コンタクトレンズ購入の今

使い捨て(2週間)コンタクトレンズを使っている。

買っておいたのがしばらく溜まっていたのだが、今回1年ぶりに買いに行った。
コンタクトレンズは割引が多くて、もうどれが適正価格なのかわからなくなってしまっているのだけれど、さすがに手持ちがなくなってしまうと価格を比較していられないので、大手チェーンのコンタクトレンズショップへ行ってみた。
コンタクトは医療器具に入るため医師の診断書が必要で色々な検査をさせられて、これが購入の際に面倒くさくなる理由なのだが、昔とくらべて随分簡略化した感じだ。
今日行ったところでは、コンタクト購入者ならおなじみの「気球を見る奴」(正式にはオートレフケラトメーターというそうです)が、手持ちスタイルになっていて、額にくっつけられながら気球を見させられ、なんだか「トータル・リコール」みたいな気分になった。
あの嫌な風がびゅっとくる奴(眼圧測るやつだ)もなくてホッとした。コンタクトレンズも、ずいぶんと普及したので、適正ギリギリのラインで買えるように工夫しているのだと思う。
昔、よく通っていた眼科ではやたらレーシックを薦められて、不信感がつのったりしたけれど、そういうこともなく、すんなり購入できた。
半年分購入したのでこれで半年は安泰だけれど、コンタクトをしつつ伊達眼鏡をしたくなる、この気持ちはいったいなんなんでしょうかね。オシャレなんでしょうかね。

「わろてんか」がイマイチ面白くない理由

かつて朝ドラを一度もまともに見たことがないのに、主役の葵わかなの魅力にひかれて「わろてんか」を毎日録画してみている。
だけれども、どうしてもいまひとつ面白くない。

葵わかなはベストアクトとは思わないが(「ボキャブライダー」のポテンシャルからしたら、もっと笑いの“間”のセンスがあると思うのでコメディエンヌ方面に演出してほしい)座長らしい立ち居振る舞いをしているし、濱田岳はあいかわらず芸達者だし、高橋一生は求められている御曹司像の中に、高橋一生らしい陰(というか狂気)を含んだキャラをつくって存在感あるし…

と、役者自体は魅力的なキャストが揃っている。

話としても、鈴木京香演じる義理の母から認められた回や、月の井団真の復活(これまた北村有起哉がとても良かった)、アサリとおじいちゃんの家族愛、など感動するエピソードは挿入される。…なのだが、本筋がパッとせずに盛り上がりにかけるのだ。

面白くならない理由はいくつか考えられるのだが、その中でも気になったのは、お金がらみのトラブルが簡単に片付いてしまうことだ。

寄席を買う資金がないときは、勘当された実家に頼んで用立ててもらう。これはまあわかる。
人気落語家月の井団吾の独占契約金1万円は、どうやって工面したかわからないけれど、払ったこと(というか団吾師匠を独占できた)ことになっている。ここでちょっと、そのお金どうしたの?という疑念が浮かぶ。

そして、先週。

芸人たちを寄席に出してくれる胴元とトラブルになり、芸人を出さないといういやがらせの末、寄席があけられずにあわや倒産の危機、というような展開になる。結局、この胴元のあまりの卑劣ぶりに芸人たちが反旗して、主人公の寄席で直接雇ってくれるよう大量に押しかけてくるのだけれど、これで芸人は確保できたものの、胴元から全員の借金1000万を払え、と脅されてしまう。

どうすんの?っていうときに

「私にまかせといてください!」との頼もしく返事をしたてん(主人公の名前)は、ずっとコツコツ貯めてつくった1000万を取り出し、芸人たちの借金を返してやるのでした。

って、なんじゃいそれ!

いや、何か意味ありげに「壺」(貯金=へそくりが入っていた)をじっと眺めるシーンが今週盛り込まれてたので、何かあるとは思っていたけど。

頑張って貯めてました。
で、解決されても全然感動しない。っていうか、それまで「お金があったら色々できるのになー」と、お金のことで悩むシーンが結構あったのだから、それがあるならもっと前に上手く使う場面あったんじゃない?とも思う。

万事休すの場面を「実は貯めてました」「実はもってました」で、解決されても感情移入できないし、シラけてしまう。

ストーリー上、人の情に頼って問題を解決するのはまあわかる(出来過ぎではあるけど)。今回も、そういう方向で解決したならば「お話」としては納得できるのだが、ただ実話を元にしているだけに、実際も苦しんだであろう「お金の問題」がふってわいたような話で解決されてしまうところが、「わろてんか」がイマイチ面白くならない理由の一つだと思ったのだ。

