ヴィオラと歌とワインバー

親交があり、またフィットネス仲間でもある手塚貴子さんが、西麻布のカデンツァーレというワインバーでヴィオラと歌のステージを持つ、というので行ってきた。

手塚さんのヴィオラと歌は5月に聴く機会があったが、それ以来だったし、ワインバーという空間で、どのような演奏が聴けるのか楽しみにして行った。

2ステージ制で、1ステージ目はヴィオラの演奏。

最初の曲は「愛の挨拶」。
僕はこの曲が大好きで、ヴァイオリン演奏はいくつか聴いたことがあるけれど、ヴィオラでの演奏は初めてだった。
ヴァイオリンで聴くよりも暖かさがあって、まろみがある演奏。
ヴァイオリンがみずみずしい、まだ付き合いたての恋人たちの愛の挨拶だとすると、すこし落ち着いた大人の愛の挨拶のようで、夜のムードと良く合っていた。

続いて、手塚さんが一番好きな作曲家だと言うバッハの曲目から、「無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調」が演奏される。
曲の切れ目で、店内を移動して場所を変えて弾く趣向が面白かった。
僕はヴィオラを演奏できないので(っていうかクラシックの弦楽器全部だけど)、その凄さの本質はわからないのだろうが、指使いと弓使いが間近で見られるという贅沢で貴重な経験ができた(全然弾けなくても面白いんだから、ヴィオラやヴァイオリンを演奏している人には最高に面白かっただろうなーと少し悔しかったりもする)。

続けて1ステージ目の最後はフォーレの曲から「シチリアーノ(シシリエンヌ)」、「夢のあとに」、「子守唄」と続けて3曲を演奏。
「シチリアーノ」は、個人的には、これ最初のフレーズを聴いて、なにかの思い出にひっかかる奴だ、と思った。でも、それがなにかは思い出せない、というか思い出すと泣くかトラウマを引っ張ってしまいそうなので(やや悲しい気分になるのできっとそういう系)、考えるのをやめて演奏を楽しんだ。
フォーレの曲はどれも僕の好みだったので、音源を色々聴いてみたい。

それにしても、ヴィオラという楽器は面白い楽器だなーとしみじみ思う。
やっぱり中音域に魅力があるのだろう。特に、お酒の店と相性が良い気がする。
音色も熟成されたウィスキーのような、または芳醇な赤ワインの味わいを感じた(キザな言い回し)。

2ステージ目は歌のステージ。

「Night and Day」、「Misty」とジャズのナンバーが続き、大人の時間を感じさせる。

続けてカルメンのアリア「ハバネラ」ではフランス語で歌唱、その後の「イパネマの娘」、「ワン・ノート・サンバ」ではポルトガル語と、語学好きな手塚さんならではのラインナップ。
「ハバネラ」もジャズっぽく夜の雰囲気があり、ボサノヴァは手塚さんのキャラクターにとても合っていてお洒落。

そして発見したのは、手塚さんの高音域の綺麗なところ。
プロのヴィオラ奏者だし、イメージとして“かっこいい女性”なので、中低音はもちろん素敵だけれど、少し高いキーの時に出す声が、クリアで魅力的な声質で、“可憐な女性”らしさを感じた。
ヴィオラ演奏同様、歌でも雰囲気を持っている人なので、幅の広い歌声を手に入れたら、もっと魅力が増すんだろうなあと思う。
5月に聴いたときには見つけられなかった魅力なので、次回、歌声を聞くのが楽しみになった。

実は初合わせだったという芳賀信顕さんのピアノ(と掛け合い)も楽しく、アンコールの「Fly Me to the Moon」まで、手塚さんの音楽性を堪能できたステージだった。

それにしても、手塚さんは、ヴィオラ、歌だけでなく、来年は指揮でも本格的にデビューするらしい。

その姿勢を見習いながら、僕も頑張ろう、と、パワーをもらえたステージだった。
次回もまたぜひ聴きたい。

復刻の浅草オペラ

今月初めに浅草オペラの復刻イベントである『ああ夢の街 浅草!』を鑑賞した。
ちょっと間があいてしまったが、感じたことを書いておこうと思う。

「浅草オペラ」の存在は聞いていたし、「コロッケの唄」というのがあるというのは知っていたけれど(聴いたこともある)、実際にその舞台を見るのは初めて。
お仕事でお世話になっているソプラノの大塚京子さんが出演されるご縁で、11/2の夜公演を観ることができた。

浅草自体、そんなに行ったことがあるわけではないので、そのイメージは浅草寺、そしてコテコテの東京漫才(ナイツとか東MAXとか)なのだが、その東京漫才の聖地とも言われる、浅草東洋館が、今回の浅草オペラ復活の舞台である(他の会場でも公演はされました)。

まずこの会場がすごかった。年季の入ったエレベーターで4階まであがると、これまた昔の映画館の入り口のような雑然としたロビーが現れる。そして劇場内に入ると、和風というよりは、昭和初期の大衆劇場を彷彿とさせる。
舞台のことを「箱」と呼ぶことが、その呼び名がぴったりといった印象だった。

そして浅草オペラの幕は上がる。

活弁士 麻生八咫さんの進行で、たくさんの歌い手さんたちが次々と歌う。ソロで歌う曲もあるが、コーラスはもちろん、歌い手さんが後ろで芝居を演じていたりと、とにかくにぎやか(そして飛び交う“おひねり”)。
なにせ、クラシックで鍛えたプロの方々が集まって歌うので、聴き応えがある。
それと、演奏もカラオケではなく、小編成ながらも(ピアノ、ヴァイオリン、クラリネット、アコーディオン)生演奏なのが良い。グルーヴ感が段違いに出る。

演出としては、昭和の大衆オペラを“そのまま”再現している、というよりは、当時の昭和を、多少のパロディとカリカチュアを交えて再構築しているんだと思う。
だから、当時の技術では最大限の努力だっただろう、ハンドライトでの主役へのスポット照明や、紙で作った小道具の月などが、令和の時代の今に再現されると「レトロ」という部分で笑えるのだ。

