盛り上がるのはいいことだ。

ワールドカップで日本がコロンビアに勝った。

オリンピックもそうだったけれど、なんだかんだ「勝つ」ということは盛り上がる一番の要素なのだなーと思う。

僕はこの試合をダイジェストでしか観てないので、日本代表が強かったのか、良い試合だったのかを書ける要素は何もないが、監督解任した時からの期待値の低さをひっくり返す衝撃があったのは確かだろう。

次のセネガル戦は観てみよう。
で、なんだかんだで応援しよう。

テレビをつけて

午後出勤なので、昨日ニュース速報に気づかなかった件もあり、テレビをちらちらとつけたりしていた。

ちょうどワイドショーの時間のせいか、次から次へと問題、というかあまり聞きたくないような話題が続く。
あまりハッピーな話題がでてこないのだ。

もちろん、昨日、大きな地震があったのだから、それについてはしかたがないと思う。それにしても、他の話題も含め全体的なトーンが、非難だったり、批判だったり、責任逃れだったり、うやむやなことだったり、疑惑だったりして、観ていて疲れてしまう。
ああ、そうか。だからテレビ観ないようにしたんだ。と改めて気づく。

もちろんこれは時間帯によるものが大きいのだろう。
楽しいドラマだったり、良質のドキュメンタリーだったり、そういう面白い番組もたくさんあるのだと思う。
ただ、出勤前にこういう話題を観て、ネガティブな感情で仕事に行くのは嫌だな、と思ってスイッチを切った。

これは、僕の気の持ちようかもしれないけれど。

時間差

朝、テレビを観なくなってからずいぶん経つ。

なので、今日、大阪で地震があったことを知ったのは発生から約20分後の8時20分頃。日経新聞のアプリ通知ではじめて知った。
あわててテレビをつけると、どこも速報を報じていて、やっぱり大変な地震だったのだとわかる。

普段テレビを観なくても、とくに困ったりはしなかったけれど、今回ばかりはかなり焦った。速報に気づかなかったことで、自分だけが世間から切り離されているというか、遅れをとっているような感覚。
ネットがあるから大丈夫、と思っていたけれど、テレビもまだまだ必要なメディアなのだと痛感。
ようはバランスなんだろう。
そのあたりを今後は上手く活用していきたい。

ふじみ野のブルーノ・マーズ

ららぽーと富士見に行った。

郊外型のショッピングモールらしい作りで、通路が広くて買い物がしやすく、ファミリー層が多かった。
欠点はフロア移動するためのエスカレーター、エレベーターの配置がいまひとつなことだが、この手のモールにはめずらしく、フードコートの質が高かった。
こういうモールが車で行ける距離にあるのはありがたいと思う。

さて、ららぽーとの感想はそんなところで、今日の本題はそこではない。

そのららぽーと富士見で「ブルーノ・マーズの曲をアレンジした環境音楽」がずっとかかっていたのだ。
いや、ずっと、というのは語弊があるかもしれないが、僕が確認できただけで「Just  The Way You Are」、「Grenade」、「The Lazy Song」が(「Liquor Store Blues」もあった気がする)、さらには「Uptown Funk」までかかっていた。
そして全てカバー。

ブルーノ・マーズに限った話ではなくて、ビートルズやビリー・ジョエル、マイケル・ジャクソンといった有名な洋楽の環境音楽(たいていはアコースティック)アレンジが店でかかることは多いが、どちらかというと、こういうのは“揶揄される”楽曲なのだと思う。
それはモノマネでもなく、誰が歌っているか、誰がアレンジしたか(インストの場合も多数)などに言及されることもない。原曲よりも「良い」わけでもなく、なぜアレンジしてまで流しているだろうか、と不思議に思っていた。