その後の、大量の芸人を雇って、寄席小屋を10軒に増やしてますます繁盛した、という部分は、この物語の中ではかなり盛り上がる部分だと思うけれど、詳しく描かれることなくあっさりとナレーションで駆け抜けてしまい「わろてんか 第一部 完」なのかと思ってしまった(「少年ジャンプ」で打ち切りが決まった漫画の最終回の唐突な展開ぐらいの速さだった)。
でも今週は、そんな大きな展開があったこともさほど関係なく、安来節がなんちゃらみたいな普通の話がまだ続くのだから、今後どうやってさらなる盛り上がりをつくるつもりだろうか。

とはいえ、
ちっとも面白くなかった「後ろ面」も相方ができてようやく面白くなったし、今後は新しい芸人が出てくるそうだし(広瀬アリス演じるリリコも復活するし)、なんだかんだで役者たちの魅力にストーリーも追いついていってほしい。来年に期待。

それぞれのクリスマス 2017

クリスマスとはいえ、僕にとっては、さほど「クリスマスっぽいこと」をする日ではない。

小学校がカトリックの学校だったので、幼少の頃はキリスト教的なクリスマスの印象が強い。クリスマス会で預言者の役をやったのも覚えている(考えてみれば、長台詞の多い難役だった。よく自分がやったものだ)。

そのまんま、サンタクロースが夜中にこっそりきてプレゼントを置いていく家庭で育って、物心ついたらクリスマスは恋人と過ごすものになっていたので、恋人がいた時は一緒に過ごしたし、いない時は(学生時は特に)寂しい想いをしつつ一人もしくは家族とやり過ごしてきた。

それからずいぶん大人になり、今も恋人のいないクリスマスはなんとなく寂しいけれど、バブル期でもないわけだし、それなりに歳を重ねてきたこちらとしては、365分の1の普通の日として過ごしているわけだ。それでも、街にはクリスマスっぽいものが溢れているわけで、それを見かけると、「ああ、クリスマスなんだなー」というのを自覚する。クリスマスというのは今の僕にとってはそういう日なのだ。

日時の関係もあって、このクリスマスの夜にオンライン英会話のレッスンを入れたのだが、顔なじみのフィリピン人の女性(20代)の先生が、開口一番、「Merry Chiristmas!」と挨拶したので、それを聞いて、クリスマスであることを思い出した僕は、つい「メリークリスマス!でも、僕にとっては普通の日だけどね」という反応をしてしまった。

それに対して「Why???(えー、どうしてー?)」と、あまりにも素のリアクションをされてしまい、「あれ?」と思ったわけである。

僕は別にクリぼっち(っていうこの言葉自体どうかと思う)を3000km離れた彼女にアピールしたかったわけではなく、「日本ではクリスマスを別にそんなに特別な日だと思っている人ばっかりじゃないし、なんとなく浮かれるけど普通の日だと思っている人はけっこういて、僕もその一人」という意味であって、そんなような説明もしたのだけれど、上手く伝わらなかったように思う(拙い英語だしね)。

フィリピン人の(そして彼女にとっての)「クリスマス」というのはどういう意味を持つのだろうか。

宗教的な意味合いで、きっちりした祝福の日として捉えていたのなら、失礼な答えだったな、とも思うし、日本のクリスマスのイメージについて、もっと説明できたらよかったな、とも思う。そして、僕にとってのイメージも。

一昔前よりも世の中は画一的なクリスマスの過ごし方から少しはずれてきたように思うから、僕なりのクリスマスの過ごし方をちゃんと言えたら素敵だったな、と思い、もっと英語を勉強しようとも思ったクリスマスの夜。

で、自分にとって、今年のクリスマスがどんな日か、って言うと、会議の多い仕事を終えて、英会話のレッスン受けて、いきなり!ステーキでステーキ300gを食べ、帰ってからWILD TURKEY(バーボン)を飲みながら、Yes,mama ok?の名曲「Wild Turkey」を聴いて歌う、という日でした。

365分の1とかいいながら、それなりに楽しんでんじゃん、俺。

神話としての「エピソード8」

「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」(エピソード8)を観てきた。初代、つまりEP4は劇場で観てはいないけれど、ハン・ソロの吹き替えを松崎しげるがやった例の奴はリアルタイムで観たし、その後も旧3部作は特別編を劇場で観て、DVDセット(ヘイデンが出てるアレだ)も持っていた。マニアを語るほどではないが、十分スターウォーズ好きではある。