大塚京子さんは、テネシーワルツでは堂々かつ可憐に聴かせ、コロッケの唄では下町奥様なりきりで楽しませてくれた。
それからプログラムには載っていない「人形焼 木村屋本店」の生コマーシャルでもお母さん役で歌ったのだけれど、このCMソングが特に面白かった。
ローカル感もあり、スポンサーへの愛もあり、こういうのを当時の舞台でやっていたのだとすると、良い時代だったんだなと思う。

他に印象に残ったのは「おてくさんの歌」を演じた、みすぎ絹江さんと、島田道生さん。
あとで調べてわかったのだけど、島田さんは「カンツォーネ!」の掛け声でおなじみの(おなじみか?)オペラ芸人「島田夫妻」の人なんだね。
一度テレビで見て、僕の「面白くないけど好きな芸人」枠に入っていたので、ここで実際に見れたのは嬉しかった(でも芸人は解散したようです)。
とにかく、この二人の掛け合いが面白かった(そして歌うとすごい上手い)。
島田さんの「カッコつけながらもスカす」というのは、僕が思う「真にカッコいいこと」に通じるので、お手本のようにして観た(笑わせておいてキメるとこキメる、っていうのに憧れるのだよ)。みすぎさんとの間の取り合いも良かった。

それから鈴木沙久良さん(ソプラノ)。
系統の違う曲をたくさん歌っていたが、清純派の女優像から、はすっぱな小娘まで、同じステージの中でガラリと違う演技ができるのが見事だった。

また、この日の舞台では、特別に関西オペラ界のレジェンドと称される林 誠さんが出演したのだが、その“レジェンドぶり”たるや。
かなりご年配だと思うが、衰えない声量、魅了する歌声。本当に“生きる伝説”を見た、という感じになった(弟子の方々も素敵でした)。

何事も、人を楽しませるには技術が必要だ。
この復刻版浅草オペラ。高い技術を持った方々が、プロに徹してやるんだから面白くないわけがない。
出ている方々はほとんどがクラシック畑の歌手の方だから、ある意味“おふさげ”な舞台はとても難しいだろう、照れたりしたら観客はしらけるし、「自分のカラーじゃないからこんなのできない」という感じで演じていたら見透かされる。
そういうことを全く感じさせなかったから、出演者全員が舞台を楽しんでいたのだろう。

真剣にふざける、でも音楽に対してはとことん真面目に。

そういう部分に隠れたプロフェッショナリズムを感じた。
聴きながら、純粋な楽しみと、出演者への畏怖の念がないまぜになった。
いやあ、皆さん、スゲーよ。

実際は、ヨーイドンのぶっつけ本番に近い部分も多いようだが、それを感じさせないし、多少のミスもご愛嬌で済ませられる。
決して十分な練習時間がとれたわけではないだろうけど、こういう舞台を作り上げられるということで、舞台への取り組み方も学べた。

高い技術を“オモシロ”に落とし込むっていうのは、自分のやりたいことにも通じてる。
そういう意味でも十二分に刺激を受けた場だった。
プログラムが3パターンあったようなので、次回復刻した際には、一通り見てみたい。

純粋に楽しめたし、勉強にもなった。
エンターテイメントってこうでなくっちゃね。

食べる女神

どうやら世間は3連休らしい(最近このパターン多いな)。

今朝はなんとなく心が晴れなかったので、思いたって麻倉ももの写真集『ただいま、おかえり』を読んだ。買って2、3日見た後に本棚に(大切に)しまっておいたのだった。
癒しを求めて読んだのは確かだけれど、自分の想像以上に癒されたので、驚きとともに「読んで良かったー」っていうか「買っておいて良かったー」と思った(心から)。

声優とはいえアイドル的位置にいる人なので、もちろん1ページ目から可愛いのだけれど、特に、ものを食べてる写真を見ていると元気が出てくる。

僕がもちょを特別可愛いと思うのは、TrySailの活動を知っているからで(そしてだいぶファンなので)、だからこそ、こういう写真集でなくても、角度によってぶーちゃんになる(特にデビューしたての)もちょも「可愛い」と思う(それがファンというものだからだ)。
でも、この写真集のご飯食べてるところは、そういうの知らない人でも、ファンでなくても可愛いと思えるに違いない。

美味しそうに食べてるだけでなく、ちゃんと「血肉にしてる」様を感じるのだ(字面にするとややホラーだな)。
なんか「食事をする」ってこういうことだよね、って思う。エネルギーを吸収する姿で、こちらもエネルギーをもらえるって、すごいことじゃないか。

神か。

女神か、そうか(錯乱)。

さて、色々あって本日の予定がガラリと変わったので、浅草に行ってきた。
仕事関係でお世話になっているソプラノ歌手の大塚京子さんが「ああ夢の街 浅草!」という浅草オペラを復刻する舞台に出演していて、お誘いされたからだ。
最初は会場である東洋館のコテコテさにたじろいだけれど、いろんな歌、寄せ集めな感じでとても楽しかった。全く飽きなかったよ!(この話はまた改めて。)

それから、とりあえず浅草と言えば「ドラクエウォーク」のお土産クエストがあるので帰りにやってきた。
浅草に来たのは5年ぶりぐらいだったけれど、雷門を通ったのはもっと前だ。思ったほど大きくない、それ以上に吊るされ方が低いことが意外だった。
想像と違うことって多いよね(ボケてきただけ?)。

そういうわけで予定とは違ったけれど、その違うところで密度の濃くなった日。
それもまた人生というものだ(大きく出た)。

明日も頑張ろう。

演奏会『クララ・シューマンと仲間たち』

練馬区演奏家協会コンサート『クララ・シューマンと仲間たち』に行ってきた(@練馬文化センター 小ホール)。

ヴァイオリンの西谷国登さん、チェロの毛利巨塵さん、ピアノの坂田麻里さんの3人によるユニット「石神井の森トリオ」の演奏会だ。

そのタイトルにあるように、シューマンの妻であり、ピアニスト、作曲家としても知られるクララを中心に、交友のあった音楽家や女流音楽家の曲がラインナップされるというコンセプトの演奏会だった。
その趣向を凝らしたコンセプトの影響か、途中の曲紹介をそれぞれがブラームス(西谷さん)、ロベルト・シューマン(毛利さん)、クララ・シューマン(坂田さん)に扮して、寸劇風に行うという試みも。
普段、クラシックを聴き慣れないお客様もいただろう中で、堅苦しさを取り除くようで、面白い試みだったと思う。

