良いのか、少し残念な研究結果だと思う。

音程はピアノのようなラならちゃんとラの音が出る楽器が入っていれば、フォローができそうな気がする。
それは正しい音程を出す楽器に合わせれば良いからで、(僕は合唱しか経験はないが)高い音に合わせがちになっても、どこかで修正できる。

テンポには「絶対音感」のような「絶対テンポ感」はないのだろうか?
そういう能力を持つ人が指揮をして、そこに合わせれば走らない(走っても修正効く)はずだが、逆に正確なテンポでの演奏を聴いてもつまらないのかもしれない。
機械の演奏がつまらない(かどうか、ちゃんと実験したわけではないけど。)ように、音程もテンポもちょっとしたズレが味になるのだろうか。

そうすると設計図である譜面通りに弾いても、それ以上に良い出来の演奏がある、ということなのか?
それって作曲家としてはプライド傷つくんじゃないのか?
とか考え始めるとキリがない。

そういうところが、音楽を含む芸術の奥深さかもしれないが、今度はそういう検証結果が知りたい。

解明されても、僕にはほとんど理解できないだろうけど。

「西谷 国登 第7回 ヴァイオリンリサイタル」

西谷国登さんのヴァイオリンリサイタルへ行ってきた。

2年ぶり7回目となるソロリサイタルは、5回、6回と同様、浜離宮朝日ホールで行われた。ピアニストは前回と同じ新納洋介さん。
今回はブラームスのヴァイオリン・ソナタを中心とした内容だ。

1曲目はそのブラームスが作曲したF.A.Eソナタより「スケルツォ」ハ短調。
プログラムに掲載された解説によれば、アンコールとして演奏されることの多い曲だそうだが、あえてコンサートの1曲目にもってきたとのこと。
力強さと明るさを備えた出だしから、ゆったりと心地よさを奏でる中盤といい、これから始まる音楽の世界に誘うにはピッタリで、この曲からスタートする試みは成功したように思う。

続いて前半の山場ともいえるヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」ト長調 作品78。
「雨の歌」というように雨粒を感じさせるピアノ、それと雨の情景が浮かぶようなヴァイオリンの響きが、ひとつの物語を浮かばせるような演奏となり惹き込まれる。二人がお互いの呼吸を確認しあって奏で合う様子が伺え、コンビネーションの良さも光った曲。

前半最後はツィゴイネルワイゼン。
本来ならリサイタルはヴァイオリン・ソナタだけで構成するつもりのようだが、今回はヴァイオリンの曲の中でも超メジャーなこの曲をラインナップに入れたそうだ。
今回のCD(内容はヴァイオリン小品集になっている)に入っているから、ということもあるだろうし、聞き馴染みのある曲を入れることで観客を飽きさせない意味もあったと思う。
ただ、この曲の演奏を聴いて、僕は「これはご自身の生徒、それだけでなく客席にいる全てのヴァイオリン演奏家に手本を見せるため」なのではないかと思った。
弓を端から端まで使う奏法、左手の使い方、時には全身を使っての曲表現、緩急のつけ方、などその一挙手一投足が生きた手本となり、見るだけで相当の練習になる。ヴァイオリンを弾けない僕でも、学べる部分がたくさん見つかるのだから(とはいえ「凄い!」と感動することしかできないけれど)、ヴァイオリン奏者ならかなりのことを吸収できたはずだ。
以前、キャロル・シンデル氏との演奏でも「指導者の顔」を感じたが、今回はソロ・リサイタルなので、より伝える気持ちが強かったように思う。
そしてそれだけのことをしておいて演奏も圧巻なのだから恐れ入る。

休憩を挟んで、箏奏者 岡部梢さんとの、箏とヴァイオリンによる「瀬音」。
和の曲を挟むことで、王道の中に変化球を混ぜる感じもあるが、それでもリサイタル全体のイメージを崩さずにフィットさせるところに西谷さんと岡部さんの懐の深さを感じる。

最後は、ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108。
楽章ごとに異なる個性をきちんと聴かせつつ、全体の統一感を持たせることが求められる曲展開だったが、このソナタのもつ宇宙観というかドラマティックさをしっかり表現していて、リサイタルを締めくくるのにふさわしいベストアクトだったと思う。

