お盆休み的な

自分にとっては定休日だが、世間的にはお盆休み。

『ライオン・キング』を観に行ったのだが、平日だと思っていたのが迂闊で、劇場は家族連れや中高生カップルで溢れていた。
スクリーンはさほどではなかったが、売店が激混みでびっくりした。
「映画不況」みたいなことを数年前から聞いているが、娯楽としての映画の力はなんだかんだあるのではないかと思う。

さて、『ライオン・キング』はアニメをDVDで一度観たことがあって、なんとなく筋書きを覚えている程度だったが、実際に超リアルなCGで“再現”された映像を見ると、「ああ、こんなシーンあったわー」と思い出すような感じがした。
CGは精巧に作られているが、「動物が演技をしている」と思うよりは、やっぱりマンガチックではあるが、それが良いのかもしれない。
ある一定以上リアルになると、もっと違和感があっただろうけれど、ギリギリ、リアルとアニメの境界線を狙った視覚効果だった。
なぜ、この映画を観たか、というと90%はジョン・ファヴローが監督だから、ということなんだけれど、世界最先端のCG技術も堪能できた。

そんなわけで、今日はレストランも喫茶店も混んでいた。
普段、平日休みばかりなので、逆に新鮮ではあったが、やっぱり、自分は平日休みが慣れてるのかなーとも思う。

そして明日からはまた通常営業。
とりあえず働いとこう。

観てから語る『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』

まずは『アサルトガールズ』という映画について語っておかなければならない。

押井守が監督したこの映画は、『攻殻機動隊』や『機動警察パトレイバー』などの作品を手掛けたアニメ界の重鎮がとった「実写」映画ということや、黒木メイサ、菊地凛子といった、当時旬の女優が出るということでそこそこ話題になっていたと思う。

押井監督のその前の実写映画『アヴァロン』が好きで、それがあったから、僕はこの映画を劇場に観に行った。
当時から友人だった江戸川台ルーペを誘って。

そして観た直後の感想はこうだ。

「支配人を呼んでください」。

いや、これは劇場で流すレベルの作品じゃない。
ハリウッド作品だったら確実にビデオスルーものだし、押井監督自身も劇場のスクリーンで放映されることを考えてなかったんじゃないかと思うぐらいの全然ダメダメで、嫌悪感しか残らない映画で、これを流した劇場支配人にコンコンと説教をしたくなる作品だったのだ。

付き合ってくれた江戸川台ルーペのおかげで、その溜まった感情を共有することができて、本当に助かったのだけれど、ひとりで観ていたら、多分観に行った自分を責める日々が続いたと思う。
そんな映画だ。

 

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』はそもそも観るつもりはなかった。

悪評が立たなかったとしても、だ。
だから悪評がたったときには迷わずネットでネタバレ感想を見た。
それで一層観る気はなくなったのだけれど、もし劇場で観るのだとしたら、それは江戸川台ルーペと一緒に、としか考えられなかった。
そして、奇しくも彼がTwitterで「観たい」とつぶやいたのに反応し、その日のうちに観る日を決めて、一緒に観ることになったのだ。
いやはや人生は面白い。

さて、このあとはかなりのネタバレで語っていくので、知らずに映画を観たい方は、この先は観てからお読みください(観てない方は参考までにこちらを→過去ブログ「観ないで語る『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』」)。
観た方はきっと共有できる部分があるから読んでほしい。

そして、まだ観てない人に観た僕から一言だけ言わせてもらいたい。

この映画は、ドラクエファンであればあるほどネタバレを知ってから観たほうが良い。

(以下、ネタバレを含みます)

 

 

さて、ネタバレを知った自分が観た感想としては「思ったよりひどくなかった」だ。
支配人を呼ぶレベルではなかった。

はっきりネタバレすると、映画開始から90分ぐらいは、端折っているとはいえ、原作の『ドラゴンクエストⅤ』をきちんとトレースして進んでいくのだが、いざラスボスとの戦闘という時、それまで描かれていた『ドラクエⅤ』の世界は全部バーチャルリアリティでつくられたゲーム世界で、主人公は現実の記憶を封印され、ゲームセンターのVR設備に入っているいちプレイヤーだったのだ!という展開を見せる。

それだけでは事足らず、その世界を壊すために侵入してきたウイルス(ラスボスに寄生している)に、「ゲームばっかりしてないで大人になれ」と説教されるのだ。
これがドラクエファン、ゲームファンの思いを逆なでする演出と言われているのだけれど、まあ当然「喧嘩売ってるとしか思えない」演出だよね。
それにしても、この展開ははっきりと不快感を感じる驚きだった。