1曲目はブラームスの「ハンガリー舞曲 第6番」。
軽快でノリが良い曲が最初にくることで、こちらの気持ちもグッと前向きになる。

次のシューベルトの「セレナーデ」は、冒頭の有名な部分しか知らなかったけれど(我ながら不勉強)、人生の喜怒哀楽を感じられる素敵な曲だった。

3曲目の「F.A.Eソナタ」は、すでに西谷さんの“持ち曲”と言えるほどサマになっているが、今まで聴いた彼の演奏の中で、一番、そのモチーフである「自由だが孤独に(Frai aber einsam)」を表現している演奏のように感じた。

4曲目の「無言歌 ニ長調 op.109」。
フェリックス・メンデルスゾーンによる曲だが、毛利さんならぬ“ロベルト”が言うには、「無言歌」という名称は、姉であるファニー・メンデルスゾーンが考案したものらしい。
坂田さんのピアノと息のあったチェロの音色は、老練な滋味深い味わいでとても魅力があった。

前半最後は、今日の主役であるクララ・シューマン作曲の「ピアノ・トリオ ト短調 op.17」。
メランコリックな出だしで始まり、短編映画を観ているかのような展開の第1楽章のドラマティックさに、思わず楽章終わりで拍手をしてしまう。
4楽章の曲だったが、楽章をつらぬくヒロイックな印象が心に残った。

休憩をはさんで、第2部は、坂田さん演奏によるピアノ曲が3曲続く。
まずは、バダジェフスカの「乙女の祈り」。
耳馴染みのある曲だが、生演奏で聴くと、より楽しいのがわかる。同じようなメロディーが少しずつ変化をつけて続いていくので、それを追いかけるのも面白い。

そして短い曲であるシマノフスカの「ノクターン 変ロ長調」をはさんで、ショパンの「ノクターン 嬰ハ短調 遺作」が演奏された。
美しい旋律に、ときおり陰がさすようなメロディラインと、その技巧に、これぞ「ピアノ曲」といった印象を受ける。生で聴けて良かったと思える曲。

そして最後は、ファニー・メンデルスゾーン作曲の「ピアノ・トリオ ニ短調 op.11」が演奏される。
ドラマティックな第1楽章、女性としての優しさや慎ましさ(あるいはそれは生きるための方便だったかもしれないが)を感じる第2楽章、第3楽章でロマンティックになり、最後にガツンとくるような第4楽章といった、聴き応えのある構成の曲。
ぜひ、もう一度聴きたくなるような演奏だった。

アンコールは、シューマンの「トロイメライ」で(最後までロベルトを演じていた毛利さんが素敵だった)、懐かしいような落ち着いた雰囲気を作って、この演奏会が終わった。

さて、この演奏会、内容の濃さはもちろんのこと、その聴衆の多さがとても印象に残った。
約600席がほとんど埋まるほどの客数に「クラシックの生演奏を聴きたいという人がこんなにたくさんいるんだな」と改めて思った。
仕事柄、僕は一般の人よりは生演奏を聴く機会に恵まれているが、それがいかに貴重な経験であるかを痛感した出来事。

そして、今回、この演奏会に来た人たちが、生演奏の楽しさに触れ、また足を運ぶことになったら、それはとても嬉しいことであるし、きっとそうさせてくれるだろう演奏をしてくださったお三方を、いち音楽業に携わる者として(そしていち音楽ファンとして)心から尊敬している。

また、こういったコンセプチュアルな演奏会に行ってみたいなと思う。

追いかけて仙台 後編

そしていよいよ入場開始。

それまでの模様はこちらで
→「追いかけて仙台 前編

ホールの中に入って気づいたのは、ステージに対して半円を描くような席配置になっているので、僕ら3階席でもステージが近く、また見やすいということ。

僕らがTrySailのライブに行こう、となった時、行き先としてはここ仙台と名古屋を選ぶことができた。
名古屋はこのツアーのファイナルだったので(のちに幕張の追加公演が決まって、幕張が本当のファイナルになったけれど)、江戸川台ルーペは友人から「名古屋にすればよかったのに」と言われたらしい。
確かにそうだ。

トリキで参加会場を決めたときは、そこまで頭が回らなかったのだけれど、ツアーファイナルは演目や盛り上がりも違うのだから、確かに名古屋のほうが良かったのかもなー、という思いがここに来るまで、正直少しあった。
でも、いざこのホールに入って自分の席についた時、「ここを選んで良かった」と確信めいたものを感じた。会場の規模も雰囲気も、ステージと観客が一体になれる予感がしたのだ(もちろん名古屋に行ったら行ったで、それはそれで楽しかっただろうけどね)。
そんなわけで、否が応でも期待が高まり、開演まで40分ぐらいそわそわして待っていた。
左となりの席が女性で、僕が公演中に盛り上がりすぎて邪魔になったら申し訳ないなー、とか、少し距離を保ったほうがいいかなー、とか、そういうのも若干意識してしまった(大丈夫そうでした)。そばにはカップルのファンもいて、改めてTrySailファン層の幅広さについて考えたりしているうちに、ついにライブが始まった。

そして始まってしまえば、時間は一気に過ぎる。

内容は、すでに書いた通り「控えめに言って最高」だった。
ミスやハプニングもあったが、そういう不確定要素も含めてライブの楽しさを満喫できた。

僕の席からは1階席のファンの姿も見られたので、1階席の人たちの動きというか、ブレード(=サイリウム=ペンライト)の振り方とか、ノリ方をチェックしたりした。あとPAブースの位置とか、関係者の動きとかもそれとなく目に入ってしまう。
なんというか、こういうときに「主催者目線」で見てしまうのは、なんだかんだ職業病だと思う。このライブに比べて、自分が関わるイベントは(良くて)10分の1の規模のものではあるが、参考にできることはあるし、なにより、どういう部分をお客さんが一番楽しんでいるんだろう、と気にしつつ鑑賞してしまった(それが僕の良いところでもあり、残念なところ)。