2年に1度の集大成、ということもあってか序盤は少し入れ込みが強く感じた部分もあったが、曲目が進むにつれ、西谷さんのそれぞれの楽曲に対する解釈と世界観を存分に感じさせる演奏会だった。それを支えた新納さんのピアノも素晴らしかった。
なにより、どの曲からも「演奏することは楽しい」というシンプルなメッセージが感じられ、このリサイタルが幅広い様々な世代の観客に、幸せな、心地よい時間を与えられたのではないかと思う。

そして、これだけの演奏を聴きながらも、まだ西谷国登の演奏にはさらなる高みがあるのではないかと期待させられる。
それは演奏者である西谷さんの円熟によるものなのか、一聴衆である僕の円熟によるものなのか(果たしてその両方なのか)。
その世界にこれからもついていけるように、彼の演奏は今後も聴き逃せない。

見えない経験値

3月後半に舞台で歌って以来、1ヵ月以上まともに歌ってなかったので、久々に一人カラオケに行った。

今日のテーマは、新しい曲の練習と、自分にあったキーを探すこと。
僕は基本的に“原キー至上主義”ではあるが、先日の舞台であえて半音下げて歌ったほうが、時には自分の表現したいものを出しやすい、と思ったので、今日は途中上げ下げしながら聴き栄えのよいキーを探してみた。

以前、友人に「原曲のキーでないと、その曲の良さ(雰囲気)が変わってしまう」という説を聞いて、それもなるほど、と思う。
良いなと思った曲も、調が変わるとなんだかつまらない曲になるのも事実ある。
ただ、逆に凡庸だと感じた曲も、キーを変えることで違った良さがでるのではないかとも思うので、こればっかりは“好み”に委ねられるのかもしれない。
とはいえ、カラオケは(とくにひとりカラオケは)自分が気持ち良く歌えれば良いと思っているので、自分が気持ちよく歌えるキーを探してみた。

で、前回カラオケに行ったときに、全体的に半音や1音低くしたほうが歌えると感じたので、今日は下げ気味にしたのだが、逆に原キーのほうが歌いやすかったりもした。
というか、前は原キーだと最高音が出なかった曲が、今日は原キーですんなり出たりした。

この期に及んで、声が高くなってるのだろうか。

昔から、電話ごしだと女性に間違えられるくらいは高い声(アルトは余裕で出る)なのが、おっさんになるにつれ高音が無理なく出るようになってるってどういうことだ。
多分、体調とかそういうので左右される、という結論だろうけどね。
あとはやっぱり舞台で人前で歌って、見えない経験値が溜まってるんだろう。
来月に歌う機会をもらいながら、準備ができそうもなく断ろうかと思っていたけれど、やっておいたほうがレベルはあがるなーと悩みはじめた(ぜいたくな悩みですが)。

ともあれ、課題をもって歌うのは楽しい。
ちゃんとこれを活かせるようにしなければ、と思う。

中身次第

今日は12時間勤務だった。

決してブラック企業ではありません(多分)。
好き好んで働いているのです(洗脳っぽい言い回しだな)。

ゴールデンウィークなので、午前中から音楽イベントが詰まっていて、その手伝いをしたのだ。もはや自分は音楽に関わるセクションにいないのだが、お世話になっているミュージシャンたちが出るので志願してお手伝い。
予定になかった呼び込みMCを結局5回、全演奏グループにしたのだが、10年そんなことをしてきた経験のおかげか、けっこうこなせた。

とあるミュージシャンの方に「いい声のMCだったので演奏で本気だせた!」とか言われて自惚れたので、それ以降は自分なりの「イケボイス」を意識してMCしてみた。マイクの使い方(というかリバーブの加減)を今さらながら学んだ気がする。
あと語り口調も。

で、やっぱり音楽関連の仕事は好きだし、慣れているのもあって全然疲れない。
いや、確かに体力的には疲れがないわけじゃないが、心地よい疲れだし、明日もう一回やってもいいかなー、と思う。