ウイルスが侵入して『ドラクエⅤ』の世界が止まった瞬間は、ネタバレを知っているのにドキドキしてしまったから、知らないで観たら絶叫してたかもしれない(それまた結構エグい、心を壊すような映像演出なんだよね。そういうところ凝らなくていいから)。

ただ、ネタバレ感想を読んだ時点では、現実の主人公が、もっとこう社会から逸脱した存在に描かれている(だって記憶なくしてゲーム世界に現実逃避するぐらいなんだから)と思っていたのに対し、実際の主人公は割とカジュアルにゲームを楽しんでいたので、救われた感じがした。
それで、この超展開については「思ったよりひどくなかった」と感じたのだ。

で、上記した展開はもちろん最悪なんだけれど、それまでの“本編”を見てるときに若干飽きてしまったのが、この映画がダイジェストものとしてもダメなところ。
ドラゴンクエストのゲームでは“堀井節”とも言える牧歌的なセリフやリアクションが多いので、それゆえ、物語を描く際にユーモラスな展開にならざるを得ないのかもしれないが、ボスとのバトルも「わわわー!」とか言いながら、思いつきの作戦で勝ってしまうという感じで、バトルの凄みがなかったのも不満。もっと、主人公らしい強さが欲しかった。
全体的にコミカルな言い回しが多く、話の持っていき方が初期のドラゴンボールような印象を受けた(ピンチに陥った時に仲間がかけつけるのは「友情・努力・勝利」の週刊少年ジャンプっぽくもあった)。

また今作のフローラはビアンカより断然可愛く、さらに聡明で献身的という「理想の嫁」として描かれている。
対照的に、出番もたいしてない「ただの幼馴染」で、主人公は「背中を預けられる」と言うけれど、その実“ガサツなだけ”に感じられる本作のビアンカを比べると、常に『ドラクエⅤ』でビアンカを選び続けてきた僕だってフローラを選びたくなるほどだ。

ここにも伏線があって、現実の主人公がいつもビアンカを選んでしまうので「今回は絶対フローラ!」と宣言しVRに入ると、自己暗示プログラムが作動してフローラを選ぶ道のりができるのだが、その実、深層心理ではビアンカを選びたがっている、というオチが後でわかる。
でも、これだけでは「深層心理がビアンカだ」とは限らないだろう。最初の「フローラを選びたい」という思い自体が、深層心理と同じ可能性もあるのだ。そういうあたりの雑さも酷かった。

で、最後の超展開に戻るが、アンチウイルスを使って、ウイルスを倒し、ゲーム世界を取り戻すのだけれど、そのアンチウイルス(最後の武器)のデザインが「ロトのつるぎ」。
僕はここで一番イラっとした。

山崎貴監督は『ドラクエⅤ』をプレイしていないらしいし(真偽は不明)、インタビューで「ドラクエだけに関わっているわけにもいかないので」と言った(これは本当)ことから、この作品に愛が感じられない、という批判もあるが、僕は、製作者が対象に必要以上の思い入れを持っている必要はないと思うタイプなので、そこはまあ良い(でも、総じて「愛のあるもの」のほうが人の心をつかむ確率は高いと思う)。
ただ「ここで、ロトの剣出しておけば、ファンは喜ぶんでしょ?」みたいな安直な考えを感じたのが、一番頭にきたところ。天空シリーズにロトの剣出すな。
「雑!」

でも、現実の主人公を、ゲームで育った大人に描いたことには皮肉を感じなかったことから、山崎貴は、この展開がドラクエファンに好意的に受け入れられると思っていたように考えていたのではないかと思う。
だから、逆に、今の批判の嵐に「なんで?」となっているのではないだろうか。
本人(とスタッフたち)にその気はないのに、結果的に喧嘩を売っているというピュアな悪意(これが一番タチが悪い)ともいえる。多分、これが観客に受け入れられる、感動してもらえる、という想いに溢れている。
「大人になれ」と言いながら、作り手がやってることが一番子供(というか、ひと昔前で言う厨二病)なんだよなー。

「僕らが解釈した『ドラクエ』ってこれです!どうですか!(キラーン)」

と出したものが全然ダメダメだと本人だけが気づかないという、ピュアな悪意。その作り手と受け手のすれ違いが逆に辛い。

結局、僕も含めて、ファンの思いは

「俺のドラクエをこんなにしやがって!」という思いに尽きる。

「ドラクエでそれやるなよ」と。

ただ、単独映画でこれやっても、単なる駄作だろうけど、ドラクエでやれば歴史に残る駄作だからなー。
その点だけには、関係者の確信犯的なものを感じる。

 