でも今日、ブルーノ・マーズの曲のアレンジを聴いたら、原曲をそのまま流すと強すぎてショッピングのBGMには合わないのだ、と改めて気づいた。
それに、知ってる曲だしメロディラインは心地よいし、オリジナルの環境音楽を流されるより耳馴染みがいいのだ、ということにも気づいたのだ。
これまで、こういう“謎アレンジ”(とあえて言ってみる)って、作る意味があるのか?とまで思っていたのが、「ああ、これはこれでアリなのかもね」と納得してしまった。
それはブルーノ・マーズの力なのか、アレンジャーの力なのか、はたまたショッピングモールで買い物というTPOの力なのか(多分全部ひっくるめてだろうけれど)、音楽と環境の関係を考えさせられる、興味深い経験になった。
でも、このアレンジの方で曲を覚えて、原曲を聴いた人はどういう感想を持つのだろうか。経験のある人に聴いてみたい。

ところで、僕は20歳のときに、ちょっとした検査で手術を受けたことがある。
頸部から組織を取って検査したのだけれど(結果は良好でした)、その時は部分麻酔だったので、手術中の音はちゃんと聴こえていた。
で、その時かかっていたBGMで良く覚えているのは、チャゲ&飛鳥の「SAYYES」の外国人カバーバージョン。

なぜ手術中に、しかもなぜカバーバージョンがかかったのか。
僕はずっと手術を受けながらそのことばかり考えてしまっていた(だから手術に関する記憶はそれ以外抜け落ちている)。

手術中に「SAYYES」のカバー。
あれだけはいまだに謎だ。

『ウォルト・ディズニーの約束』

映画『メリー・ポピンズ』は見たことがない。

ただその中の一曲「Supercalifragilisticexpialidocious」はjubeat(音ゲー)でよく遊んでいた曲だった。その曲が流れる場面だけYoutubeで見たりしていたので、ほんの少し馴染みがある。
ミュージカル映画の古典だし、いつか観たいと思っているもののいまだ未見というところ。なにせ『サウンド・オブ・ミュージック』だって観たのは5年くらい前なのだ。

で、この『ウォルト・ディズニーの約束』という映画。その『メリー・ポピンズ』の映画ができるまで…というか、原作者とウォルト・ディズニーの権利を巡っての戦いというか、最終的には心のふれあいを描いているのだが…。
どうもこの原作者P.Lトラヴァースが皮肉屋というかなんにでもケチをつける人で、それは、作家ならではの気難し屋という描き方なんだろうと思ったけど、終始一貫してどうにも好きになれない。愛すべき要素があまりにもないのだ。
ディズニーのことだから、途中で想いが通じあって、心温まるハートフルな展開になるんだろうなーと思いきや、意外と最後までドライな感じ。一応、途中で分かり合える部分はあるけど。
現在パートと過去パートが交互に進行し、原作者の負った心の傷の深さは筋を追えばわかるけれど共感はできないので、そう思ったのだろう。

あと、それはすなわちメリーポピンズの登場人物である、バンクス氏(トラヴァースの父親をモデルにしている)についての物語だったりするので(なにせ原題は『Saving Mr.Banks』。確かに原題のほうが内容に良く物語っている)、ますます『メリー・ポピンズ』を観るか、あるいは原作の『メアリーポピンズ』を読むかしていないと深いところまでわからないのかもしれない。

ディズニーにしては、甘くなりすぎないあたりはかえって斬新かも。
ポール・ジアマッティ演じるハイヤーの運転手とのやりとりがとても良いので、それでまあ良かったかなー、という感想になる映画。

それにしても、アメリカ人にとって原作の『メアリーポピンズ』はどのくらいスタンダードな児童文学なんだろうか。
日本でいうと何に当たるんだろう。

『ズッコケ三人組』?