好きなことは疲労はしても疲弊はしない。
ということなんじゃないか。

色々と思うことが増えた。これもまた経験。

参加された方々に感謝しつつ、自分のやりたいことを見つめ直してみよう。

宴のあと

昨日の発表会。

まずは上出来だったと思う。ビデオで見直したりすると、思った通りにできてないかもしれないけれど。
1曲目では入るところ間違えたし、2曲目の弾き語りではテンポがズレたりしたのも良く覚えている。
それでもステージは終わり、楽しさだけが残った。

観客は仲間うちが8割9割とはいえ、舞台にたった時にほとんど緊張しなかったのは意外だった。歌い始めると、練習よりも声がでていないので、多少は緊張しているのだろうけど、いわゆるアガってしまう感じはなかった。なんだかんだで舞台慣れしてきたのかもしれない。
それと、前回よりもしっかり練習した、という自負はあったので、その点が自信になったのだろう。練習は正直だ。

一夜明けて、満足感とともに、次に歌いたい曲を練習し始めた。とにかく歩みを止めないことだ。

やっぱり歌うの好きだなー。そして歌うのを聴いてもらうことも。
好きなことがあるのは幸せだなー、とつくづく思う。
だから歩みを止めないでいこう。

しょってみた

明日、歌の本番がある。

仲間内の日頃の成果披露会みたいなものだが、お客さんも入るので若干緊張する。
2曲歌う内の1曲はギター弾き語りなのだけど、メンバーの方々がギター伴奏をつけてくださるとのことで、前日の今日、ギター合わせに行くのである。

僕は普段ソフトケースに入れて手持ちしているのだが、街で見かけるギタリスト達はだいたい楽器を背負って移動しているので、僕も思い切ってしょってみた(ギター歴だけならもう20年ぐらいになるのに今さら!)。

感想は

「背筋伸びるわー」

あと、当たり前だけど両手フリー。

でも、なぜ今まで背負わなかったかの一番の理由である「絵面」は若干気になる。あと、さほど背の高くない自分でさえ、頭から突き出たネックの部分がぶつからないかと心配に。

それでも背負うのラク。今さらそんな発見をした。
TPOに合わせて手持ちと使い分けたい。

追記。
帰り道に雨に降られて、自分の頭の上だけ傘で防ぐか、それともギターの頭も一緒に防ぐか、ちょっと迷った。
最終的に自分の頭だけにしたけれど。

取り扱い注意

2000万円以上する楽器(ヴィオラ・ダ・ガンバ)を機内預けにしたところ、破損して戻ってきたことに持ち主の音楽家が怒りのSNSを投稿した、というニュースを朝のワイドショーでやっていた。ネットで調べる限りは、ニコニコニュース http://news.nicovideo.jp/watch/nw3206638 にしか記事の掲載がなくてあまり日本では話題になっていないようだ。

昨年、ヴァイオリンを弾く方々と一緒に飛行機に乗ったのだが、その時も機内持ち込みの手続きが様々あって、楽器を飛行機に載せるのって面倒だなー、と思ったものだ。ましてや大型の楽器となると、持ち運びの苦労を考えただけでも疲れてしまう。今回の楽器もどうしたって普通に機内持ち込みするのは不可能なサイズだもんな(ちなみにテレビではヴィオラ・ダ・ガンバの説明が雑だったけど、今回のはその中でも大きい種類のバスガンバでしたね)。

この出来事の見方は、音楽家側、航空会社側双方色々あるだろうけど、壊れた楽器の画像を見る限り「それにしても壊れすぎだろう!」という感想。
乱暴に扱った、というレベルではなく「プレス機にかけましたか?」という感じに。ケースの形状を見れば楽器とわかるのだから、あとあとのトラブルを考えたら、係員もちょっとぐらいは配慮するだろうから、おそらく荷物受取場に搬送する機械に引っかかって潰れてしまったのだろう。航空会社も超焦ったと思う。
その後の対応の不味さや、もう一席とるように言った言わないの応酬で泥仕合になっている模様だが、「すみません、機械に引っかかりまして。でも弁償は規定の金額しか出せません」では通用しないのかもしれない。