さて、何度も書くが、僕は「ネタバレ」を知っていてこの映画を観た。
でも一緒に観た江戸川台ルーペはそうではない。
物語の最後の最後まで感情移入していた世界が崩れ去った時、彼はどういう思いで、この映画を観ていたのだろうか。
それを思うと、終わった後も迂闊に声をかけられない心境だった。

駄作だということは共有できたけれど、今回に関しては100%思いを共有できたわけではなく、その点で江戸川台ルーペには申し訳なく思っている。

ゴメン、ルーペ。

でも、僕的には、この映画は江戸川台ルーペと観て正解だったとも思っている(彼的にはわからないが)。

ありがとう、ルーペ。

そして作品の感想ではないが、もうひとつ、どうしても触れておきたいことがある。
それは、上映後の観客の態度だ。

上映が終わった瞬間から、みんな堰を切ったように友達に感想を言い始めた。
賛否両論というより、否か「まあしょうがないか」しかないこの映画について侃侃諤諤語ることが楽しそうだった。
そう、これだけ「酷いもの」を観せられても、作品に関して、様々な意見を交わす姿は、断然「大人の態度」だった。

山崎貴は、作中でドラクエファンとゲームファンに「大人になれ」とケンカを売ったが、ほとんどの人がそのケンカに乗らず、「若造がなーにわかったようなこと言ってやがるんだ」的な扱いをされていた。
完全に子供扱い。もっといえば、煽ってみたものの、相手にすらされてなかったとも言える。

僕は、ドラクエという作品がいかに愛されているのかを痛感し、山崎貴がどんなに背伸びしても全くもって敵わない存在であるということがよくわかった光景でもあった。
その点で、山崎貴の(ドラクエと、そのファンに対する)完全敗北なのだ。

 

さて、これが、僕の『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を観てから語れる全てである。

でも、これはあくまで、結末を知って観たからの話。
結末を知らないで観たとしたら、僕の感想は…多分「支配人」じゃない、

 

「関係者を呼んでください」。

観ないで語る『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』

『ドラゴンクエストⅤ』について、僕が語れるのは、内容よりもそれにまつわるエピソードのほうだ。

自分の中で『ドラクエ』は、「ロトシリーズ(『Ⅰ』〜『Ⅲ』)」とともに卒業した思いもあって、『Ⅳ』〜『Ⅵ』は自分で購入はせず、発売から少し経った頃に友人から借りたのだった。
特に『Ⅴ』は、当時珍しいゲーム好きの女友達(美人)に借りてプレイした。
お父さんもゲーム好きという(これまた当時としては)珍しい家庭に育っていた人だった。
まだ携帯がない時代で、僕は彼女の家に電話をかけて、まさに“その”お父さんが電話口にでてしまったことがあり、とてもビビった思い出がある(今、思い出しても若干焦る)。

その後『Ⅴ』はクリアしたものの、その人とは(なにかあったわけではないけれど)なんとなく疎遠になり、返しそびれてしまったスーパーファミコンのソフトはまだ実家にあり、いわゆる「借りパク」という状態になっている。
もう連絡が取れない相手なので、そのソフトはこのまま僕の実家で眠り続けるのだろう。
そのことをとても申し訳なく思っていて、結婚というのが大きなエピソードのゲームだけに、許されるならば責任とって結婚したいと思う(相手にはいい迷惑)。

さて、そんな『ドラクエⅤ』、クリアまでしたのに今ひとつストーリーは覚えていない。
結婚イベントなるものが衝撃すぎたのかもしれないし、当時はすでに大人だったので「もう、ドラクエとかじゃねえよな」みたいな思いで、なんとなく斜に構えてプレイしていたからかもしれない。
DSで出たリメイク版も子供が育ったところまでやったが、結局クリアしていないのだ。

自分にとって『ドラゴンクエスト』といえば結局ロトシリーズ(特に「Ⅲ」)が僕にとっての思い出であり、レジェンドであって、あとは「よくできた、安定のRPG」という感覚なのだろう。

それでも『ドラゴンクエストⅤ』はシリーズ屈指の名作、と言われているぐらい人気があり、それを原作にした映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が絶賛公開中であり、ネットでは絶賛炎上中でもある。