僕らの斜め前に、ライブの大先輩らしきファンの方がいて、その人はブレードを持っておらずに自分の身体全身でノッていて、レベルの違いを感じた。
ファンもレベルがあがると、道具に頼らなくなるんだなと痛感する。
(揶揄する意味でなく)なんというか発光するものを持っていなくても、“存在感”というか、出しているオーラ自体が発光しているような、そういう雰囲気をもっていた。それでいて周りの邪魔にはならずに(節度をもって)楽しんでいるのがわかる。
僕は多分、その域にはなれないと思うが(だってブレード振るの超楽しいんだもん)、ここまで「好きなものがある」というのは素敵なことだし、その想いに一点の曇りもないあたりが本当に素敵だと思った。
対して自分の想いの中途半端さよ(TrySailのことだけではなくて全てにおいてね)。
こういう楽しい場で楽しい時間に身を置きながら、一歩引いてそういうことを考えてしまう自分がいた。
真面目すぎんのかもな。

そんなこんなで約2時間のライブはあっという間に過ぎた。大量のエネルギーに“のぼせて”しまうのではないかと心配していたが、逆にエネルギーをもらえた感じ。
たぶん、うまくエネルギーの波に乗れたということなんだろう。「好き」という思いが同じなら、波長があうのかもしれない。
集中力もトイレもぜんぜん平気で、あと1時間続いても余裕でついていけたと思う。そのぐらい楽しい、あっというまの“祭り”だった。

“最高オブ最高”だった祭りが終わり、江戸川台ルーペは、衛星放送かと思うぐらいに会話が遅延するほど、しばらく放心状態だったりしたが、お互いに「楽しかった」「最高」を連発し、その想いをさらに発散するために駅前の飲み屋で打ち上げ。

たぶん飲みの間、TrySailのことしか話してなかったと思う。

好きなものがあって、それについて語って想いを共有するのもまた楽しい、ということを改めて思う。
そういう意味では、江戸川台ルーペにとって、僕がその“共有できる相手”になるとは(しかも付き合いで話を合わせるのではなく、ちゃんと「話したことを理解できる」相手になるとは)、TrySailのライブに誘った42には考えられなかったことだろうし、僕の変化に一番驚いている人物ではなかろうか。
だって、彼に誘われたとき、僕は「TrySailって何?」「それ誰?」というレベルだったのだから。
それから3カ月(正確には2カ月と20日)で、イントロを聴いてほぼ全ての曲名を言えるほどCDを聴きまくったり、ライブブルーレイでコールするタイミングの予習をしたり、返品してまで「声優アニメディア」を買った経験は、20年来の友人と新たな共通の話題を手に入れられたという意味でも、その甲斐はあったというものだ。

友達だからといって、そう簡単に「共通の好きなもの」ができるわけではない。だから彼としては、僕が「付き合ってくれてる」感がまだあったのかもなー、と旅が終わった今、思ったりする。なんとなく、この旅行中、僕に気を使っていたような感じがしたのはそういう理由からかもしれない。
だけど、僕は自分自身ではかなりガチなTrySailファンになったと思うし、TrySailの存在を教えてくれた江戸川台ルーペには感謝しているのだ(と、この場を借りてお礼しておきます)。
まあ実際は「ミイラ取りがミイラになった」っていう状態ではあるけれど(使い方あってる?)、あの日のトリキで「サイリウム振りたいっす」と言われた時に、「じゃあ行こう!」と応えなければ、僕らがこうして仙台にいなかったことを考えると、未来は本当に予測がつかないし、なんというか「明るい未来」っていうのも、自分次第でいくらでもつかめるんじゃないかと思える(言い過ぎ?)。

で、23時頃飲み屋を出て、その後ホテル前のミニストップでビールとハイボールとチューハイとワイン、おつまみもろもろを買い込み、部屋で飲みの続きをしながら1stライブの映像に合わせてブレードを振った。
ライブのと、飲み会のと、二重の意味での二次会。
今日のライブでできなかった「ホントだよ」と「センパイ。」のコールもやった(馬鹿)。
結局僕らの“祭り”は朝の3時まで続いた。
こんなに起きてたの久しぶりだし、よく起きていられたな、とも思う。テンションって身体の限界を超えるのかもしれない。

 

翌日は昼の新幹線で帰るので、遅めに起床して、駅でお土産を物色。
僕が実家から要望されたお土産と、江戸川台ルーペが奥さんから要望されたお土産が同じだったのが地味に面白かった(ちなみに支倉焼です)。
お土産を買っても時間は余ったので喫茶店で時間をつぶし、短いけれど仙台滞在は終了。

支倉焼

帰りの車内は、喪失感と疲れからか、二人の会話はほとんどなかった。
黙って二人で同じタイミングで弁当を食べ始め、同じタイミングで食べ終わったのが印象的だった(ちなみに僕が食べた「牛肉どまん中」という山形のお弁当はとても美味しかった)。

これと言った会話はなかったけれど、とにかく「すごい楽しい時間だった」というものは共有していたと思う。
僕は、そういうことを話したら、なにか大切なものがこぼれ落ちてしまうとも思った。

それから僕は仕事に向かったのだが、疲れにも関わらずちゃんと働けたのは「楽しい疲れは後に残らない」という説の実証だろう(でも、ブレードを振った右手が無事だったのは、寝る前に湿布貼りまくっておいたおかげだと思う)。

そんな旅が終わって、また平常の日々が戻った。
実を言うと、飲んでいる時に「幕張の追加公演に行こう」という話もでた。
2dayの初日なら行ける日程だったからだ。飲みの勢いで、申し込みボタンを押す直前まで行った。
ただ、旅行から帰ってきて、結局それはとりやめになった。
初日の演目はファイナル公演ではないので、内容的に今回とあまり違いはないだろうということと、会場のキャパシティが仙台の約2000から7500に膨れ上がるので(ちなみに名古屋は3000)、今回以上のものは得られないだろうということがその理由だ(それでも行ったら絶対楽しいんだけど)。
ツアーファイナルに行けるのだったら、ステージが遠かろうがなんだろうが参加したのだけれど、その日は僕自身が主催のイベントがある(司会もする予定)。さすがに自分の仕事をうっちゃってまでは行けない。
規模は小さいけれど、僕も、僕のイベントを楽しみにしてくれる人たちのために全力を尽くさなければならない。それは末端とはいえ、同じくイベント業に身を置く僕の挟持だし、守るべきものなのだ。
そうやって、自分のできることを積み重ねていけばこそ、次にTrySailのライブに行ったときにも、全力で楽しめるんだと思う。