人生の先輩に教わること

ジャズピアニスト 新井栄一さんのプロデュースするシニアジャズバンドのコンサートに行ってきた。
題して「トワイライト(黄昏)コンサート」。

新井さんには大変お世話になっている関係で、シニアバンドとソロの発表会コンサートには何度かお誘いいただいている(前回は自曲を歌わせていただいていたりもする)。

いつも思うことだが、もう還暦はおろか古稀や喜寿を迎えているような方々の演奏である。人生の先輩が演奏している姿はとても素敵だ。しかも一人の人がピアノ、ベース、ドラムと複数の楽器を演奏するのだ。
これは新井さんの教育方針でもあるらしいが、楽器を複数練習することで、曲やセッションに対する理解度を体感で覚えさせる意味があるようだ。

人生の大先輩たちが、懸命に演奏する姿はとても素敵だ。
正直、上手い人もいれば下手な人もいる。ただ誰しもさすがに年の功、度胸があるというか、物怖じせずにひたむきに曲に打ち込んでいる。しかもちゃんとバンドメンバーの音を感じて、自分の入りや力配分を考えて弾いている。

「新井栄一と時代屋」というレジェンドクラス揃いのジャズマンたちがサポートしてくれる安心感はあると思うが、音楽と向き合う時、アマチュアもプロも関係なくなるのだな、とつくづく思う。
音楽を前にすれば年齢も性別も経験も関係なくなる。ただ、真摯に向き合っているかどうかは見透かされてしまう。
それはちゃんと自分の人生が音楽に載っているかどうかだ。

その点、このシニアミュージシャンたちは皆が、自分の人生を音楽に載せて奏でていた。ある人は控えめに、ある人は大胆に。
そして聴衆もその音楽に自分の人生を少し重ね合わせている。だから、その場はすごく幸せな空間になるのだ。

僕も音楽を嗜む端くれとして、強い影響を受けたコンサート。
自分も音楽に真摯に向き合わないといけない。

シンクロニシティ

残業だった。

覚悟はしていたけれど、思ったよりキリのいいところまでいくのに時間がかかった。逆に考えれば、今日やっておいたおかげで、明日は楽になるのだけどね。

そんなわけで、今日の夕飯は買って帰ることに(最近、自炊できてないので今日に限った話ではないが)。
電車に乗るまでは、唐揚げ弁当にしようと思っていた。でも最寄り駅に近づくにつれて、やっぱり牛丼(正しくは松屋の牛めし)にしようと、ふと考えが変わった。

で、家に帰って夕飯を済ませると、実家から電話が。
そうしたら、実家の母と兄も今晩は牛丼(正しくは松屋の牛めし)だったとの報告が!

なんでしょう、ただの偶然なんだろうけど、この「家族ならではのシンクロニシティ」な感じ。

そんな“すこし不思議”なお話。

打ち合わせ×2

昨日は午前中から打ち合わせだった。

会社の仕事とは直接関係ないのだけれど、とある企画に関わるためのキックオフミーティングに参加した。ランチをしながら、ざっくばらんにブレストをしていったが、とても有意義で楽しい打ち合わせになった。
参加したメンバーが皆さん鷹揚で心が広いというのもあるのだろうけど、出てきたアイディアを否定せずにキープしておくことで、あとになって他のアイディアと結びついていくのが面白かった。
あらかじめまとめていった物からだいぶ飛躍した結論に達したのだが、そのベースがあってこそ、その結論が出たようにも思えるので、やっぱり準備が大切、ということも学んだ(今さらながら)。

普段の会議もこんな感じになればいいのになー、と心から思った(ディスってるわけではありません)。

そして午後から出社して、これまた取引先と打ち合わせ。

30分ぐらいで用件は済んだのだが、話が脱線して、なぜか初対面の自分が、相手の今後の活動の方向性について相談を受けることに。
そして平然と相談に乗る自分も自分だけれど、その後1時間以上話して、予期せずにとても楽しい打ち合わせになった(最終的に世界進出の計画まで提案した)。

結局、本音をさらけだして、それから間違ってる合ってるを気にしないで、言いたいことをとりあえず言って、そこから結論を導き出すのが一番建設的なんだよな、とつくづく思った。
話し合う議題について、お互い「良くしよう」と思っているはずなのだから。
なにを選ぶかは相手次第だし、予測不可能な結論に達することもある。だけど言い尽くした以上、結論についてはとやかく言わない。そして結論が出たら、そこに向かって一致団結する。
それが本当の意味での信頼なんだろう。

ただ、それができる相手が少ないのも残念ながら事実なのだ。
だからこそ、本音で打ち合わせできる人たちがいるのは幸せなことだし、自分もそういうスタイルで行こうと思った日だった。