僕は、この映画のビジュアルを見て、3DCGで描かれたキャラクターがドラクエっぽくなく、つまり鳥山明感がなく、もっと言えば「こんなの俺の(俺の?)ビアンカじゃねえ!」という時点で、まったく観る気がなかった。
それでも、山崎貴という日本CG界では屈指のクリエイターが監督だし、佐藤健を初めとした出演者たちは豪華だし、なにより、ちゃんとスクウェア・エニックスや堀井雄二がお墨付きをつけている映画である以上、そうそうヘマするものはできないだろうとは思っていた。

でも、ヘマしたらしい。

前述のとおり、僕はこの映画を観るつもりがなかったので、どれだけヘマをしたのか、ネタバレ感想を読んでみた(だいたいストーリーはゲームで知っているので、ストーリーバレは別に構わないと思っていた)。

なるほどー、それは炎上するよなー、というのが率直な感想だ。

僕は、ゲームにとっての「良いストーリー」と、小説や映画の「良いストーリー」は別物だと思っているので、ストーリーが変わってしまったとか、そういうのはそれはそれでいいと思っている。
結局は、それが観客(というかほとんどのドラクエファン)に受け入れられなかった、という点が炎上の原因なんだろうけれど、それにしても、作っていた人たちは、この映画の観客、ビジネスマン的に言えば「ターゲット」をちゃんと考えていたのだろうか、と疑問に思う。

「これをやったらファン怒りますよ」と、誰かが言わなかったのかなーと思う。

堀井雄二がそれを言わないのはなんとなくわかる。
これまでの仕事ぶりをみると、一度自分の手から放したら、あとはクリエイターにまかせるというタイプに思うからだ。
でもスクエニは言ったほうが良かったんじゃないかなー。

僕が読んだ感想自体が、実は本当は「観た感想」ではなくて、「ネットで集めた情報の断片」から切り取り集められて書かれたものである可能性もなくはないので(インターネットってすっかりそういうところになってしまったから)断言はできないが、この感想が確かならば、それはゲームどころか、全ての娯楽を否定してしまうようなものだからだ。
もしくは自分のお客さんに喧嘩を売るようなものだ。

だからといって、この映画を「不謹慎だ!」、「上映停止だ!」とかやってしまうと、それはそれでダメではあるが、版権元として「チミチミ、そういうのはちょっとドラクエでやらないでくれたまえ」というひとことがあっても良かったじゃないか。

観てない僕が言えるのは、そういうことだ。

やっぱり、ドラクエは好きだから、悪評が立つのは残念なんだよな。

ところで、この映画を観るつもりが“なかった”とさっき書いたのだが、逆にネタバレ感想を読んだことで、「実際はどのくらいダメなのか」を知りたくなって、観に行きたいと思うようになった。
「目に見える地雷を踏みに行く」という傾いた行為ができるのは、すごく贅沢であり、ロックな感じがする。

そう思っていたら、友人が「観たい」ということをTwitterで呟き、そこから一緒に観ようという話が1日で決まって、まさにこのブログ公開した直後、劇場で観ることになった。

果たして、ネットの感想は事実なんだろうか。
本当にダメ映画なんだろうか。
そういう視点で映画を観るのは初めてだけれども、逆に楽しみでもある。

観ての感想はまた明日。

回復基調

よく寝た。

9時間16分。
快眠度は93%で、友人が「このアプリは睡眠時間が長ければ快眠度が高くなる」と言っていたけど、結局、そういうオチなのかもしれない。
でも、おかげで朝起きてから体調はすこぶる良い。なんとなくやる気もでている。睡眠ってやっぱり大事なのだ(←暗示にかかりやすいタイプ)。
ただ鼻をすすり気味で、喉もイマイチ本調子ではないが、考えてみたら喉については絶好調な日のほうが少ないので、これは平常運転なのだろう。

思い立って『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』を再度鑑賞。
3Dで観るチャンスは今日しかなかったので、予定を他にやりくりして、前回同様IMAX3Dで鑑賞してきた。
色々な意味で「映像」が肝の作品なので、せっかく劇場で観るなら没入感の高い3Dのほうが良かったのだ。