そして、僕はEP1が一番好きという、スター・ウォーズファンからしたら多分変わりものだ。なぜ好きか、っていうと、クワイ・ガン・ジンが大好きだから。オビ・ワンと一緒にダース・モールと戦うシーンは何回でも観れる。あと、政治力が低くて立ち回りが下手なあたりも武人っぽくてカッコイイ。
それと新3部作(EP1~EP3)は大人になってからリアルタイムで体験した「スター・ウォーズ」サーガだけあって思い入れが強いのかもしれない。EP4~EP6と合わせ鏡のようになっている物語展開も(元を知っているだけに)感慨深い。

さて、このEP8を観る直前に、友人がスマホでEP7をダイジェストで観せてくれたので、前作をさらっとおさらいできたのが良かった。忘れてる部分がかなりあって、改めて「面白かったんだなー」と再認識。しっかりとEP4をトレースして、新たな3部作(今度は未来へとつながる物語だ)のはじまりを上手くスタートしたと思う。主人公がくすぶっている前半の冗長さも含め、これぞ「21世紀のスター・ウォーズ」といった作品に仕上がっていた。レイはルークの、ポーはソロの、カイロ・レンはダース・ベイダーの、そしてフィンはレイアとドロイド達、さらにランド・カルリジアンをミックスしたような役割を与えられ、EP4~6におけるキャラクターの肩代わりをする形で活躍した。

そんなわけだから、今回も、満を持してルークが登場するとはいえ、だいたいは予定調和の中で物語が展開するだろうと思っていたのだが、だいぶ様相が変わっていた。

スター・ウォーズの世界をひとことで言ってしまえば「銀河を巻き込んだ壮大な親子喧嘩」なわけで、今回もその背景は続いている。ただ、アナキンの物語やルークの物語と大きく違うところは、選ばれし者が全てを解決してくれるわけではないところ。
神話の中心には、フォースやジェダイや暗黒卿やら、と選ばれし者たちが出てくるものの、今回の映画の中で描かれる物語は、一般兵士同士の戦いだ。だから失敗もするし、「なんだかんだあったけどフォースの力で一件落着する」ということもない。
物語が進むほど、レイ達主要キャラクターは、それぞれ神話の始まりで与えられた役割から外れていく。言い換えればこの作品で「過去作の代理キャラクター」ではなく、独自のキャラクターとして解放されていくのだ。

今まではこの物語の中心は選ばれし親子だったし、結局は親子が和解することで平和が訪れた。それこそが「スター・ウォーズ的なもの」とするならば、この物語の展開は本当に先が読めない。
ただ「スター・ウォーズ」が現代の神話なのだとしたら、この2010年代後半の世相を描いて後世に伝えるという意味では、たしかに神話の役割を果たしている。
正義の戦争などなくなってしまった現代の戦争の背後にある問題も抱えているし、何より一人のヒーローが戦って勝つのではなく、特別な力を持たざる者達が勇気と知恵をあわせて立ち向かう姿が描かれている。それだけに、持たざる者たちが使えるのは数=命であって、玉砕覚悟の攻撃が多めだったのが痛ましかった(そして、それが報われない場合も多々ある)。

EP7が、衝撃的な展開もありながら、それなりに明るい物語に終始したのに、今回ややダークな展開になったのは、昨年の『ローグ・ワン』の影響もあるのかもしれない(あれはまさしく持たざる者たちの物語だった)。また、それこそがどことなく陰を落としはじめている2017年の世相を映す神話の役割なのかもしれない。

壮大な親子喧嘩を中心としながらも、物語の中心は旧作の殻を破ったキャラクターにゆだねられた。この神話に、最後どうオチをつけるのか。最終章が楽しみになるエピソードであるとともに、この神話がハッピーエンドで終わるためにも、公開が予定されている2019年が明るい兆しを持った年となっていることを願わざるをえない。

アマチュアオケの先にあるもの

石神井インターナショナルオーケストラの第4回定期演奏会に行ってきた。

友人の、ヴァイオリニストで指揮者の西谷国登さんが音楽監督をしている関係で、団員の方々とも親交があり、何かとご縁のある「石オケ」だけれど、客席から演奏をじっくりと聴いたのは、第1回の演奏会以来だった。