このライブに参加する前と後で、僕の考えにちょっとした変化があったことも確かだ。
とにかく楽しいことをたくさんやろうと思う。楽しそうなことに積極的に参加していこうと思う。

人生は短い。
ましてや僕は不惑を超えて、折り返し地点を過ぎてしまっているのだ。
後悔するより、悩むより、前に進もう。
そういう思いを強くした二日間だった。

またあの“最高オブ最高”のライブに参加する時に、今よりも(いろんなことに)自信をもって臨めるように頑張りましょうかね。

それはきっと遠くない気がする。

仙台は桃色に染まり、青く燃え、そして黄色い光が射した

TrySail仙台公演。控えめに言って最高だった。

あらかじめライブブルーレイを1st、2ndと3回ずつ観て、さらに最新アルバムを聴きまくって予習をしておいたので、ソロ曲以外は全部口ずさめた。
何事も準備が大切だと改めて思う。
Twitterを見ると、このソロコーナーで歌われた曲はこのツアーで歌うのが初めてのものばかりで、とくに天ちゃんの「VIPER」は本邦初公開。
そういう点で今回の仙台公演は「神セトリ」だったようだ(その辺りが共有できないあたりがまだニワカの証)。

それにしても、ブルーレイのファイナル公演も素晴らしいけれど、それとはまた違った、地方公演ならではのファンサービス的な演出しかり、会場のサンプラザホールのステージを包むような半円形の構造しかりで、ライブ感というか、ステージと客席の一体感は想像以上だった。

僕らは3階席2列目、中央やや左という位置だったが、肉眼でも十分3人が見れた。オペラグラスも持っていって2回ほど覗き込んで表情も見られたけれど、なくても後悔しなかったと思う。
あとチケット確認した時は「1列目が良かったなー」とか思っていたけれど、2列目だったおかげで、前の諸先輩方の“ブレード”(サイリウムね)の振り方が参考になったし、しっかりステージも見れたし、TrySailライブ初参加の僕らにとっては、そういう点でもベストな席位置だった。

これ以上を望むのは罰当たりとは思うが、欲を言えば、掛け合いのある曲をせめてあと1曲は欲しかった(具体的には「センパイ。」か「ホントだよ」のどっちかはやってほしかった)。
アンコールの抽選曲が「Baby My Step」だったから良かったものの、コールアンドレスポンス的な曲をもうちょっと聴きたかった(声出したかった)。

ただ、TrySailのツアーも3年目となり、それぞれのソロ活動の比重が増えてきた今、このユニットを今後どう続けていくかという課題を踏まえると、「聴かせる曲」を多めにしてアーティスト路線を探るという方向性はわかる。ツアー終了後に反応を見てまた来年以降の方向性を考えていくのだろう。
その辺は彼女たちの成長に期待して待とう。

とにかく、仙台公演は3人のやりとり(駄々こね!)や、もちょの誕生日(6/25生まれ)を祝って会場全員でハッピーバースデーを歌うなど、色々な意味で貴重だったし、初参加が仙台で良かったということでも、出だしに書いたように控えめに言って最高オブ最高だった。

このライブに関わった全ての方々、お疲れさまでした!
そしてありがとう!

きっとまた行くので、その際はご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

飛躍 「石神井Int’lオーケストラ 第6回定期演奏会」

石神井インターナショナルオーケストラ(石オケ)の定期演奏会に行った。

これで6回目となる演奏会だが、振り返ってみると、練馬区に所属する石オケなのに、これまでの定期演奏会を「ホームグラウンド」の練馬で行ったのは、これで2回目。第2回の演奏会以来だ。
場所は同じ練馬文化センターだが当時は小ホール。今回は大ホールでの公演で、それは堂々の凱旋公演と言えよう。

僕は本公演開演ギリギリで到着したのだが、空席が見当たらないほどの客入りで、1曲目の「ホルベルク組曲 OP.40」(E.グリーグ)は立ち見で聴くことになった。
このホルベルク組曲の第1楽章が本当に良かった。
広い舞台に劣らない音の厚みがあるのは、チェロ、コントラバスという低音弦の充実と共に、団員が舞台の大きさに臆さず堂々と演奏できていたからだろう。

第1楽章が終わったときに、拍手がおこった。
楽章間では拍手をしないのが約束事となっているが、おそらくそれをわかった上でも、拍手を送りたかった人が多くいたからだと思う。
ここで拍手をするのが、当然なぐらい素晴らしい、そしてこれから今日の演奏会への期待をさせる第1楽章だったからだ。

この曲は特に第1ヴァイオリンが素晴らしかった。
ピチカートの部分などは、音も揃っているし、弾く動作もそれぞれ少しずつ個性がありながらも姿が揃っていてとてもカッコよかった。

 

続いて、イリノイ大教授で、5弦ヴィオラの奏者ルドルフ・ハケン氏を迎えての「5弦ヴィオラの為の協奏曲」(ルドルフ・ハケン)。

この曲を理解して弾くのは大変だったろうと思う。
作曲者自らがソリストを務めるので、曲の世界観を教わることは可能だったはずだが、それを理解し、かつ共有するのでは話が変わってくる。
この曲はカントリーっぽいものからジャズっぽいところ、ハリウッド映画の劇伴のような部分など、アメリカ大衆娯楽の歴史を感じる楽しい曲ではあるが、その分、ひとつの曲としてまとまらせるには力の入れ具合、さじ加減、ソリストとの意思の疎通といったものを演奏中に行わなければならないのだ。
それでも、この曲の肝といえる「アメリカ的」な音楽性をきちんと感じさせられ、ソリストのハケン氏とオケの掛け合いのなどのコミカルな部分は聴くこちらも楽しい気分になった。