前回観た時も「傑作」だと思ったけれど、2回目観たら「大傑作」に評価が上がった。
謎がすべてネタバレされた小説を読み直す感覚なんだけれど、それゆえの安心感もあり、逆に、この場面でこのキャラクターはどういう思いでいるのかを見抜こうと、それを演じる役者の演技に注目しながらの鑑賞が超楽しかった。
あと前回も一ヵ所泣いたシーンがあったけど、今回は2ヵ所で涙ぐんだよ。
よくできた脚本、アクション映画としてのテンポの良さ、さらに全体を通してのコメディセンスといい、シンプルな恋愛観といい、僕の好きな映画の要素が全部入ってるから、好きなんだなーとも改めて思った。
同じ映画を2度劇場に観に行くというのは、僕にとっては珍しいことなので、ブルーレイまで待つか、とも考えたのだけれど、1回目を見終わってから、ずっと「あのシーンはどうだっけ?」とか「あそこでどういう態度だったっけ?」と、モヤモヤしていたものが、今回スッと解消された。
あとハッピーな気分で映画館を後にできた。前回の鑑賞後は自分が思っている以上に打ちのめされてたんだと気づいた。
そんなわけだから、気になっているものは、とっとと済ませてしまったほうが良いのかもしれない。

それから、来週、思いがけずにまた“夢の国”へ行くことになったので、本気のタイムスケジュールを作り始める(前回うまくいったので味をしめた)。
ただファストパスの仕組みが変わったり、新アトラクションが始まったり、なにより夏休み期間といった部分で、展開(混雑具合)が読みにくい。でも準備だけはしておくのだ。

その「夢の国計画」を立てるのと、ブログ更新のために、喫茶店で作業しようと思ったら、夏休みのせいか、どこの喫茶店も混雑していて、ようやく4件目の喫茶店で落ち着いて、このブログを書いているのだ。
夏休み侮りがたし。

若いカップルとか(カップルってなんであんなに楽しそうなんだろう)、はしゃぐ子供たちを見たりして、夏を満喫してぇなー、と思いつつ、今日はおっさん同士の飲み会。
それもまあひとつ「満喫」だ(よね?)

みなさんも夏をエンジョイしましょうね!(ややヤケ気味)

『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

リブートした『スパイダーマン』映画の2作目であり、『アベンジャーズ/エンドゲーム』で一旦ケリのついた物語の後日談でもある。

ネタバレはしていませんが、察してしまう部分もあるのでご了承ください。
事前情報なしで観たい方は、観てから読んでいただけると嬉しいです。

『アベンジャーズ』でめちゃくちゃになってしまった複雑な設定を力技でまとめていて、前作の「明るく楽しい娯楽ヒーロー映画」路線になんとか軌道修正してスタートさせたのがすごい。

ピーター・パーカーがアイアンマンの庇護から離れて一人のヒーローとして成長する過程が、『アイアンマン』第1作をなぞる部分もあってファンとしては嬉しい。
単純な感想としては、MJ役が「ブスかわ枠」になっているのはコミックからなのか、キルスティン・ダンストの影響なのか(いや、キルスティン・ダンストもゼンデイヤも可愛いですよ。でも典型的美人ではなくて。そう考えると、『アメージング・スパイダーマン』でエマ・ストーンが演じた恋人がグウェン・ステイシーだったのは「あえて」のような気もする)とか、新レギュラーのアンガーリー・ライスが可愛いとか、役者としてのジョン・ファブローが生き生きしてて、やっぱりこの人好きだわーと思ったとか、そういうものになるのだが、本筋は、最後までフェイクとリアルの区別がつかない展開で、頭がついていけなくなった。

マーベル映画は、単純なヒーローものではない。
X-MENは差別の物語だし、キャプテンアメリカでは、国家の正義の欺瞞を描いたり、そういう何かしら考えさせられるものが込められてはいるけれど、今回は「仮想現実による嘘」という、とても身近な脅威を描いている。
僕たちは知らず知らずに深刻な問題に直面していて、同時に信じることの難しさを痛感する。僕らは簡単に騙されてしまう世界にいるのだなー、とこの映画で思う。そこにリアルな映像が入っていたら、まあ大抵のことは信じてしまう。
昔、『バトルランナー』という映画があって、主役のシュワちゃんがニセの映像によって無実の罪を着せられるのが発端なんだけれど、もう、そういうのが現実に起こりうるという世界に僕らは生きている。
ここ数年で(おそらくそれはトランプが大統領になってからだ)「フェイクニュース」という言葉が当たり前に使われるようになった。そして「フェイクニュース」というものが本当に「嘘」なのか、そうでないか、ということも含めて、僕らは判断を迫られる時代になってしまった。
この映画の展開は、そういう社会的なメッセージを持ちながら、作品自体の中でも、観客を惑わすような仕掛けが入っている。

映像技術や編集技術が進むと、悪意をもってそれを使っている人には敵わないよなーという漠然とした恐怖を感じる。
今回の敵は、戦闘能力は皆無なのに、技術と心理戦に長けていて、たとえスパイダーマンであっても苦戦を強いられるというのが面白くもあり、怖くもあるのだ(だって僕らには危機を察知できる「スパイダーセンス」がないんだもの。イチコロだよ)。