メンバーのほとんどが知り合いなので、いわゆる「友達」の演奏会を聴きに行く、という体ではあったのだけれど、その演奏たるや西谷さん(そしてインストラクターの先生方)のお力か、アマチュアオケといえども、きちんと「個性のある」演奏を聴かせる内容だった。

あとで聞いた話だが、西谷さんは第4回となるこの演奏会を「レベルアップの場」として位置づけていたらしい。
その証拠となる楽曲が2曲目のメンデルスゾーン 弦楽八重奏 変ホ長調 作品20だろう。
本来4パートに別れるところを倍の8パートで演奏するこの曲(コントラバスも入るので実質9パート)。同じ譜面で弾くメンバーが少なくなるし、別の音が多く入ってくる分、個人の力量(責任と言い換えても良いかも)が問われる。一歩間違ると、知り合いじゃなければ「聴くに耐えない」内容になる恐れもあるのだ。

だけれど、この日の演奏は、見事にそんなことを微塵も感じさせない、まとまりのある、そして八重奏ならではの広がりのある演奏をしてみせた。僕は、これをアマチュアオケという立場に甘んじない、市民オケとしての矜持に感じた。

(これは僕が個人的に知っているからだが、)石オケのメンバーひとりひとりはすごく個性的だ。逆説的に言えば、どのオケもきっとひとりひとりは個性的に違いない。ただ、それを「オーケストラとして演奏する」という共同作業に載せたときに、時にはバラバラな個性を発揮したり、ときには窮屈な演奏にまとまったりする。石オケの演奏は、それぞれの個性を感じさせながらも西谷さんの指揮、そして各パートの結束力でそれをひとつの「楽曲」として昇華してみせた。それは決して「知り合いだから」で納得させる演奏ではなく、市民オケとして十分に聴衆を満足させられる演奏だった。

昔の話だが、実業団のアメリカンフットボールの大会を観戦したことがある。それはふとしたきっかけで、そのチーム(ちなみにアサヒ飲料チャレンジャーズ)のファンになったからなのだが、実業団の応援は、ほとんどが、チームメンバーの家族、友人、関係者で、僕はどちらかと言えばちょっとしたきっかけで観戦した人間だったと思う。でも、その試合はとても楽しかったし、充実した時間だった。

石オケの演奏も、きっとそういう、ちょっとしたきっかけで鑑賞した人に充実した時間を与えられたと思う。いや、もちろん全ての演奏がパーフェクトとは言えないだろうし、まだまだできてない部分もあるだろう。
だが、今後、そういういわゆる「いちげんさん」でも楽しめるオケになる可能性を十二分に感じさせる演奏会だった
(もちろん、それは、1曲目のモーツァルト ディベルティメントK.138を、指揮台につくやいなやスタートさせる演出や、八重奏の前に、曲の聴きどころ解説をするという演出が一役買ったという点も記述しておく)。

弦楽八重奏という、テクニカルな(ある意味トリッキーな)演目をこなしたことで、僕はこのオーケストラはフェイズ1を終えたと思っている。
来年はフェイズ2に入り、また新たな挑戦と、より石神井インターナショナルオーケストラならではの個性を発揮した演奏を聴けるのではないか。
そう期待して、今後も応援していきたい。

浅田真央の引退に思う

浅田真央選手が引退した。

さほどフィギュアスケートに詳しくない僕でも、真央ちゃんの試合はジュニアの頃から見ていたし、当時はオリンピックで金メダルを取るものだと思っていた。多分、日本国民のほとんどがそんな感じだったろう。

その才能だけでなく、可愛らしい容姿から「国民的アイドル」的存在でもあった。
選手としては、トリプルアクセルという他の女子選手ができない武器を持ち、そこにこだわるからこそ、なかなか結果(順位)がついてこなかった部分もある。

フィギュアスケートという競技は、他のスポーツのような距離やタイムといった明白な基準だけではなく、スポーツではなく「芸術点」(正しくは「構成点」)という至極あいまいな要素が大きく関わってくる。
ライバルだったキム・ヨナよりも難度の高い技を決めながらも、点数が追いつかないという現象は、バンクーバーオリンピックでの結果と嫌韓のムードも手伝って、ジャッジの買収を疑う者や「本当の点数検証動画」などがネットには出回った。
その流れの中で、浅田真央は「アイドル」本来の意味合いである日本の「偶像」として、重荷を背負わされているようにも思えた(かくいう僕だって、キム・ヨナ選手の得点は高すぎるとは思っていたけれど)。