他の曲と違い、この曲はこの場で初めて聴く人ばかりだったはずだが、事前知識なしでも楽しめる曲だった。

 

休憩をはさんで、ジョン・ケージ「4分33秒」に入る前に、音楽監督の西谷国登さんによるクラシック音楽の歴史(バロックから現代曲まで)のミニレクチャーがあり、プロ奏者4人のアンサンブルも楽しめた。ホルベルク組曲の第5曲でも、安藤梨乃さんと手塚貴子さんのソロがあったように、「アマチュアオケの演奏を聴きにいって、プロの演奏も聴ける」というのは、石オケの強みだと改めて思う。

さて、「4分33秒」。
3楽章全てが休符、つまり無音で演奏される(と言っていいのだろうか)この前衛的な曲は、人の数だけ解釈がある。初めて聴く僕が感じたことは、演奏者にとっての休符とは、己を見つめる時間なのではないか、ということだ。
聴衆を前にしているのに無音、というのは演奏者にとっては恐怖だろうし、ましてや楽器を手にしているのだ。それなのに、曲が始まっても休み続けるという行為はかなりの苦行である。
指揮者も当然、指揮をしたくなるだろうし、演奏者は音を出したくなるだろう。その衝動と戦う葛藤が舞台から感じられた。それは3楽章制であるこの曲の楽章間の「休み」と、演奏中の「休み」が目に見えて違うのがわかったからだ。
演奏者にとっては弾く以上に休むほうが疲労を覚えるのではないかと思うし、弾きたいという欲求を抑え込めるギリギリのラインがこの“4分33秒”という時間なのかもしれない。
その点で、この曲を傑作ととらえるか駄作ととらえるか、考え方が変わってくるのだろう。いずれにせよ(5弦ヴィオラを組み込んだ4分33秒としても)この演奏に立ち会えたことは貴重な経験となった。

 

最後の曲は、チャイコフスキーの「弦楽セレナード ハ長調 OP.48」。
印象的なフレーズ(「オー人事」のアレだ)がいくつも折り重なる壮大な第1楽章に始まり、華やかな第2楽章につながる。後半にいけばいくほど、しっかり弾かないとダレてくる曲で、普段このオケのトップで演奏しているプロ演奏家たちが最後列にまわるという配列で演奏された分、団員は他の曲以上にプレッシャーや不安があっただろう。
第4楽章で、低音部(チェロ、コントラバス)がフレーズを主導する部分があるのだが、最初はその不安さが音に乗ってしまったのがわかった。しかし、その直後のフレーズで他の3パート(第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ)がしっかり支えたことで、立て直し、2度目以降の同フレーズはぐんと良くなった。いつもであれば支えてくれている低音部へのエールのように感じられ、こうやって曲の中でオケ同士が励まし合い、支え合う姿に感動したし、プロを後ろに控えさせながらも、そういうフォローができることに成長を感じた。

 

そしてアンコールはS.バーバーの「弦楽のためのアダージョ」だが、この曲は今までのアンケートの中で、「弾いてほしい曲」で最もリクエストの多い曲だったそうだ。
今回の演奏は、そのアンケート回答に応えたことになる。

 

「応えること」。

それが市民オケの役割だと思う。

今回多くの客席が埋まったのは、石オケが「みどりの風 区民コンサート」や「練馬ユニバーサルコンサート」など、要望に応えて、地元に密着する舞台で演奏する市民オケとしての道を確実に歩んできたことの証だろう。

石オケの団員が地元の人から愛され、同じ舞台にあがることが音楽愛好家の憧れとなり、聴衆の期待に応える存在になる。

その価値が今のこのオケには十分ある。
舞台にあがるメンバーも観客も顔見知りの多い、いわゆる“おらが”オーケストラから、広く音楽好きの地元人たちから支持される“市民のオーケストラ”として受け入れられたのを感じて、僕は終演後、しばらく動けなかったほどだ。
昨年「市民オーケストラ」のスタートラインにたったばかりに思われた石オケが、1年でここまで辿り着いたことに、正直驚きを感じている。
それは初期から応援してきた自分にとって嬉しく誇らしい反面、自分の知っているオーケストラが手元から離れてしまったような、一抹の寂しさもある。

ただ、これから高いレベルで、そしてより大きな様々な舞台で演奏をし、多くの人から受け入れられるためには、通らなければいけない道でもあるのだろう。

来年の演奏会は再び練馬を離れ、杉並公会堂大ホールが舞台となるそうだ(2020年6月20日)。団員の方々には、今回の地元公演を踏まえ、「練馬区に石神井インターナショナルオーケストラあり」という姿を、他の地域の音楽ファンに届けるチャンスと捉えてほしい。そして聴衆の方々はその日をぜひ楽しみに待っていてほしい。

より多くの人に、石神井Int’lオーケストラの音楽が届くことを願っている。

西谷国登&新納洋介 デュオ・リサイタル

ヴァイオリニスト 西谷 国登とピアニスト 新納 洋介のデュオ・リサイタルが開催された。(at ヤマハ銀座コンサートサロン)

前回の西谷さんのリサイタルでは、新納さんのピアノは伴奏という役割が強かったが、今回のコンサートの趣向はピアノのソロ曲とヴァイオリンのソロ曲を揃えて、交互にソロを弾く、という、いわばダブル主演という形をとるということ。
ヴァイオリンもピアノも楽しめるのは贅沢だが、演奏者(とくにピアニスト)にとっては気の抜けない構成と言える。

1曲目の ファリャ作曲/クライスラー編曲 歌劇「はかなき人生」よりスペイン舞曲 は、ヴァイオリンのテクニックが詰まった曲で、西谷さんの手元の動きと、そこから奏でられる音を聴くことで、ヴァイオリンを弾けない僕にでも「すごいことやってるなー」というのがわかる。舞台が室内楽サイズのため、技術が間近で見え、よりその凄さが感じられた(このあたりは選曲の妙だ)。