さらに、そういう思いを強くさせたのが、恒例のエンドロール後のシークエンス。
いつもは「オマケ」的なものなのに(前作のなんか、本当にひどかった)、今回は作品の根幹に関わる部分を描いていて、その衝撃が全部持っていったからでもある。
さんざん、本当か嘘か、現実が仮想現実か、というのを劇中やってきたのに、さらに追い打ちをかけるように、「え?そういうこと?」と思わされるオチ。
小説で言えば「叙述トリック」のようなことをやっているのだ。
最後まで観終わった後に、「あの場面のアレってどうだったっけ?」と、もう一度確認したくなるように作られている(観なおさなくても、あるキャラのあるセリフに違和感があったのが、これで納得したりした)。

そういうことを考えると、外見は「快活な青春娯楽ヒーロー映画」でありながら、マーベル・シネマティック・ユニバース作品の中でも異例の「ミステリー映画」になっている。心理的にジワジワくるタイプ。
こういうの好きだけど疲れる(でも、確認のため、もう一回観たい)。

信じることの難しさを描くのに、お人好しのピーター・パーカーは最適だったのかもしれないし、敵からも同情されるほどの彼の善人さがよけいに際立ち、応援したくなる。いつまでもピュアな青年でいてほしいと思うし、軽口を叩きながら戦うスタイルを続けてほしい。

そんな「えー、どうなってんの?」的なラストだったので、次の展開がどうなるのか、すぐに観たい。
単独映画は早くて2年後ぐらいだろうが、MCUに組み込まれているから、他の作品で「その後のスパイダーマン」は少し描かれるのかもしれない。単独映画として成立しているのに、続きが気になって仕方がない。
長生きせねば。

『マーティン・フリーマンのスクール・オブ・ミュージカル』

『マーティン・フリーマンのスクール・オブ・ミュージカル』を見た。

タイトルからして、マーティン・フリーマンが『SHERLOCK』で有名になった後、日本でDVD化したパターンだろう。
現題は『Nativity!』でクリスマスのキリスト生誕の演劇を題材に、教師と生徒の交流を描く“典型的な”ファミリー向けコメディ。イギリスでは好評だったらしく『3』まで作られている(マーティン・フリーマンは『1』にしか出ていない)。
それなりに楽しく観れて大団円、といった王道さは、安心して見ていられた。

マーティン・フリーマンは、こういう、ちょっと“こじらせた”大人の役がよく似合う。そして上手い。
冷めた目で世間と距離を置き、皮肉を言いながらテキトーに過ごすが、何か(誰か)に巻き込まれたときに、イヤイヤながらもそれに付き合い、なんだかんだで期待以上に成果を上げる、という感じ。この映画の教師役しかり、『SHERLOCK』のワトソンしかり、『ブラック・パンサー』のエヴェレット・ロスしかり(考えたら『ホビット』のビルボもそんな感じじゃない?)。

なんというか、しれっとしながら「ここぞというときに頼りになる」キャラクターが多い。そして上手い。
その姿を見て、イギリス人って厄介だなーと思いつつ、その「愛すべき厄介さ」(僕はこれ「男の可愛げ」だと思うんだけれど、女性にはあんまり同意してもらえない気がする)を体現できる俳優なんだと思う。好きなタイプの役者さん。

とか書きつつも、そんなに彼の出ている作品を見ていないのだけれど(『SHERLOCK』はケーブルテレビでしょっちゅうやってるイメージの「ピンク色の研究」をいつも斜め見する程度だし)。今さらながら、追いかけていきたいと思う。

『ザ・カンニング IQ=0』

『ザ・カンニング IQ=0』を観た。

これが「フランス映画」ということを今さら知った。
日本公開は1982年で、当時、この映画をヒントにした日本のコントを見た気がするが、それは「ひょうきん族」だったか「ドリフ大爆笑」だったか。

実際にカンニングする場面がでてくるのは物語の後半で、あとは、いかにサボるかと、教師にイタズラするかということに邁進する予備校生の姿を描く映画。
予備校を舞台にしたショートコント集のような構成で、やってることは本当にバカバカしい。でも、コントをつなげたような同じ構成のハリウッド産『裸の銃を持つ男』や『ホットショット』に出てくる、大爆笑かスベるかといった一発ギャグを連発するというのではなく、クスリと笑えるようなものが続くのが、フランスならではだろうか(“エスプリが効いてる”って奴?)。
いや、それでも相当やってることはくだらないが(えげつないのもある)。