その重荷はライバルの休養や、他の有力選手が注目される中で薄まり、国民全てが「真央ちゃんに金メダルを取らせたい」という純粋な思いで応援できるようになったソチオリンピックでは、ショートプログラムでまさかの16位。
本人にとって、競技人生で最大にして唯一の目標であっただろう(そして年齢を考えればラストチャンスだった)オリンピックの金メダルが絶望となった時、本人のショックは想像を絶するものだったに違いない。

「もう浅田真央のオリンピックは終わった」と誰もが思ったその状況で、浅田真央は完璧なフリーの演技をみせた。それは、ともすれば「ダンス」や「芝居」のような、エンターテイメントと同様にみなされてしまう「フィギュアスケート」というスポーツが、紛れもなくアスリートの競技であることを僕達にまざまざと見せつけた瞬間だったように思う。
(このソチオリンピックでの演技について、昨年亡くなった竹田圭吾さんが書かれたブログ記事「彼ひとりの夜にとっての浅田真央」は名文なので、ぜひ読んでほしい)

若手が台頭してくる中、思うような成績がでないのは辛かっただろうし、なんとなく休養後の浅田選手には悲壮感が感じられた。女子フィギュアのオリンピック枠が2枠になったことも、引退を決めた要因かもしれない。

それでも、浅田真央は日本だけでなく世界のフィギュアスケート界に大きく貢献した選手であり、真央ちゃんは実力を兼ね備えた稀有なアイドルだった。これからはプロスケーターとして滑る機会があるだろうから、そこで伸び伸びとした演技をみせてほしい。
いや、これは僕が見たいだけかもしれないが、日本国民のほとんどが同じ思いだと予感している。

気軽にGO 近場の温泉

独り暮らしを初めてから、自宅ではシャワーで済ますことが多くなったせいか、スーパー銭湯とか温泉施設に行く機会が増えた(もちろん誘っていただく機会が増えたのもあるけれど)。
そんなわけで自宅近辺で話題になっていた公衆浴場に行ってみた。

まずは豊島園駅にある 豊島園庭の湯
豊島園といえば、子供の頃遊園地「としまえん」の木馬の会(いわゆる年間パスポート)に入っていて、初ジェットコースターも、初お化け屋敷もここだったので、そのそばに温泉施設ができたのを思うと、感慨深いものがある(ブラワーエンジンと西洋おばけ館が好きでした)。
庭の湯は「スパ」を謳う施設なので、リラクゼーションエリアや岩盤浴、幅広いマッサージメニューがあったりと高級路線ではあるが、平日の夜6時以降に行ったので基本料金1,295円でかなりお得だった。
豊島園駅というのが少し不便ではあるけれど、内容と料金を考えると、こういうスパ系ではコストパフォーマンスが高い。月2回ぐらいで通いたい。

で、今日は西武池袋線沿線 桜台駅の久松湯に。
ここは浴場でプロジェクションマッピングが見られるという「オシャレ銭湯」で話題になっている場所で、一度行ってみたいと思っていた。
感想としては、文字通り「オシャレ銭湯」。
お客さんもほとんど地元の人のようだし、地域に密着した施設になっている。露天風呂もあるが、サイズは小さめ。料金も460円と低価格だけれど、タオルレンタル代、ドライヤー使用料、サウナ使用料は別だし、石鹸やシャンプー類も置いていない(ミニサイズのを安価で購入できる)。そのあたりも地元の人がそういうものを持参して入りに来ることを想定しているようだ。日曜だったせいか風呂場は結構な混み具合。こども連れも多くファミリー感が強い。建物も中身も近代的だけれど、銭湯用具を一式入れた桶を小脇にして通うような銭湯を時代に合わせるとこういう形になるんだな、と思った。徒歩圏内にあったら週1で通いたいと思った。

同じ公衆浴場といっても施設によって特色は異なるけれど、行くとリラックスできるし、ちょっと豊かな気分になるのは共通している。これからも色々なところにちょいちょい行ってみたい。

それぞれの『誰もいなくなった』

テレビ朝日でやってた『そして誰もいなくなった』を録画していたので観た。
原作は未読、過去映像化されたものも観てはいないので「密室ミステリーの傑作」と言われるこの作品を予備知識なしで観られた。