続いてピアノのソロ。
次のヴァイオリンソナタへつなぐ意味もあってか、 グリーグ作曲「トロルドハウゲンの婚礼の日」op.65-6 を演奏。
新納さんのピアノソロを初めて聴いたのだが、ヴァイオリンリサイタルで感じた、ていねいさの中に遊び心のある演奏はそのままに、さらに男性ピアニストらしい大胆さと音の厚みがあって、ピアノの性能を120%ひきだすような演奏だった。

そして前半の最後は グリーグ作曲 ヴァイオリンソナタ第3番ハ短調op.45。

今回のコンサートが“ダブル主演”であることを意識したのか、たとえヴァイオリン・ソナタであっても、新納さんが前に出るというか、主張の強い演奏をしているように感じた。
それは「室内楽」というサイズならではなのかもしれないが、ヴァイオリンリサイタルのように裏方に徹して支えるというだけでなく、時には競いながら、時には寄り添いながらといった、ヴァイオリンとピアノの攻防のような印象をもった。
西谷さんも時にそれを受け止め、時にピアノを引き出し、なおもヴァイオリンの音色と混ざり合わせ、曲を昇華させていく。

二人のコンビネーションが2回のリサイタルと2枚のCDで結実してきたからか、あるいは室内楽的な場だからか、ともすれば、ヴァイオリンソナタという形式では「伴奏」として没個性となってしまうピアノ演奏を、新納さんは、ピアニストにしかわからないマニアックな魅力だけでなく、ヴァイオリンと渡り合うことで、この曲におけるピアノ自身の魅力を十分に披露していた。
そして西谷さんのヴァイオリンもそれを承知の上で「ヴァイオリン・ソナタ」という定石を守るようにコントロールしていく。
それは決して主導権を握り合うといった争いではなく、お互いの信頼関係の上で成り立つ、熟練した達人の演舞を見るような感覚だった。

あるベテラン俳優はセリフを脚本通りにせず、内容に沿いながらもほぼアドリブで芝居をするそうだ。それに周りの役者がどう反応するか、どう絡み合って、それでも筋書き通りに話を進めていくのか、といった勝負のような、知的ゲームのような高度なやりとりをしていると聞いたことがある。
音楽は、特にクラシック音楽は楽譜通りに演奏するのが定石で、それを崩してしまっては邪道になる。「定石通りではつまらない、崩しすぎると白けてしまう」というジレンマの中で、西谷さんと新納さんが、お互いの力量を信頼した上で、クラシックから逸脱しないギリギリの丁々発止の演奏が行われた。

西谷さん自身もリサイタル直前のブログ

新納さんと演奏することは、特別楽しく熱いです!自由に演奏させてくれるだけではなく、奏者の良さを色々と引き出してくれます。そして、伴奏に徹しているわけではなく、新納さんも色々と仕掛けてくださるので、音楽のキャッチボールが見事に出来てる感じで面白いです。観ている側もそう思ってもらえればと思います。

と書いているように、演奏者達の狙いどおり、聴いているこちらも、心地よい疲れが出るような素晴らしいヴァイオリンソナタだった。

休憩をはさんで、新納さんのソロは ブラームスの6つの小品op.118より第2曲。

演奏前に、新納さんから、もともと予定ではショパンを演奏する予定だったが、ピアニストにとってショパンとリストは特別な曲で、それを弾いてしまうと、その後はもう弾けない、というぐらい神経を使うらしく、この曲に変更したというコメントがあった。
これはとても興味深い。考えてみれば当たり前のことだが、演奏者は、力加減やペース配分を考えて演奏会のプログラムをつくる。
新納さんにとっては、自身のピアノソロと、ヴァイオリンソロの伴奏、ヴァイオリン・ソナタの演奏と、これだけ盛りだくさんの内容に加えて、ここでショパンを組み込んでしまうと、演奏のレベルが保てない、ということだろう。
聴く側はあれもこれも演奏してほしいと思うものの、高いレベルの演奏で楽しませるためにプログラムというものがきちんと決められているんだな、と改めて考えさせられる。

ピアノソロに続いての ブラームス ヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調では、グリーグでの競り合いから少し抑えめに、そのゆったりとした曲調も手伝って正統派にまとめていた。「緩急」で言えば、今回のプログラムの「緩」を担ったヴァイオリン・ソナタらしいまとまった演奏だったと思う。

そのあとに、ラフマニノフの曲を3曲ソロで弾いた新納さんだが、この時はまさに圧巻だった。
最初の 楽興の時op.16より第3番 の時から、曲の世界に浸っているのはわかったが、 前奏曲集op.23より第6番 でさらにエンジンがかかり、続く 第2番 では、鬼気迫る熱演。
新納さんがピアノを弾いて曲を歌っているというよりも、ピアノ自身が歌っているように聴こえる不思議な体験をした。
トークのときは、その人柄か、素朴で控えめに話すのに対して、ピアノでは雄弁に語る、むしろピアノに語らせる、ピアノ自身が歌っているように錯覚させる演奏を初めて聴いた。聴いているこちらにも緊張が走るような熱演。
とても良いものを聴けた。

そしてプログラムの最後を締めくくるのはサラサーテ作曲の カルメンファンタジーop.25。

西谷さんから演奏前に説明があったように、この曲には様々なヴァイオリンのテクニック、それも「超絶技巧」と呼ばれるものが多く使われている難曲。この曲を2時間近くの演奏会の最後にもってくるのだから、二人の力量の凄さとお互いの力量への信頼度がわかる。
その説明どおり、ヴァイオリンという弦楽器ひとつで、これほどの表現が可能なのだ、ということを見せられた(文字通り“視覚的に”)。
実際にヴァイオリンを弾く人は曲を聴いただけで、そこに使われているテクニックがわかるのだろうが、実際に見て、改めてその技術の高さが分かる曲。
西谷さんの左手の動き、弓の動きひとつひとつが演奏者にはお手本となり、聴衆には超絶技巧として楽しめる。
これこそ西谷国登というヴァイオリニストの真骨頂だと感じさせた。