普段の会議の相手もそういう人たちならいいんだけどなー(くどいようだがディスってるわけではありません)。

グリーングリーン

全然違うことを書くつもりで、下書きまで用意していたが、せっかくの機会なので、今思いついたことを書く。

このブログはグリーン車の中で書かれている。

だから何だ。という気もするが、“普通列車”のグリーン車に乗るというのはけっこうな贅沢感がある。
まだ実家ぐらしをしていた時は、遠出した帰りに(だいたい品川からだ)グリーン車を何度か使ったことはあるが、最近はめったに乗らなかった。
今日、久々に使ったのは、ちょうどPCを持っていて実家に帰る日だったので、車内でブログ更新しようと思ったからだが、書く内容については、こんな「実況」のようなものにするつもりは毛頭なかった。
でも、まあめずらしいことなんで。

この時間のグリーン車は結構な込み具合で、うまく窓側の席をとれたのだが、空席は少ない。通勤列車のグリーン車はリーズナブルなおかげか、客層も老若男女さまざま(僕もそうだ)。
半2階席から見下ろすホームはちょっと優越感あるけどね。

車内販売は使ったことがない。どうせ1時間も乗らないのだ。90分くらい乗るならコーヒーとか、この時間帯ならビール買うんだけどね(このあたりに自分のセコさを感じるな)。

そんなわけで、セブンイレブンで買っておいたお茶だけをおともにグリーン車で実家に帰る道のり。
書く文章にもヤングエグゼクティブな感じがでるかとも思ったが、そうでもなさそうだ。

まあ“ちょっとぜいたくな気分のおっさん”で今日のところは我慢しておく。

ステイサムズ

「メカニック」と「メカニック ワールドミッション」を観た。
どちらもジェイソン・ステイサム主演のアクション映画だ。

ジェイソン・ステイサムの映画はハードボイルドかつ、ハッピーエンド(因果応報も含めて)ものが多く、安心して楽しめる(「パーカー」とか「セイフ」がオススメです)。
「メカニック」はずいぶん前にスカパーで観たはずだけれど、途中からの筋書きを全く覚えていなかったので、多分、出だしだけナナメ見してたんだと思う。
で、「ワールドミッション」はその続編で、なぜか僕はこれを劇場で観ようと思っていた。多分「パーカー」が面白かったから。

で、「メカニック」と「メカニック ワールドミッション」だけど、ひとことで言ってしまえば、
メカニック:なぜこの映画の続編を作ろうと思ったのか?
ワールドミッション:続編の必要性なくない?
といったところ。

「メカニック」は、なにせ主人公に共感ができない。
組織の命令で友人をターゲットとして殺害した殺し屋が、その友人の息子に同情して弟子として鍛える、という話なので、弟子に対しての複雑な思いや、殺したことがバレたときにどうするのか、という葛藤が描かれるのかと思いきや(いや、多少は描いているが)、結局友人を殺したのは組織に騙されてしまったとわかって、二人で組織のボスを倒すことに。ここまではまあいい。
だが、その後、父親殺しを知った弟子に殺されたと見せかけておいて、実は生きていて、罠をしかけて息子も殺す、という展開にちょっとモヤモヤ。
殺し屋の世界は非情である、ということなのかもしれないが、結局あなたが騙されて友人を殺さなければこうならなかったわけですよね、とツッコミたくなったのだ。「メカニック」という仇名をつけられているほど、用意周到で緻密な殺し屋なのに?!

で、続編の「ワールドミッション」は“凄腕の殺し屋”という設定を引き継いだだけなので、ならば完全新作で良かったのに、と思う。
前作はまだ、殺し方に「仕事人」的な緻密さがあったけれど、今回は銃撃戦が多くて「メカニック」感が全然なかった。映画として面白かったか、というと“まあまあ”。「ステイサム映画」らしく、悲劇になる心配はしなくてもいいけど、その中では凡庸の部類。
なので、余計「なんで続編まで作ったの?」という疑問だけが残った作品。