どんなモノでもいつかは壊れるのだ、という達観と、職業柄楽器を常に持っていないといけない音楽家への憐憫がないまぜになるニュースだった。

キャロル・シンデル ヴァイオリンリサイタル

ヴァイオリニストの西谷国登さんの恩師である、アメリカ ポートランド州立大学教授 キャロル・シンデル氏の来日リサイタル。
西谷さんの師匠が、どんな演奏をするのか楽しみにして聴いてきた。
※2017年9月18日 大泉学園ゆめりあホール 続きを読む キャロル・シンデル ヴァイオリンリサイタル

アマチュアオケの先にあるもの

石神井インターナショナルオーケストラの第4回定期演奏会に行ってきた。

友人の、ヴァイオリニストで指揮者の西谷国登さんが音楽監督をしている関係で、団員の方々とも親交があり、何かとご縁のある「石オケ」だけれど、客席から演奏をじっくりと聴いたのは、第1回の演奏会以来だった。

メンバーのほとんどが知り合いなので、いわゆる「友達」の演奏会を聴きに行く、という体ではあったのだけれど、その演奏たるや西谷さん(そしてインストラクターの先生方)のお力か、アマチュアオケといえども、きちんと「個性のある」演奏を聴かせる内容だった。

あとで聞いた話だが、西谷さんは第4回となるこの演奏会を「レベルアップの場」として位置づけていたらしい。
その証拠となる楽曲が2曲目のメンデルスゾーン 弦楽八重奏 変ホ長調 作品20だろう。
本来4パートに別れるところを倍の8パートで演奏するこの曲(コントラバスも入るので実質9パート)。同じ譜面で弾くメンバーが少なくなるし、別の音が多く入ってくる分、個人の力量(責任と言い換えても良いかも)が問われる。一歩間違ると、知り合いじゃなければ「聴くに耐えない」内容になる恐れもあるのだ。

だけれど、この日の演奏は、見事にそんなことを微塵も感じさせない、まとまりのある、そして八重奏ならではの広がりのある演奏をしてみせた。僕は、これをアマチュアオケという立場に甘んじない、市民オケとしての矜持に感じた。

(これは僕が個人的に知っているからだが、)石オケのメンバーひとりひとりはすごく個性的だ。逆説的に言えば、どのオケもきっとひとりひとりは個性的に違いない。ただ、それを「オーケストラとして演奏する」という共同作業に載せたときに、時にはバラバラな個性を発揮したり、ときには窮屈な演奏にまとまったりする。石オケの演奏は、それぞれの個性を感じさせながらも西谷さんの指揮、そして各パートの結束力でそれをひとつの「楽曲」として昇華してみせた。それは決して「知り合いだから」で納得させる演奏ではなく、市民オケとして十分に聴衆を満足させられる演奏だった。

昔の話だが、実業団のアメリカンフットボールの大会を観戦したことがある。それはふとしたきっかけで、そのチーム(ちなみにアサヒ飲料チャレンジャーズ)のファンになったからなのだが、実業団の応援は、ほとんどが、チームメンバーの家族、友人、関係者で、僕はどちらかと言えばちょっとしたきっかけで観戦した人間だったと思う。でも、その試合はとても楽しかったし、充実した時間だった。

石オケの演奏も、きっとそういう、ちょっとしたきっかけで鑑賞した人に充実した時間を与えられたと思う。いや、もちろん全ての演奏がパーフェクトとは言えないだろうし、まだまだできてない部分もあるだろう。
だが、今後、そういういわゆる「いちげんさん」でも楽しめるオケになる可能性を十二分に感じさせる演奏会だった
(もちろん、それは、1曲目のモーツァルト ディベルティメントK.138を、指揮台につくやいなやスタートさせる演出や、八重奏の前に、曲の聴きどころ解説をするという演出が一役買ったという点も記述しておく)。

弦楽八重奏という、テクニカルな(ある意味トリッキーな)演目をこなしたことで、僕はこのオーケストラはフェイズ1を終えたと思っている。
来年はフェイズ2に入り、また新たな挑戦と、より石神井インターナショナルオーケストラならではの個性を発揮した演奏を聴けるのではないか。
そう期待して、今後も応援していきたい。