テクニック曲で始まり、それを上回るテクニック曲で終わる。
そういった趣向も含まれたリサイタルだったと思う。

さて、アンコールにもふれておきたい。

本コンサートが、テクニックで魅了して終わったのに対し、アンコールは、西谷氏と新納氏の二人の“競演”のエクストララウンドといった様相だった。

「愛の挨拶」では、新納氏の楽譜が見当たらず、“愛が行方不明になる”というハプニングもあったが(無事、ステージ裏で見つかった)、ここでも最低限の約束事は守りつつ、お互い自由に弾き合うという演奏で、生演奏でしか体験できないものを聴かせてもらった。

その意向をさらに押し出したのは、ダブルアンコールの「好き勝手チャールダッシュ」。
これは、クラシックというよりジャズの感覚に近く(ジャズアレンジという意味ではなく)お互いが、この曲でどれだけ遊べるかにチャレンジした演奏。
プロ同士なら練習中にこういう遊びをするんだろうな、と思うが、それを観客の前で披露して、しかもきちんと楽しませるというところが二人のプロフェッショナリズムなのだろう(もちろんアンコールだからできること、と、チャールダッシュは誰もが聴いたことがあるだろう、ということも計算済みで)。

とにかく2時間、ただ「良い演奏を楽しんだ」という以上に「二人が作る世界に引きずり込まれて参加してきた」といった感じのリサイタルだった。
次回、二人の演奏を聴く際には、聴衆もその世界に引き込まれる覚悟が必要かもしれないなと思える、録音では得られない、まさにライブの楽しさを最大限に感じる圧巻のデュオ・リサイタルだった。

人生の先輩に教わること

ジャズピアニスト 新井栄一さんのプロデュースするシニアジャズバンドのコンサートに行ってきた。
題して「トワイライト(黄昏)コンサート」。

新井さんには大変お世話になっている関係で、シニアバンドとソロの発表会コンサートには何度かお誘いいただいている(前回は自曲を歌わせていただいていたりもする)。

いつも思うことだが、もう還暦はおろか古稀や喜寿を迎えているような方々の演奏である。人生の先輩が演奏している姿はとても素敵だ。しかも一人の人がピアノ、ベース、ドラムと複数の楽器を演奏するのだ。
これは新井さんの教育方針でもあるらしいが、楽器を複数練習することで、曲やセッションに対する理解度を体感で覚えさせる意味があるようだ。

人生の大先輩たちが、懸命に演奏する姿はとても素敵だ。
正直、上手い人もいれば下手な人もいる。ただ誰しもさすがに年の功、度胸があるというか、物怖じせずにひたむきに曲に打ち込んでいる。しかもちゃんとバンドメンバーの音を感じて、自分の入りや力配分を考えて弾いている。

「新井栄一と時代屋」というレジェンドクラス揃いのジャズマンたちがサポートしてくれる安心感はあると思うが、音楽と向き合う時、アマチュアもプロも関係なくなるのだな、とつくづく思う。
音楽を前にすれば年齢も性別も経験も関係なくなる。ただ、真摯に向き合っているかどうかは見透かされてしまう。
それはちゃんと自分の人生が音楽に載っているかどうかだ。

その点、このシニアミュージシャンたちは皆が、自分の人生を音楽に載せて奏でていた。ある人は控えめに、ある人は大胆に。
そして聴衆もその音楽に自分の人生を少し重ね合わせている。だから、その場はすごく幸せな空間になるのだ。

僕も音楽を嗜む端くれとして、強い影響を受けたコンサート。
自分も音楽に真摯に向き合わないといけない。

「クニトInt’lユースオーケストラ 第5回定期演奏会」

石神井Int’lオーケストラ定期演奏会と同じ日に、姉妹オケであるクニトInt’lユースオーケストラの定期演奏会も行われた。

聴いた感想をひとことにすれば、
はっきり言ってこれは「子どものオーケストラ」ではない。

団員は小学生以上高校生以下。ほとんどが小中学生であるが、いわゆる「小さな子が頑張って演奏している」演奏会ではないのだ(もちろん、そういう可愛らしさもあるが)。

第1部の「セントポール組曲」と「シンプルシンフォニー」。
合奏曲としてはさほど難しくない曲なのかもしれないが、ただ楽しんで弾くだけでなく、しっかり大人の演奏、つまり指揮者に求められるレベルの音を出そうと、皆が真剣に弾いているのだ。
もちろん石オケからの賛助メンバーやプロ演奏家である講師が音楽的な支えとはなっているのだろうが、その存在に決して甘えることなく自分の演奏に徹する団員たちの姿からは「子ども」と「大人」を区別することはできない。
「ステージに上がった以上はすべての演奏家が対等」というようなことを考えさせられた。

音楽監督・指揮者の西谷国登さんも、演奏前に声がけをしてモチベーションをあげたり、団員の緊張をほぐす間をつくったり、と石オケよりもアプローチの仕方を増やしていたけれども、曲が始まってしまえば遠慮なく指揮をふる。
団員を「子どもとして」ではなく、きちんと「いち演奏家」として扱う姿は、このクニトオケの子どもたちの音楽的成長に大きな影響を与えるだろうと思った。

 

そして世界で活躍するピアニスト、ジャスミン荒川さんと共演できたことも、大きな影響を与えただろう。
曲はリストの「ピアノ協奏曲 第1番」。
3楽章制のアレンジだったが、団員も最後まで集中力を切らさずにジャスミン氏の演奏を支えた。
そして、ジャスミンさんの演奏は圧巻のひとこと!
まさかアマチュアの(しかもユースの)オーケストラでこういう演奏を聴けたというのは、聴衆にとっても嬉しい驚きだったに違いない。

西谷さんが「超一流の腕前」と絶賛するピアニストと一緒に演奏する機会を小さいうちから得られたことは、貴重な財産であり、贅沢な経験だろう。今は、その意味がわからない団員もいるかもしれないが、年齢を重ねて演奏を続けていく中で、この経験が生かされる時が来るはずだ。

 

アンコールの「ホルベルク組曲」まで変わらぬ「大人の顔」をした演奏を続けたクニトInt’lユースオーケストラの団員たち。
このメンバーたちが音楽的に、そして人間的にどう成長するのかも楽しみになってくる。そんな演奏会だった。