主演はダニエル・オートゥイユで、この映画のヒットで人気が出たらしい。
今では渋い演技派というイメージで二枚目の印象はないけれど、さすがに主役を張るだけあって、この時から華がある。あとアクは強いが顔立ちもそこそこイケメン。

とことん教師をバカにして出し抜こうとする学生と、それをあえて受けて立つ教師の応酬に、なんでここまでやるかなーと思ったりするが、学生ってそもそも、すごくくだらないことに一生懸命になる年頃のように思うし、それはフランスも同じならば、と、ちょっと微笑ましかったりした。

大人になると(興味のあることに関してだけど)、言われなくても勉強するというか自分から学ぼう、と知識欲が活発になるのに、なんで学生って勉強したくないんだろうと考えてみると、勉強はすぐに効果が出るものではないから「かったるくてつまんない」というのと、それなら、もっとすぐ享受できる楽しい娯楽や恋愛をしていたい、と思うからだろうな。
それが若さというものだろう。こう、感覚的に「楽しい」ものに惹きつけられるのだ。
とはいえ、大人になっても、大事なやるべき仕事に手がつかず、漫画読んじゃったりする時もあれば、感情的になってバカをやるときもあるから、この映画で描かれている応酬は、正しく「若者VS大人」なのかもしれない(コント映画でそこまで考える必要ないね)。

続編もあるので、それも観て、フランスのコントについてもうちょっと「勉強」してみたい。
カンニングなしでね!(スベった)

脱力

今月に入ってから、頭にずっと引っかかっていた仕事上の気掛かりなことが今日終わった。

良かったのか悪かったのか、は、後になってみないとわからないのだけれど、ともかくは解放された感じだ。
頭に引っかかっていたと言えども、それほどのことでもないと思っていたはずが(どっちだよ!)、想像以上に緊張していたのか、終わった途端に軽い頭痛がしてきた。悪化しないように気をつけよう。

さて、これが片付いた後にやろうと思いついたことが自分の一番やりたいことなのかなー、などと考えていたのに、ちょっと何も思いつかない。
強いて言えば部屋を片付けたい(強迫観念に近いな)。
一日寝たりすればまた考えが変わるのかもしれないから、とりあえずゆっくり休もう。

そんな中、ようやく『アベンジャーズ エンドゲーム』を観た。
自分のマーベル鑑賞歴を(一旦)完結させようという思いと、ネタバレを回避できない、という思いがちょうど合わさった日に観れた気がする。
ずっとこのシリーズに付き合ってきた者としては納得の内容(予想したものとは違ったけれど)。詳しくはまた今度。
ただひとつ言っておくと、完全に「いちげんさんお断り」の映画だから、これだけ観てもちっとも面白くないと思う。これを観てから、シリーズを遡るというのもオススメしない。デートムービーでもないので、カップルで観にいくなら二人とも「マーベル大好き」じゃないと、知らないほうが置いてけぼりになっちゃうゾ!
あ、僕?僕は一人で観たから大丈夫(ほっとけ)。

さて、明日からまた仕切り直して頑張ります(このブログもね)。

『デッドプール』

『アベンジャーズ エンドゲーム』をまだ見ていない。

『アイアンマン』を観て大ファンになって以来、僕は、それからこのマーベル映画シリーズ(マーベル・シネマティック・ユニバース=「MCU」)の作品は全部観てきたわけで、その集大成である『エンドゲーム』は公開初日に観に行って良いはずなのだけれど、これが最後だと思うと、なかなか観る勇気がないのも事実。
すごく楽しかったロールプレイングゲームの最後のダンジョンで逡巡したり、面白い小説の最後を読むのを躊躇うという気分に近いのかもしれない。
でも、そろそろネタバレをネットで拾ってしまいそうなので、近々観ます。

『エンドゲーム』が観れないから寄り道、というわけではないが、同じマーベル映画(でも配給会社が違うので「MCU」とのつながりはない)の『デッドプール』がJ-COMでやっていたので観た。

アメコミヒーロー映画ではあるが、デッドプールは復讐のために自分を改造した奴らを始末するアンチヒーローのような存在で、そのキャラクター同様、映画もヒーロー映画を皮肉るような演出が満載。前半はちょっとグロっぽいのもあるので食事をしながら観るのは危険だな、と思った(実際にそうなった者の感想です)。