第1夜「事件編」と第2夜「解決編」を続けてみたのだけれど、本来ならば一晩待たなければ「解決編」は観られないわけで、「これ一体どうなるの?」という上手いところで「事件編」は終わっていた。ただ、続けて観てしまうと「解決編」はオマケ感(というか3時間にして1日で終わらせていいじゃないという感じ)が強かった。沢村一樹演じる相国寺警部のキャラで持たせてた。あのキャラはこれだけで終わらせるのは惜しいので、またアガサ・クリスティ作品をリメイクする時にでてくるんじゃないかと思う。

(原作と違っている部分はあるだろうけれど)ミステリーとしては、2017年の今、トリック自体はそんなにあっと驚くものではない。誰が犯人かすぐにわかったわけではないが、だいたいの見当はついたし、偶然性に頼った部分があって、そんなに上手くいくかなーという疑問も。でもこの作品が1939年に書かれたことを考えると、その後のミステリー小説に多大な影響を与えたことはわかる。
トリックの古臭さを人間ドラマの面を推すことで、2017年に放送する難点をカバーしたおかげか、一気に見てしまうほど楽しめたのは事実で、重厚感のある映像も雰囲気があった。

そして何より渡瀬恒彦さんの遺作だったのが、録画してまで観ようと思った一番の理由だ。しかも病気をおしてこの役を演じるというのは、ものすごい神経を使ったのではないかと思う。ご本人の意志と演技がキャラクターとリンクして、ドラマを一層心に迫るものにした。それはある意味“ズルい”(渡瀬恒彦に頼ってしまった)部分はあるけれど、なにか運命的なものなのかもしれない。

 

それから、同じ『そして誰もいなくなった』が原作だというシュワルツェネッガー主演の映画『サボタージュ』を観たのだが、どこらへんが原作なのかほぼわからない(先に聞いてなければ全くわからない)映画だった。共通点は一人ずつ死んでいくところぐらい。ミステリー要素がないわけではないが、別段観る側に犯人探しをさせる気がないくらいのさらっとしたテイスト、「ミステリー風味」。血みどろのシーンが多めのごく普通のアクション映画。つまらなくはないという感想。

それにしてもシュワちゃんは老けた。“円熟味が増した”とか“味がでた”ではなく、単純に老けた。

舞台『リトル・ヴォイス』に期待

ご縁があって、舞台『リトル・ヴォイス』の製作発表会に行ってきた。

『リトル・ヴォイス』と言えば、映画版を公開当時劇場で観た。
ハリウッド大作ではなく、イギリス映画だったせいかロードショーをしておらず、銀座だか渋谷まで観に行った覚えがある。

しかしながら、映画の内容はほとんど覚えていない。
というのも、本編が始まる前にユアン・マクレガー主演の5分程度のショートムービー『Desserts』が併映されて、これがまさかのホラー。
ミュージカルドラマを観にきたはずなのに、ホラー映画を見せられるという展開で、本編の印象が完全に消されている(で、逆に『Desserts』についてはよく覚えている)。
当時を考えると「ユアン・マクレガー人気」のおかげで、この映画も話題になった部分が大きいから、ファンサービスとして併映したのだろうけど完全に裏目だったと思う。

さて、それでも「面白かった」という漠然な感想を持っているこの映画を日本で舞台化するという。主演は大原櫻子さん。
制作発表会の中で、役の“リトル・ヴォイス(LV)”として歌唱を行うシーンがあったのだが、彼女が“役”として登場した時に、映画で観たシーンが蘇ってきた。

思い返してみれば、この『リトル・ヴォイス』という作品は、普段は誰ともコミュニケーションをとれない少女が、レコードを聴くうちにその往年の名歌手の見事な歌マネができるようになって、その才能を見出される、といった内容だった。

引きこもりの彼女がステージにたった途端に、スターが乗り移ったように歌い始める。

その彼女が醸し出す、不安と歌うことの幸せが入り混じった感覚が、大原櫻子の演じるLVから強く感じられた。

しかもこの役の難しいところは、歌をしっかり聴かせながらも、歌マネとしても成立させなければならないということ。歌手としては、自分の個性とマネのバランスをとらなければならないのだが、今日、お披露目だったにしては見事なパフォーマンスだった。本番までに磨きをかければ、大原櫻子流の「リトル・ヴォイス像」をつくれると思う。

共演者の方々も、本当に面白い舞台をつくろうという気概が強く感じられた製作発表会だった。期待して観にいこうと思う。

 

舞台『リトル・ヴォイス』は、5/15〜28 天王洲銀河劇場にて上演。
その後、富山・北九州での上演もあり。