アクションは派手で、スタイリッシュだが、基本は悪趣味コメディで、そのノリが好きならば楽しめる。ヒットして「2」まで作られたところを見ると、このノリが受け入れられたのだろう。アメリカだけでなく日本でも受け入れられたのは不思議だけれど、考えてみれば『テッド』も悪趣味コメディなのに、テッドの可愛さだけで大ヒットしたしな。『テッド』と言えば、当時、日曜の銀座に見に行ったら満席で、友人(男性)と離れた席で見た。まわりほとんどカップルだったが、あの映画はカップルで見るもんじゃない。あの時、劇場にいたカップルたちの行く末をちょっと知りたかったりする(下世話)。

話がズレたが、『デッドプール』はヒーロー映画としては王道ではないが、アンチヒーロー映画としては王道な出来。
マーベルスタジオも、この映画の配給会社である20世紀フォックスも、ディズニーの傘下になったことで、デッドプールも「MCU」に参戦するのでは?という噂もあるが、これはこれで独自の道を行ってほしい気がする(パロディはよりやりやすくなるだろうし)。

『グリーンブック』

映画『グリーンブック』を観た。

第91回アカデミー作品賞を受賞した作品で、黒人差別がテーマの映画。
大作ではないので、そのテーマがアカデミー賞をとった一因かなと思う部分はあるが、アカデミー作品賞という冠がなくても、すごくいい映画だった。

「黒人差別」と言っても、僕にはあまりジャストでピンとこない部分がある。当然その歴史は知っているのだけれど、アメリカで根付いている「差別」というのは僕のような日本にずっといる日本人が考えるよりも、実際に体験をしている人たちの実感にはとてもかなわない。
学生時代に国際法のゼミをとっていた友達が、差別について論文を書こうとした時に「色」と言う言葉を論文のタイトルに使おうと思ったら、担当教授から「色」と言う言葉自体がもう差別なんだよって言われた、と聞いてなんとも難しい世界だなと思ったりしたが、実際にこの映画の中では法律で黒人が差別されても良い、差別するものなんだということが常識になっている時代が舞台になっている。

なのでテーマは重いのだけれど、ただこの映画が素敵だなと思うのは、そういう環境にある物語でありながら、メインになっているのが、2人の男性の理解のしあい、友情の育みで、大上段から差別がどうの、差別がいけないみたいなことを訴える映画ではないことだ。だからこそ、より差別について考えさせられるのだけれど。

ただただ黒人差別の法律があるという理不尽さが淡々と描かれていて、そこでやはり主人公2人はぶつかるし、悩む。
特に黒人ピアニスト ドクター・シャリーは天才的なピアニストで、アーティストとしては賞賛されるのに、一個の人間になった途端に差別が始まる。
あからさまな暴力などは、例えば夜の飲み屋とかで行われたりして、それはもちろん衝撃的ではあるけれど、それ以上に普通のレストランに入れないとか、洋服が買えないとか、店の人や警察が「まぁ黒人なんだからそういう扱いをするの当たり前でしょ」と考えているシーンが出てきて、これが法律で決められてるって、やっぱりこれは理不尽だったよね、っていうことを自然に思えてくるのではないだろうか。

主人公トニー・リップを演じたヴィゴ・モーテンセンは、本当に上手い。
ニューヨークの下町育ちで、多少の悪事も全然大丈夫、何事にも動じないみたいな、そういうキャラクターを違和感なく作っていて、粗野なとっぽい感じの、でもあのどこか憎めないお茶目さがあるところが面白い、いいキャラクターを演じていた。
ドクター・シャリーを演じてアカデミー賞をとったマハーシャラ・アリも、何事にも動じない信念の強いアーティスティックな面と、(黒人としてだけではない)彼ならではの孤独さが伝わってきた。

この映画は差別という重いテーマを持ちながらも、基本的に笑いの部分、それはズレの笑いだけど、2人の環境のズレとか、生きてきた世界観とか、見ているものの違いからくるズレをおかしく描き、結局“珍道中”になるところがあって、そのやりとりの面白さ、おかしみみたいなものがとても楽しい。
黒人が差別されて当たり前という南部に、いかに凄腕の用心棒というか、揉め事処理屋みたいな人を雇っていくとしても、やっぱりそれは大変な挑戦で、命の危険に晒されてドキドキハラハラするシーンもあるが、最後の最後までとても良い映画だった。
もちろん差別について色々と考えさせる作品だけれど、それ以上に、違いの多い二人が友情をはぐくみ、お互いに理解が生まれるという点に、人と人のつながりの可能性を感じて胸を打たれる。
とても素敵な映画です。